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「今日も行ったのか」
ルカリオは報告書を読んで、小さくうなり声を上げた。
手にした報告書にはマリアのボディガードからの定時報告が書かれている。彼女は連日アンジェロの屋敷を訪れているようだった。
腹部が大きくなってからは、本格的に散歩を兼ねているようである。それ以外に外へ出ることはない。食料品などは業者が宅配で届けている。マリアは服やアクセサリーの類を買ってはいないようで、渡したクレジットカードの利用明細はゼロのままだ。何かを買うにしても、自分のカードか口座の現金を使っているらしい。
頻繁に通っているのは、アンジェロに取り入ろうとしているのだろうか。そう考え、ルカリオは鼻を鳴らす。
確かに祖父であるアンジェロは、アジャーニの前総帥として多くの権限と資産を持っている。だがそのほとんどの権限は現在の総帥である自分がほとんど掌握している。遺産については、ルカリオや親族に分けられるはずだ。もしかしたらマリアにも幾ばくかの財産を遺すかもしれないが、それとて夫である自分の管理下に置くように遺すだろう。
そう考えれば、マリアが今行っているであろうアンジェロへのすり寄りも、その愚かさに笑えてしまう。
手にした報告書をめくると、次の報告書の内容を見て眉が上がった。
「……ククッ」
思わず漏れた笑みに、来客用のソファにしなだれかかるように座り、乱れた着衣をそのままに口紅を塗り直していたサンドラが振り返った。
「どうしたの? ルカリオ」
「……いいや。なんでもないさ」
そう答え、手にした書類をデスクに放り投げる。
立ち上がったサンドラが、今度はルカリオに覆い被さってくる。濡れた唇が自分に重なるのを受け入れながら、ルカリオはもう一度デスクの上の書類に目をやった。
そこにはアントニオ・ガゼットが結婚した、という報告が書かれていた。
◇
マリアは携帯電話のディスプレイに映し出された名前に驚き、慌てて通話に切り替えた。
スピーカーから懐かしい声が懐旧の挨拶を告げる。
「マイク? どうしたの?」
『久しぶりだな、マリア』
かつての同僚の言葉に、思わず笑みが浮かぶ。だが同時に怪訝にも思っていた。今の今まで連絡のなかったマイクから、一体なんの用があったのだろうか、と。
「なにかあったの?」
『ああ。良いニュースがね』
マイクがわざとらしく間を空けるのに、思わず笑ってしまう。
「なあに? マイクに恋人でもできた?」
『おいおい。酷いな。まあ似たようなものさ。アントニオが結婚した』
「アントニオが!? 相手は? 私の知っている人?」
『どうかな。フレデリカ・スコットって女性さ。知ってる?』
フレデリカ、という名前をマリアは知っていた。それはアントニオの探していた、彼の想い人の名だ。
「彼女が見つかったの!? それにアントニオと結婚って……本当に?」
『ああ。おまけに彼女、子供を産んでいたらしい』
マイクの言葉に、マリアは思わず自分の膨らんだお腹に触れてしまった。
アントニオとフレデリカは、マリアが復職する前に出会い、そして別れたらしい。別れたというのは正確ではない。アントニオはずっと彼女を捜し続けていた。出会って数日後に、彼女が姿を消したのだ。ガゼットという一流企業の社長であるアントニオと、ただのOLに過ぎなかった自分との差に怯えて姿を消したとも言われている。
そのフレデリカが子供を産んでいた。
「……アントニオは?」
マリアはゴクリと唾を飲み込む。結婚したという事は、きっと彼は子供も受け入れたのだろう。そう信じたい。だが―――。
『今や俺達の親愛なるボスは、奥方と娘にメロメロだよ。もう見てられないぜ? 目尻が垂れ下がっただらしない顔してさ』
マイクの言葉に、マリアはほっと息を吐いた。
『今や俺達のボスは結婚式の準備でてんやわんやさ。おかげでこっちにしわ寄せが来てる上に、レイチェルが辞めたせいで毎日午前様だよ』
「――レイチェルが? どうして」
『そりゃ当然さ。レイチェルはアントニオ狙いだったからね。結婚して、おまけに浮気する様子も無いってんなら、次のターゲットを探しに行くだろうさ』
「アントニオ狙いって……そう、だったの?」
『気付いてなかったのは君くらいだろうな』
受話器の向こうで笑うマイクに、マリアは思わず微笑んでしまった。
だがこのニュースは、久しぶりに聞いた嬉しいニュースだ。そう思えて、マリアはホッと息を吐いた。
「マリアは? 変わりないかい?」
「……ええ」
マイク達には、結婚して退職することを伝えていた。だから彼はきっと、新婚生活を謳歌しているであろうマリア・アジャーニに、惚気てみせろと言いたかったのだろう。
だが、マリアは身近く答えて、話題を変えた。
「結婚式も挙げるのね?」
『ん? ああ。もう籍は入れているんだが、アントニオが拘ってね。フレデリカにウェディングドレスをどうしても着せたいらしい』
「……そう、ね。ずっと探していたものね」
アントニオは仕事の合間に寝る時間を削り、ひたすらにフレデリカの消息を追っていた。そう考えれば、籍を入れただけで納得するはずもない。ああ、確かに。アントニオはフレデリカを深く愛していたのだから。
マリアは自分を省みることをしなかった。ルカリオに連れられ宝石店で指輪を買い求め、街の登記所で彼の秘書を立会人に籍を入れた。それだけだった。その間、彼はマリアをろくに見なかった。そしてその足で仕事に向かい、帰ってこなかった。
それに比べてフレデリカはどうだろう。彼女はアントニオに必死に行方を捜され、そして妻として求められた。生まれた子供も、愛されているという。
「……ねえ、マイク」
『ん? どうしたんだ?』
マイクはただ、かつてのボスの慶事を伝えてくれただけだ。きっと、マリアが幸せに暮らしていると思っているのだろう。そうだ。そう思っているからこそ――。
「いいえ。なんでもないわ。アントニオとフレデリカに、おめでとうと伝えてちょうだい?」
『あ、ああ。分かったよ。それじゃあ俺は仕事に戻るよ』
「ええ。忙しい中、ありがとう。嬉しかったわ」
電話を切った後に、マリアはじっと手の中の電話に目を落とす。
いつか。
アントニオとフレデリカ。そして彼らの娘と会うことができるだろうか。
そんな事すら考える。
「――ねえ、ルカリオ」
もしも私がここから消えたら、貴方は私を捜し出そうとしてくれるかしら。
声に出すことのない呟きは、マリアの胸の内で響き続いていた。