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マリアの手を握ったまま放さないアンジェロを見下ろし、ルカリオはなぜか湧き上がる苛立ちに戸惑っていた。
だがこうして喜んでいる祖父を見るのは、ルカリオにとっても喜ばしい事に思える。
「……それにお爺さま。もう一つ、ニュースがあるのです」
「なんだ? これ以上の激しいニュースは、儂の心臓に良くないぞ?」
そんなアンジェロの物言いに、マリアは思わず笑みを漏らしてしまう。
ルカリオも同じように微笑み、祖父の側に膝をつく。
「彼女は妊娠しているんです」
その言葉にアンジェロはハッとした顔になった。ルカリオを見て、そしてマリアへと顔を向けた。その視線に、マリアは頷き返す。
「本当に……かね」
「ええ。本当です」
マリアの肯定に、アンジェロの表情が輝いた。
「では――本当にそうなのか。ひ孫が――次代のアジャーニが。おお、神よ」
震える手でアンジェロはマリアの手を強く握りしめた。
そして何度も何度も、上下に振る。
「ありがとう、マリア。ありがとう」
「あの……いえ。私は」
「ルカリオ。お前もようやく私の言う事を聞き入れてくれた訳だな! 次代のアジャーニを儂に見せてくれるという約束を果たしてくれるのだな!」
その言葉にルカリオは僅かに顔を顰めた。
そしてマリアは、その言葉に身体が震えた。
「お爺さま。あまり興奮なさるとお体に障ります。今日はひとまずこれで下がりますので、また後日」
「……ルカリオ。……そうだな。少々興奮しすぎたか。マリアと言ったね。明日、また来ておくれ」
「あの……アンジェロ?」
「色々と話も聞きたい。それに、アジャーニの妻として知っておかなくてはならない事もあるしな」
そう好々爺のごとく笑うアンジェロに、マリアもおずおずと笑い頷いた。
帰りの車で二人の会話は無かった。
マンションの前で車が停まり、マリアはどうすべきかをまだ悩んでいた。だがそんな彼女に、ルカリオが声をかけた。
「僕はこのまま仕事に戻る」
「あ……ええ。あの……良いかしら。私がアンジェロを訪ねても」
「構わないよ。今のお爺さまには、君の存在が生きる理由になっているらしい」
そう告げたルカリオはマリアを見ることなく、車を出すように運転手に告げる。
車を見送ったマリアは部屋へ戻り、ぼんやりとソファに座り込む。
頭の中では自分を見なかったルカリオと、そしてあの時アンジェロが口にした言葉が繰り返し鳴り続けていた。
――次代のアジャーニを儂に見せてくれるという約束を果たしてくれるのだな!
約束。次代のアジャーニ。祖父の生きる理由。
この結婚の目的が理解できた気がした。
ルカリオは理由は定かではないが、他人の子供と思っているお腹の子を祖父にひ孫として見せるために、自分をここに連れてきたのだろうか。
だから自分に頭を下げて見せ、連れ帰ったくせに結婚は略式も良い所で済ませた。さらに家に寄りつかず、自分に気を許そうとはしない。
彼が囁く愛が、なぜああも空虚に響くのか。そして、彼が自分に対して向ける敵意の欠片。
彼はきっと、まだ自分を疑っている。そう気がついていたのに、気付かないふりをしていた。目を背け、これが幸せのための道なのだと、繰り返した。
けれども――ああ、けれどもマリアは理解してしまっていた。
アンジェロの屋敷からの帰り道、ルカリオが無言だった事も、それを後押しした。
彼はきっと気付いただろう。マリアがそれに気付いたという事に。
それでも彼は何も言わなかった。言わなかったのだ。
それは彼が理解していたから。
たとえマリアが真実に気付いたのだとしても――今の彼女には、もうルカリオから逃れる事はできないのだと、マリアが知っているのだと。
お腹の子供のために。
あれほど喜んでくれたアンジェロのために。
マリアは、彼のもとを去る事ができない。
「……ああ、本当に」
彼は残酷だ。愛しく思えば思うほどに、その愛はマリアを傷つける。まるで心臓深くに突き刺さった荊のように。
それでも、離れられない。この自分の愚かさが、マリアは堪らなく苦しかった。
◇
「やあ、マリア。今日も来てくれたのだな」
「ええ、お邪魔でなければよろしいのですけど」
「邪魔なものか。君が来てくれるようになってから、私の体調も良くなっている一方だよ」
あの初対面の日からマリアの日課に、アンジェロの屋敷を訪れる事が加わった。
マンションからそれほど離れていない事に気付いたマリアは、徒歩で訪れるようになったのである。
執事と挨拶を交わしアンジェロの部屋へ入る。
そこでは待ち構えていたアンジェロが、目を輝かせて彼女を迎え入れてくれる。
この屋敷はマリアを――ルカリオの妻を歓迎した。最初こそ、どこの馬の骨かも知れない自分を拒絶するかも知れないと不安に思っていたが、今ではそんな不安も無い。
そしてそれは、アンジェロの屋敷にいる人間にとっても同じだった。
ルカリオが連れ歩く女性は、いつだって最高のプロポーションとセックスアピールの持ち主であり、そしてそれだけだった。
ゴシップ誌のトップを賑わす写真は、いつだってそんな女とばかり写っていたのだ。
だがマリアは、そんな女達とはまるで違っていた。
普段着はあくまで活動のしやすさを目安に選んだように見える。まだお腹が目立っていない事からマタニティ姿という訳でもなく、ゆるめのパンツ姿で訪れるのだ。
そして、屋敷の使用人にも丁寧に接する。ルカリオの妻として、使用人にはあまり謙った態度を取るべきではないと告げた老執事に、苦笑と共に頷いて見せたほどだ。
そしていつもアンジェロの体調を気遣っている。
少しでも具合の悪そうな素振りがあれば、すぐに休ませ医師に相談している。そんな彼女を、屋敷の人間が受け入れないはずがなかった。
「では今日はそうさな。儂が若かった頃の話をしようか。あれはまだ儂が駆け出しの頃の事じゃった」
老人の回顧話を楽しげに――いや、事実楽しんで聞いているのだろう。
マリアの表情に偽りはない。
そのことに深く感謝しながら、老執事は一つの問題に頭を悩ませていた。
ルカリオが訪れないのだ。今や彼はアジャーニの当主として様々な仕事を抱えて忙しい事は理解できていた。その代わりといってはなんだが、妻のマリアが足繁く通ってくれている。けれども、以前ならば数日に一度は足を運んでいたルカリオが、ぱたりとその訪問を止めてしまったのは、一体どんな理由があるのか。
老執事は嘆息を漏らしながらも、沈黙を守る。
なぜならば、自分の主は今、これまでに無いほどに希望に満ちている。
あれほど望んだルカリオの妻。そしてその彼女は、彼のひ孫を妊娠している。
生まれるまでは死ねない。夜に部屋を訪れた自分にそう漏らしたアンジェロは、今は楽しげに若い頃の武勇伝を話している。
――願わくば、あの女性が幸せであるように。
老執事は、ただそう願うだけだった。