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その日、マリアは自分が遭遇した予想外の事態に呆然としながら道を歩いていた。
数日前から続く胃の不調や倦怠感から病院での診察を受けたのだが、そこで医師から告げられた言葉は「妊娠」という、酷く予想外なものだった。
恋人であるルカが果たしてどんな反応を示すのか。マリアはそれを思うと不安に苛まれてしまう。ルカは結婚という永続的な関係を、決して女性と結ぼうとしているようには見えなかった。
一夜の恋人として女を抱くことには躊躇いを持たない。そもそも、女が途切れるとも思えなかった。ルカ――ルカリオ・アジャーニはアジャーニ一族という巨大な富豪一族の家長であり、様々な企業を従えるアジャーニ・グループの会長だった。両親の夭折を経て若くして家長の座についたルカリオは、その財力を見せる必要もないほどにセクシーな男だった。
事実、マリアがルカリオと初めて出会ったのは、マリアが出張で訪れた国のホテルのレストランでの事だった。ルカリオの素性を知らずともマリアは彼に惹かれ――そしてルカリオもまた、マリアに惹かれたようだった。
グラスを交わし、食事を共にし、気がつけばベッドの上に組み敷かれていた。
一緒にいたい、と。ルカリオの言葉に、マリアは頷いてしまっていた。
仕事を辞め、ルカリオのマンションで暮らし始めたマリアは、幸せの中にいた。それがルカリオの翻意があれば一瞬で失われる幸福だと理解していながら、そこから目を背けていた。今、この瞬間の幸福を手放せなかった。
ルカリオから渡されたクレジットカードを使う気にはなれなかったマリアだが、そうなれば彼は今度はマリアを引き連れて買い物をする事を好んだ。彼の好みでマリアを着飾らせることを、ルカリオは殊の外喜んで行ったのだ。
そうして一年ほどの時間を共に過ごしてきた先に、何があるのか。マリアもルカリオも、おそらくは想像はしていた。だが、そこから二人ともが目をそらしていたのである。
マリアが見るに、ルカリオはある種の傲慢さを持った男だった。ありとあらゆる人間の視線を惹き付ける魅力の持ち主であり、長い歴史を持ったアジャーニ一族の長として相応しいだけの見識を持っている。持てる者が寛容なのは、ある意味で当然のことだった。そしてその寛容さがルカリオという男の魅力を、さらに深まらせて見せるのである。
少なくとも初めて会った女を、その日のうちにベッドまで連れ込める男がいるのだとしても、その翌日に仕事を辞めさせて自分のマンションに住まわせることができる男は、そうはいない。
将来的な約束を何一つしていなくても、ルカリオからの愛情をマリアが疑ったことはなかった。そこに何かが、言葉にはできない、しない何かがあると、マリアはそう思っていたのだ。
だからこそ、この予期せぬ妊娠とてルカリオはきっと喜んでくれるだろうと、そう思っていた。
高層マンションの最上階にある部屋へと戻れば、そこには落ち着かない様子のルカリオが、まるで冬眠前の熊のようにウロウロと歩き回っていた。室内へ入ったマリアを見て、足早に近寄ると、その肩を掴む。
「どうだったんだ、マリア。診察の結果は」
「……ルカ? 仕事は?」
「休んだ。君が病気かも知れないのに、仕事が手に付くはずがないだろう」
その表情は心底からマリアを案じていたと知れて、だからこそマリアは安堵と期待を抱く。
これから口にする言葉を、きっとルカリオも喜んでくれる。最初は驚くかも知れない。世の男性のほとんどは、予期せぬ妊娠という言葉には怯むものだろうから。けれども、ここまで自分を案じてくれる男性ならば、きっと。
そう考えて、マリアは唇を綻ばせる。
「マリア?」
「大丈夫よ。別に病気じゃあ、なかったの」
自分の言葉に安堵の息を吐いたルカリオを見上げ、そっとその胸に触れる。引き締まった筋肉をシャツの生地越しに感じながら、マリアは微笑みを浮かべて言葉を続けた。
その言葉が、明るい未来へ繋がっていると信じているから。
「――妊娠したの。あなたの子供よ、ルカ」
そう口にしたマリアを待っていたのは沈黙だった。
少しだけためらってから、ルカリオの顔を見上げる。どんな表情をしているのかを確かめたかったから。
だがルカリオの顔は強ばっていた。触れていた胸の筋肉も、ひどく緊張しているのが分かる。
「……ルカ?」
やはり男性は意図しない妊娠には動揺するのだろうか。実際、自分だって医師から告げられた時は卒倒するかと思ったのだ。そう思いながらマリアは首を傾げて見せる。
「ルカリオ? ……あの、突然で驚いたとは思うの。でも、あなたは避妊には気を遣っている様子じゃなかったし、私にもピルを飲むようには言わなかった。だから……その、これは、想定の範囲内のことでしょう?」
「――冗談じゃない」
凍えるような声だった。ルカリオが唸るように上げた声は、まるで氷のように冷たく痛みすら感じさせるようにマリアの言葉を切り裂いた。
「荷物をすぐにまとめて出て行け。君がこんなにも愚かで恥知らずだとは思わなかった」
「ルカ……? なにを言って」
「今すぐに僕の家を出て行け。おい、この女をすぐに放り出せ」
マリアの言葉を聞く様子もなく、ルカリオはマリアに背を向けて別室に控えているはずのガードマンを呼び出している。
「待って、ルカ! どういうこと!?」
「よくもやってくれた物だ。僕以外の男をくわえ込んでおきながら、僕の子供だと? はっ。そんな嘘で僕から財産を掠め取ろうだなんて、愚かなことを考えたことを後悔しろ!」
「待って、嘘なんてついてないわ! 私はあなたとしか――!」
「残念だよ、マリア。君の身体はとても魅力的だった。だが過去形だ。僕は自分の女を余所の男と共有するような趣味はない」
振り返ったルカリオの目は、汚らわしい汚物を見るような目だった。
マリアはその視線に射すくめられるように、身体が凍り付く。
「待って……説明して。ルカリオ。なにを言っているの!?」
「出て行け。二度と僕の前にその汚らしいツラを見せるな」
ルカリオの断罪するような言葉に呆然としたマリアは、抵抗らしい抵抗もできずにマンションのエントランスまで引きずり出されていった。
そのまま突き飛ばされて路上に放り出されたマリアの後ろから、彼女の荷物が放り出される。それはスーツケースに適当に詰め込まれた、彼女が最初にルカリオの部屋を訪れた時に持ち込んだ品だった。
地面にへたりこんだままのマリアは、呆然と周囲を見回す。
夜になって霧まで出てきた街は、いつもの騒がしさがまるで嘘のように静かだった。
一年間暮らした街だった。ルカリオ・アジャーニという男の庇護の下で暮らした街は快適だった。だが今、マリアの前には先の見えない薄暗い道しか見えない。
エントランスから誰かが出てくる様子はない。先ほどの暴言を謝るために駆け寄ってくるルカリオの姿もない。完全に捨てられたのだ。まるでゴミのように。
「……なんで」
マリアは放り出された荷物を拾い上げる。痛みを感じて下を見れば、膝をすりむいて血が滲んでいた。よろよろとふらつきながら、それでもなんとか立つ。
ルカリオの性格は知っている。傲慢で果断。その決断力は、味方であればこれ以上ないほどに頼りがいのある男だが、同時に彼の敵となったなら、最悪の相手だった。
マリアは霧に包まれた道を、よろめきながら歩き出す。
先の見えない道は、これからの自分の未来のように感じながら。