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「……今日も行ったのか」
ルカリオは苛立っていた。マリアをアンジェロに引き合わせて以来、祖父は彼女を猫かわいがりしていた。毎日のようにマリアは彼を訪ね、午後を共に過ごしている。そして夕方にはマンションに帰ってきて、食事の用意をしているようだった。
ボディガードから上がってきた報告書では、彼女の生活パターンにアンジェロの屋敷を訪ねるというルーチンが一つ追加されただけだった。それ以外では変わりはない。
渡したクレジットカードは未だ使われた形跡もない。
他の誰かと接触を持った様子もない。電話の通話履歴からもそれは確かだ。
あのリジー・ダーシーとすら、まだ連絡を取っていない事は、むしろ驚きだった。
マンションと屋敷との往復。それだけが彼女の日常だという報告書は、ルカリオの心にさざ波を立てる。まるで当てつけるようなその行動。
それに、アンジェロに自己紹介をしようとした時、マリアは自分との関係を口にしようとして躊躇した。なんと言うべきか、自分を見た。
あの時、彼女はウォートン姓を名乗ろうとしたのではないだろうか。
自分の妻として法的にも認められているというのに、彼女はそれを自覚していない。
お腹の大きくなってきた事もあり、セックスは控え気味になっている。けれども、ルカリオが触れれば、マリアは火が付いたように官能に悶えるのだ。
そんな彼女は未だアジャーニの妻という立場を、理解していない。
これで彼女が浪費でもしてくれたなら、なんの憂いもなく計画を進められるというのに。
ルカリオは険しい顔をしたまま、書類をシュレッダーに放り込んだ。と、不意に声がかけられる。
「どうしたの、ルカリオ? そんな怖い顔をして」
ハッと顔を上げたルカリオは、ドアにもたれかかるようにして立っている女性に目を吸い寄せられた。
身体のラインを強調するようなぴったりとしたドレスに身を包んだ女性。豊かなブロンドを揺らしながら、ルカリオの側に歩み寄る。
「サンドラ。どうしてここに」
「あら。私はここには、いつでもフリーパスなんじゃなかったのかしら?」
「……今は仕事中だ」
「グループの会長である貴方が、そんな机にかじりつく必要はないじゃない?」
デスクに腰掛けると、量感のあるヒップが形を変えるのがスカートの薄い生地越しに見て取れた。だがルカリオは表情を変えることなく、サンドラの顔を見上げる。
「それで?」
「――ねえ、ルカリオ。あなた、結婚したんですって?」
サンドラの挑発するような視線を真正面から受けても、ルカリオの表情は何一つ変わらない。ただ眉間の皺がより深く刻まれているだけである。
「なによ。そんな不機嫌そうな顔をして。アンジェロにも会わせたっていうじゃない」
「お前には関係ない」
「冗談言わないで」
サンドラは不機嫌に尖った声で言い返す。その険しい視線は、眼前の男を射殺そうとばかりに貫いた。
「私は関係が大ありよ。それはあなたが一番よく分かっていることでしょう?」
サンドラの声に、ルカリオは眉を僅かに動かすだけだった。
◇
「よいしょ、っと」
マリアは目立ってきたお腹に注意しながら、部屋の掃除をしていた。
アンジェロの屋敷を訪れる以外、特に予定のない生活を過ごしているマリアにとって、部屋の掃除というのは暇つぶしも兼ねていた。
時に、アンジェロから何か欲しいものがないかと問われるが、マリアは正直彼らに買って欲しいものなど無かった。
すでに物質的には充足している。これ以上なにかが必要かと問われれば、特にないとしか答えられない。
ドレスの類とて、以前にルカリオが買ってくれた品が大量にクローゼットに眠っているのだ。妊娠中の現在は着ることはできないが、そもそもこんな状態でパーティーに出席するつもりもない。ルカリオからも同伴を求める言葉を聞いたことがないのだから、きっと自分が出席する必要はないのだろう。
掃除の手を止めてソファに腰掛け、ふうと息を吐く。
以前ならなんなく出来た事が出来なくなっている。それは自分のお腹の中に、もう一つの命が宿っているからだ。身体も重くなっているし、動くだけで億劫な気持ちになる。
医者の話では、適度な運動はむしろ推奨されるとの事なので、マリアはアンジェロの屋敷へ訪れる時もなるべく歩くようにしていた。
散歩がてらの訪問は、部屋に閉じこもりがちなマリアの良い気分転換にもなっている。さらにアンジェロが語ってくれるアジャーニ家の逸話や、ルカリオの子供の頃の話は、マリアの楽しみだった。そしてアンジェロもまた、どんどん大きく目立つようになっていくマリアのお腹の成長を楽しみにしていた。
ルカリオは表面的にはマリアを大事にしてくれているが、その好意は裏に別の意図が透けて見えている。それを感じ取ったマリアにとって、アンジェロが向けてくれる親愛の情と、生まれてくるだろう子供への期待は救いだった。
定例の産婦人科検診の待ち時間で、マリアがその雑誌を手に取ったのはほんの偶然だった。
前の患者の診察が長引いているという話で、マリアは予約の時間を過ぎても待たされていたのだ。そこで待合室のマガジンラックに差してある雑誌を手に取ったのは、偶然以外の何物でもない。普段、こういったゴシップ誌を読まないマリアだったが、人並みにそういった物への興味もある。今までは、そんな精神的な余裕もなかった事から、すっかり世間の波に乗り遅れていた感のあったマリアは、これ幸いにとその雑誌を開いたのだ。
そして、そこで大きく見開きで載せられた写真を見て、息が止まりそうになった。
――『“アジャーニ”の帝王、その魅力は衰えず』――
そんなタイトルと共に載せられた写真には、ルカリオにぴったりと寄り添って彼の頬にキスをするブロンドの女性が写っていたのだった。