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「……ルカリオ? お帰りなさい。今日は早かった……のね?」
その夜、マリアは珍しく早くに帰宅したルカリオを、驚いた顔で迎えていた。
夕食の用意もしていたが、こうして彼が帰ってくるなどとは思っていなかったのだ。そう。新婚でありながら、もはやマリアは彼が帰宅することに驚くほどになっていた。
「ああ。今日は良いニュースがあったからね。君と祝おうと思って、早く帰ってきたんだ」
ルカリオは機嫌の良さそうに笑い返し、自室へ着替えに入る。
「あの、良いニュースって?」
「あとで教えてあげるよ」
そう言って自室へ消えたルカリオの顔を思い浮かべながら、マリアは首を傾げる。
良いこと、とは一体なんなのか。そしてそれを、自分と祝いたいという。
ルカリオの考えが読めず、マリアはただ首を傾げながら、夕食の用意に戻った。なにはともあれ、ここしばらく作り続けていた料理が、ようやく彼の口に運ばれるようになったのだ。それは嬉しいことだった。
◇
「君が以前いた会社――たしかガゼットと言ったか。そこの社長が結婚したそうだよ」
グラスにワインを注ぎ乾杯した後、ルカリオはにこやかに笑いながらマリアにそう告げた。
マリアはといえば、キョトンとした顔でルカリオを見ている。その表情に自分が予想した感情が浮かんでいないことを見てとり、ルカリオは少しばかり苛立ちを覚えた。
「あの……それが良いニュース、なの?」
「ああ。君の元といえ上司の慶事だ。祝うべき話じゃないか?」
笑いながらルカリオはマリアの表情を、慎重に見定めようとしていた。
かつて恋人――いいや、愛人であったであろうアントニオ・ガゼットが結婚した。しかも報告を聞くに、ずいぶんと妻を愛しているらしい。他の女性など目にも入らないだろう。それは今、自分の目の前で訳が分からないという顔をしているマリアであろうとも。
そう。つまりこれでマリアは帰る場所を失ったという事だった。
計画通り事を進めるならば、ガゼットを潰すこともやむなしかと考えていたルカリオにとって、これはまさに『良いニュース』だった。無駄な資金を投じる必要もなく、マリアの逃げ道が一つ潰せたのだ。
「彼には君も世話になったのだろう? 喜ばしいことじゃないか」
「え、ええ……そうね。でもそのニュース、もうビジネス界で伝わっているの?」
「どういうことだい?」
「私も、今日の昼に電話を貰ったばかりなの。ガゼットで一緒に働いていた同僚からだったのだけれど、アントニオが結婚したって」
「へえ」
すう、とルカリオは頭が冷えるのが分かった。
「確かに嬉しいニュースだわ。アントニオはずっと彼女を捜していたから。見つけ出すことができて、結婚に同意してくれたというのなら、本当に嬉しいことよ」
そういって微笑むマリアに、ルカリオは表情を変えないように気をつけながら、言葉を重ねる。
「では、君は彼が結婚したことを、喜ばしいと?」
「え? ええ。貴方もそう言ったじゃないの、ルカリオ。彼はずっと彼女を捜していたわ」
「――君は、自分の恋人が他の女に走っても、そんな寛大なことを言えるのかい?」
「は――?」
マリアの顔が強ばるのを見て、ルカリオは自身の失言に気付いた。
慌てて取り繕おうとするも、マリアが目を見開いて自分を見て震えているのに気づき、それすらも停まる。
「……マリア?」
「あなたは……私がアントニオとそういう関係だと、本気で思っていたの?」
マリアの脳裏には、以前ルカリオがリズの部屋を訊ねてきた時の言葉が思い浮かぶ。
『お言葉ですけどね。今のご時世、妊娠していても仕事をしている女性は沢山いるわ。アントニオ――社長にもお世話になっているの。あの人の期待を裏切る訳にはいかないわ』
『……お世話に、ね』
あの時、ルカリオの呟きはひどく嫌な感じがした。それは彼が、自分とアントニオの関係が男女のそれであると邪推していたからなのか。
自分に結婚を申し込んだ時ですら、彼は自分の不貞を疑っていたのか。
そう考えただけで、マリアは頭の中がカッと熱くなるのが分かる。
「冗談じゃないわ。私とアントニオには、男女の関係なんて一切なかった。私は彼の秘書。アシスタント。それだけよ。私たちは友人だった。度量のある得難いボスだった。それだけよ! なのに貴方は、そんな彼を――私を疑うというの!?」
「男女の間に真の友情なんてものは存在しない。それが僕の持論だ。たとえ君にその気が無かったのだとしても、彼のほうはどうなんだ? 彼が君に気がないとは限らないだろう」
「ありえないわ。彼はずっとフレデリカを探していた――――!」
◇
叫ぶようなマリアの声が不愉快だった。ルカリオは言い返してくる女が嫌いだった。自分はアジャーニの総帥であり、彼の言葉は絶対だ。それを侵す事は、何人にも許されない。
付き合ってきた女性は全員が彼の言葉に頷いてきた。唯一人、あの女性だけが自分との結婚を拒絶したのだ。そう。彼女だけが特別だったのかも知れない。
それに比べれば、他人の種で妊娠しておいて自分に結婚を迫ったマリアなど、見下すに足る存在だ。
ルカリオは苛立ちながら、彼女にさらなる証拠を突きつけるつもりになっていた。
「――だが、証言がある。君とアントニオが愛人関係にある、という証言がな」
「は―――?」
マリアが声を失って自分を見る。その様にルカリオは暗い愉悦が浮かぶのが分かった。
自分に分があると思っている人間を追い詰める時ほど、ルカリオはゾクゾクとする爽快感を感じた。それはたとえば企業買収を行う時や、契約を締結する時に感じるそれに近い。
だが今、眼前にいるのは、名目上でも自分の妻である。
「君を捜した時に、同時に身辺調査も行った。そこで君について興味深い証言があった」
◇
ルカリオの言葉が理解できない。マリアは呆然としたまま、彼の言葉を聞く。
「長く勤めている社員はボスを気遣って口を開かなかったようだが、残念だったな。どこの世にも口の軽い人間はいるものだ。その人物は、君とアントニオが愛人関係にあると証言していたよ。長時間、二人は行動を共にしすぎている、とな」
「なにを言って……」
確かにマリアとアントニオは長時間、その行動を共にしている。出社してから帰宅するまで。それはボスであるアントニオの勤務時間の長さからも、当然長時間にわたる。だがそれは当然だ。自分は彼の秘書なのだから。
「大体、ガゼットほどの規模ならば、いきなり新人が社長秘書など務められるはずが無いだろう。……社長の『きわめて個人的なアシスタント』ならば別だがね」
ルカリオは笑う。だが、辛辣な言葉は、マリアを次々と突き刺していた。
「むしろ僕に感謝してもらいたいほどだよ。僕は、君の過去を全てなかった事にして受け入れることにしたんだ。妊娠の真相も、君とガゼットとの関係もだ」
「――な」
マリアは唖然となった。
今、ルカリオはなんと言った。
ガゼットとの関係?
そんなこと、今はもう関係なかった。
――「妊娠の真相」、と。今、ルカリオはそう告げた。それはつまり――。
「誰の子とも知れない子供を、僕の子供として産ませてやろうと言うんだ。君は少しは感謝するべきではないか?」
ああ、神様。マリアは思わずそう呟いていた。
ルカリオは疑いを捨てた訳ではなかった。リズの部屋で告げた言葉は、すべて嘘だったのだ。これがルカリオの真意。彼は今も、マリアのお腹の中で育っている赤ん坊が、自分の子供ではないと思っている。
その事実にマリアは身体が震えるのを止めることが出来なかった。