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ぼんやりとしたまま暖かい布団に包まれている。意識は未だ明らかにならず、ただこの心地よい場所でまどろんでいる。そこに眠っているだろう愛しい男に触れたくて、無意識に手が探る。だがそこにあるだろう硬い肉体に触れることなく、手はただ冷たいシーツの上を這い回る。
「……う」
カーテンが引かれた薄暗い寝室で、マリアはゆっくりとまぶたを押し開けた。
乱れたシーツはそのままで、そこに誰かが眠っていた痕跡はある。だが、そこにあっただろう温度はすでに失われ冷め切っていた。
「ルカ……?」
マリアは上半身を起こし、部屋を見回す。
はらりと落ちたシーツの下に何も着ていないことに気付き、誰もいないにも関わらずマリアは赤面してしまった。
シーツを身体に巻き付けて立ち上がると、裸足のままでリビングに出る。
だがそこにも、人の気配はない。わずかに残ったコーヒーの香りだけが、ルカリオが居たことを示しているようで、不安が湧き上がった。
一通り部屋を見て回り、ルカリオがいないことを確認したマリアは、ひとまずシャワーを浴びてさっぱりする事にした。そしてゆっくりと朝食の用意をする。
「……そうよね。別に、こんな事は前にもあったわ」
コーヒーを淹れながらマリアは、誰にともなく呟く。
他に人のいない部屋は広すぎて、マリアは居心地の悪さを感じていた。それは一年間暮らしていた間にも、何度となく感じたものだ。けれどそのときは、ルカリオに抱かれれば収まった。彼と共にいられるなら、どこでも良かった。たとえダウンタウンのボロアパートだったとしても、きっと幸せだろう。
なのになぜ。
今、こんなにも物質的に満たされ金銭的に満たされ、妻という立場を得ているのに、寂しさを感じるのか――――。
「……贅沢よね。そんなの」
お腹の子供はきっと、恵まれた環境で育つだろう。母子家庭で育つよりも、きっと良いはずだ。アジャーニの後継者として、きっとルカリオも子育てには何か思い入れだってあるはず。何よりも母親と父親が揃っている安定した家庭環境は、子供の養育には最善のはず。そう考えても、彼が本当にこの子を望んでいるのか、実感できないでいる。
彼はことある事に愛を囁く。まるで義務のように。
マリアは、それを不安に思う心を停めることができなかった。
◇
「――え? これから?」
掃除を済ませたマリアが受け取った電話は、ルカリオからだった。
置き去りにした事については何も言わず、ただ祖父の家へ向かうことを短く伝えられ、マリアは慌てて着替えるために自室のクローゼットをかき回しだした。
今着ているのは、着古したシャツとジーンズである。部屋の中で誰と会うわけでもなく、家事をするには十分な格好だ。だが、初めて会うルカリオの親戚――しかも彼が敬愛すると常々口にしていたアンジェロ・アジャーニと会うというのなら、これでは失礼にあたるだろう。
とはいえ、華美な格好をするつもりも無かった。ドレスを着て会うなんて、マリアには想像もつかない。
なんとか整えたのは、ブランド物のスーツだった。これなら失礼にも当たらないだろう。そう考え、化粧を直す。
香水は少し考えて、控えめのものをわずかに吹き付けて終わらせた。
「……これでよし」
鏡の中には痩せたとはいえ、少しは数ヶ月前に近づいた自分がいる。
決して幸せそうに見えない自分に――なぜ、そう思ってしまうのか分かっていても――微笑んでみせる。
自分は幸せなのだと、心に言い聞かせる。
ルカリオの考えが分からない。彼が何を望んでいるのかが分からない。
だが今、自分は彼の妻という立場にある。ならば、その立場に相応しい振る舞いを。
鏡の中の自分が笑う。それはマリアにとって、最善の笑顔だと信じたかった。
◇
ルカリオが前を歩く。綺麗に整えられた廊下は、品の良い調度品が飾られている。
いずれもが高価な品なのだろうと想像はつくが、かといって過ぎた金満家のような下品さは無い。
広い背中を揺らしながら歩くルカリオを見、マリアは少しあけ足を速めて彼の側に並ぶ。
ルカリオを先導して歩くのは、白髪をオールバックのまとめ、さらにアイロンのきいたお仕着せの衣装をまとった執事である。
彼はマリアを見て僅かに眉を動かした後は、その職務に忠実に沈黙を守った。
好奇の視線もなく、役目を守るように廊下を歩く。
そして廊下の突き当たりに、その部屋はあった。
「旦那様。ルカリオ様がいらっしゃいました」
老執事がドアをノックし告げる。室内から「入れ」と短い応えがあり、老執事はドアを開けた。
「失礼します、お爺さま。ご気分はいかがですか?」
ルカリオが室内に入ると、それだけで部屋が狭くなったような圧迫感が生まれる。そしてその視線の先には、広いベッドに埋もれるように一人の老人が横たわっていた。
かつてはルカリオに負けぬ美丈夫であっただろうと思わせる、大きな体躯。それに、皺を刻み年老いたとて分かる整った顔立ち。
それがアンジェロ・アジャーニ。アジャーニ一族の前当主であり、ルカリオの祖父だった。
「……今日はずいぶんとマシじゃよ。それにお前が珍しく客を伴っているのだ。いやでも気分は良くなるさ」
低く響く力強い声は、ルカリオに似ているように感じた。
「それで? 儂に紹介はしてくれんのか?」
だが不意に向けられる顔はおどけた表情で、どこか笑みを誘う。
マリアは微笑んでルカリオの隣に並び、一礼した。
「初めまして。私はマリア――」
そこでちらりと隣に立つ男を窺う。するとルカリオが腕を伸ばし、マリアの肩を抱いた。
「彼女はマリア・アジャーニ。……僕の妻です」
「――なに?」
キョトンとしたアンジェロが、ルカリオとその腕に抱かれるマリアを見比べる。
顔を赤らめ、恥じらうようにルカリオから離れようとしているの見て、それが嘘ではないと理解したようだった。
「妻……だと? 結婚したというのか? お前が?」
「ええ」
「この私を結婚式に立ち会わせることなくだと? どういうつもりだ、ルカリオ!」
激しく感情を揺らしたアンジェロの声に、ルカリオはゆったりと微笑んでみせた。
「いえ。結婚式は挙げていません。お爺さまが意識不明になっていた間の事ですし、ひとまず登記所で」
「……歴史あるアジャーニの当主が、登記所で結婚などと……」
ぐずぐずと文句を呟くアンジェロに、ルカリオはただ肩をすくめて見せた。
「……まあ、良い。それで、彼女がお前の妻なのだな?」
「ええ。マリア?」
ルカリオが促すように、マリアの背を押す。それに応え、マリアは一歩踏み出した。
「改めて、初めまして。ミスター・アジャーニ。私はマリアです」
「ほう、美人さんじゃな。儂のことはアンジェロと呼んでおくれ」
そしてマリアの手を取り、握りしめる。
「分かりました、アンジェロ。よろしくお願いします」
その手の温かさにマリアはどこか張り詰めていた物が緩むのを感じた。
2011/02/28 22:54 一人称修正