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翌朝の目覚めは最悪だった。マリアは腫れぼったい目をそのままに、朝食の用意をするべくキッチンへと入る。そこで鼻をついたのは、コーヒーの芳香だった。
「……ルカリオ」
「おはよう、マリア」
そこにはスラックスにワイシャツ姿のルカリオが、陽光を背にして立っていた。片手にはコーヒーカップを持っている。
「ご、ごめんなさい。寝過ごしちゃったかしら」
「いや。僕が早く起きすぎただけだよ。今朝は海外支社と早くからTV会議があるから、早起きしたんだ」
そう告げると、ルカリオはテーブルの上に置かれた皿へ視線を落とした。
「……すまなかった、マリア。せっかく料理を作って待っていてくれたのに」
「う、ううん。そもそも夕食がいるかどうか確認せずに、勝手に作った私が悪いんだもの。……あの、ルカリオは朝食は? もう食べた?」
言葉を遮って続けたマリアに、ルカリオは苦笑を浮かべる。
「ああ、これを一皿貰った。美味しかったよ」
そう告げると、ルカリオはマリアの傍らに立ち、そっとこめかみにキスを落とす。
「……ルカ?」
「今夜はなるべく早く帰るよ。昨夜の分も合わせて埋め合わせをさせてくれ」
昨晩の罵り声と舌打ちを利いていなければ、この甘い声を簡単に信じただろう。けれどマリアは、昨夜の彼の様子を覚えていた。だからこそ、少しだけ戸惑ってしまう。
「あの……無理をしないでね?」
けれど彼に早く帰ってきてほしい、というのもまた事実だ。だからつい、そんな事を口にしてしまう。
ルカリオは一瞬驚いたように目を見開き、そして微笑む。
けれどその笑みは、マリアが見慣れていた素の笑顔ではなく、どこか取り繕われたものだった。
◇
屋敷の寝室に運び込まれた医療機器。それに囲まれた祖父は、酸素吸入器をつけた状態で眠っている。ルカリオがマリアを迎えに行く前に、一時は昏睡状態に陥ったのだ。だからこそルカリオは、強引な手段でもって彼女を連れ帰ったのである。
祖父の容態が安定するまで、結婚を公表するつもりは無かった。結婚とて役所で書類を提出しただけ。立会人も信用のおける秘書である。
だがアジャーニの花嫁には、莫大な財産が与えられる。マリアとて、彼女に渡されたクレジットカードは限度額無しの代物だ。引き落としはルカリオの個人口座からになっている。それを渡せば、マリアはきっと浪費でもってその本性を明らかにするだろう。そう思っていた。
ルカリオは花嫁に期待をしていなかった。だが、花嫁も自分に期待をしていないらしい、という事にようやく気付いたのは、結婚して一週間が過ぎた頃だった。
マリアは自宅を綺麗に整え、食事の用意をする。いつ帰っても散らかっていない部屋で、ルカリオはマリアと食事をしたのがいつ以来だろうかと考えてしまう。
初日の夜は、自分が酔って忘れてしまった。翌日の夜は早く帰ろうとしたが、海外で起きたトラブルの対処のため現地に向かわなくてはならず、結局約束を反故にした。そのまま三日間を海外で過ごし、帰ってきたのが一昨日のことだ。夕食をようやく共にしたが、会話らしい会話もなく、淡々と時間を過ごした。おそらく今晩もそうだろう。
マリアは家を整える。ルカリオが生活するうえで、面倒な家事の一切を彼女が片付けているのだ。だがそれは、ハウスキーパーの領分だろう。ルカリオは別に彼女を家政婦にするために結婚したわけではない。
そこまで考えて、では何を目的としたのかを考えて渋面が浮かぶ。
ともあれ、祖父の前でぎこちない空気になるわけにはいかない。少しはマリアとの関係を打ち解けたものにする必要はある。
ルカリオは長々と延ばしていたが、マリアを抱くつもりになっていた。実際、彼女との身体の相性は抜群だったのだ。ルカリオに抱かれればマリアはすぐに燃え上がり、あっけないほど簡単に絶頂を迎える。震えながら涙を浮かべ、すがりついてくる彼女はたまらなく魅力的だった。
彼女がどれほど愚かで恥知らずな女なのだとしても、ベッドの上での彼女は別だ。
そう考えて、ルカリオは夕食のための店を予約するよう、秘書に連絡を入れた。さらにマリアの携帯電話へ電話をかける。
『……はい? あの、ルカリオ?』
「ああ、僕だよ。奥さん」
『どうしたの? 突然』
「今夜の夕食の準備はいらないって、連絡をしようと思ってね」
突然の電話に怪訝そうだったマリアが、電話の向こうで息を呑む気配が伝わってきた。
『あの……分かったわ。ありがとう、連絡をくれて』
声はわずかに震えている。それでも礼を言うマリアに、さらに言葉を重ねた。
「今晩は外で食べようと思うんだ。十九時には車をよこすから、用意していてくれ」
『え……? あの……ルカ?』
「結婚してからこっち、ろくなデートもしていないからね。君の好きだった店を予約したんだ。どうかな?」
電話の向こうでマリアが逡巡する気配が伝わる。ルカリオはなぜか、彼女が頷いてくれるように祈る気持ちで、じっと待っていた。
『分かったわ。ドレスコードは?』
「気取りすぎない程度で。大丈夫。アルマンの店だよ」
『……そう。じゃあ、十九時に』
そう言って電話を切ったマリアに、なぜだかルカリオはため息をついてしまった。
マリアは渡されたクレジットカードを、まだ一度も使っていないようだった。
というよりも、まだ一度も外出らしい外出をしていないのだ。彼女がアジャーニの花嫁という立場を得た以上、パパラッチや犯罪者に狙われる可能性はゼロではない。だから彼女にもボディガードがつけられている。そして彼らは、ルカリオにマリアの日常を全て包み隠さず報告する役目も負っていた。
だが彼らから提出されるレポートの内容は、この一週間同じ内容だった。
マンションからは一歩も出ない。誰かを招く様子もない。
ただじっと息を潜めるように、あのマンションに籠もっている。
それはまるで、ルカリオの彼女の存在を公にしたくない、という内心を理解しているかのように。
少しばかり、昔を思い出すのは悪い事じゃないだろう。
ルカリオはそう考えながら、意識を仕事へと向け直したのだった。