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マリアはソファの上で座りながら時計を見た。時刻はすでに日付が変わろうとしている。深く息を吐いて、少し反動をつけて立ち上がる。
大きくなったお腹を抱えたまま、マリアはダイニングのテーブルに置かれた料理を見て、もう一度ため息を吐いた。
日持ちをするものは冷蔵庫に入れ、一部は冷凍してしまう。そのうち自分の昼食や夕食にしてしまうつもりだ。そんなつもりで冷蔵庫に収められた品が、今や冷蔵庫の中に大量にあふれかえってきた。
「もう……作らないほうが良いのかしら」
これらは全て、ルカリオのための料理だった。だがこうして手つかずのまま冷蔵庫行きになるばかりだ。理由は簡単。ルカリオがマンションに寄りつかなくなったからだった。
あのゴシップ記事を読んだ日から、ルカリオは家にあまり帰ってこなくなった。帰ってきたとしても夜遅く、マリアがすでに寝入った頃に帰ってきて、早朝に家を出ている。
あの記事については何も言われなかったし、マリアも聞けないままでいた。ルカリオがパーティーに出席するのは仕事のうちだということは納得している。そして本来、パートナーとなるべき妻の自分が身重で出席できない以上、ルカリオは誰か適当なパートナーを別に見つけて伴う必要がある、のだろう。
そのパートナーに、頬にキスされるくらい、あるのだろう。感謝のキス。親愛のキス。挨拶のキス。
だから、マリアは過剰に反応したくなかった。
ただあの日を境に、ルカリオの帰宅はいっそう不規則になったし、帰ってこない日も増えた。仕事が忙しいと電話で告げられたこともある。
実際、忙しいのだろう。アジャーニという大企業グループのトップは、常に選択をし続ける義務がある。ましてや世界中に支社を持つ以上、夜昼となく仕事は存在するのだ。
だからルカリオが仕事に忙殺される事は、ある意味で当然のことだ。
マリアは部屋の照明を落として寝室へ向かう。もう二ヶ月はルカリオと触れあっていない。
言いしれぬ苦さを感じながら、マリアはベッドで目を閉じた。
◇
「どうしたね、マリア。ここまで来るのが辛いのであれば、車を迎えに出すぞ?」
ベッドの隣でぼうっとしていたマリアに、アンジェロは気遣わしげに眉を寄せて訊ねた。その声にハッとしたマリアが、苦い笑みを浮かべて首を横に振る。
「いえ、違うんです。今朝は少し寝不足気味で」
「……ほ。そりゃ余計なお世話じゃったかな」
アンジェロが目を細めて笑う。彼が誤解したことに気付きながら、マリアはそれを訂正する気になれなかった。
「それにしても、ルカリオは元気でやっているのかね? 最近は忙しいなどといって、滅多に寄りつかん」
「ええ……。忙しいみたいです。いつも夜遅くに帰ってきますし」
帰ってこない日のほうが多いことは、マリアは口を噤むことにした。だがそれを聞いてアンジェロがニタリと笑う。
「なるほど。なるほど。なら寝不足にもなるな」
「……アンジェロ」
義理の祖父のセクハラまがいの言葉にどう応対したものかと頭を悩ませるマリアに、アンジェロは表情を真面目なものに変えて向かいあう。
「マリア。寂しいならば、寂しいときちんと言わねば伝わらんよ? 特にルカリオは、一度こうと決めると頭が固くなるからな」
その言葉に思わず笑みが浮かぶ。アンジェロに向けて、頷いて見せた。
「そうですね。……でも、私は彼の足手まといにはなりたくないのです」
「足手まといなどと! 妻に迎えた女性を守るのは、夫の甲斐性というものだぞ!」
「そう、ですね。でも私は、アジャーニの総帥の妻となるための知識がなにもありません。ただの市民階層で産まれ育ちました。大学では経済学を学びましたが、それほど優秀な成績を残せたわけではありませんし」
少しだけ首を傾げたマリアの髪が、流れるように肩に滑り落ちていく。
「そうしてみると、私は彼が戦っている場所で一緒に立つには、力不足過ぎるんです」
「マリア……」
アンジェロが眉を寄せるのを見て、マリアは気を取り直すように頭を一振りした。
「良いんです。それに今はパーティーでストレスをためるより、この子をちゃんと産んであげないと」
お腹を撫でながらそう口にするマリアに、アンジェロは小さく息を吐いた。
アンジェロにとって、マリアはすでに身内だった。
一族の縁者は多いが、アンジェロにとってこれまで身内と呼べる人間はルカリオや、彼の伯父とその娘くらいだろう。他は皆、アジャーニという巨大な金鉱に魅入られた亡者に大なり小なりなっている。
自分がこうして病床に伏している間も、遺産の分け前を狙ってアンジェロの前に現れた者は多い。だがマリアは、一度として屋敷の金品に興味を示したことはなかった。
アンジェロはそういった輩を見抜く眼力には自信がある。伊達にアジャーニの総帥として長年第一線に立っていた訳ではないのだ。
その目で見ても、マリアは莫大な資産に魅入られているようには見えなかった。無論、それが高価な品であることは理解している。むしろ触らない、近づかないようにしているのだ。
「のう、マリア。儂は君がルカリオの妻になってくれた事を、嬉しいと思っておる。君のような女性が側にいてくれるなら、あ奴はきっと幸せをつかめるじゃろう」
そう。そのはずだ。
だがアンジェロは、どこかで胸騒ぎを感じている。
ルカリオの足が遠ざかったこと。マリアが時折見せる、儚げな様子。結婚し、妊娠し幸福の絶頂と言っても良いはずの彼らが、どこかちぐはぐに見える事がある。
だがアンジェロには、あまり時間は無い。今は小康状態を保っているが、元々、若い頃の無茶がたたって身体を壊している。医師は明言を避けているが、余命もそう長くはないだろう。
そう考えれば、自分の死後に彼らがどうなるのかは、不安要素だった。
「マリア。どうか、お願いだ。ルカリオのことを、見捨てないでやってくれ」
そう口にしたアンジェロに、キョトンとした顔のマリアが破顔する。
「――はい」
そして、力強く頷いて見せるのだった。
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