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「ここに住むことになる。悪いが、僕はこれから会議がある。部屋の中はいじっていないから、以前のままだ。楽にしていてくれ」
マリアがルカリオに通されたのは、一年間を過ごしたマンションだった。
懐かしさすら覚える空間にマリアを通した後、ルカリオは早口でそう告げて踵を返す。
その背は、とてもではないが新婚の夫のそれとは思えない。
だがマリアは、それもやむなしと考えていた。
今、マリアの左手の薬指には指輪がはめられている。真新しい大粒のダイヤモンドの輝きは、マリアの趣味ではない。帰国したその足で連れて行かれた宝石店で、彼が選んだ品だ。彼女へ一言も確認せず、彼はそれを購入した。幸いサイズが合ったので、そのままはめて出てきたが、マリアに彼との結婚がどういう風に始まるのかを予感させるには十分だった。
さらに登記所へ連れて行かれ、ルカリオの秘書を立会人に結婚のための書類を提出した。
略式もいいところのそれに、マリアは不安を抱いていた。別に盛大な結婚式を挙げたかったわけではない。そう心に言い聞かせ、不安をなだめる。
だが帰国した足で結婚し、さらにマンションに一人で取り残されたことは、マリアの心を痛めつけるには十分だった。
のろのろと夕飯の用意を調えるも、ルカリオが難じに帰ってくるのかすら分からない。
いや。そもそも彼は、帰ってくるつもりがあるのだろうか。
どれだけ略式で簡素であったのだとしても、今日はルカリオとマリアが結婚した日だ。以前からベッドを共にしていたのだとしても、初夜すらないがしろにされる事は、マリアにルカリオの本心を想像させた。
結局のところ、彼は自分を愛してなどいないのではないか。
この結婚も、なにかの目的があってのことではないのか。
あの夜、ルカリオが口にした謝罪も、実のところ本心ではないのではないか?
たった一人でマンションに取り残されると不安だけがわき上がってくる。指輪と登記所で受け取った結婚証明書だけが、これが夢ではないことの証拠だった。
ソファで膝をかかえて座り、自分のお腹を守るように小さくなる。
まだ目立たない腹部は本当に妊娠しているのだろうかと、そんな疑問すら抱いてしまう。けれど悪阻の兆候はあるし、医者からも順調だと告げられている。
ルカリオが忙しい人間だなんてことは、一年間過ごした中で知っていたはずだ。以前にもこんな風に、彼は自分を残して世界中を飛び回っていた。それでも不安に感じなかったのは、結局のところ彼の愛情を信じていたからだろう。
そして今、こんなにも不安なのは、彼の愛情を疑っているからだった。
◇
ルカリオが自宅マンションへと帰ったのは夜も遅く、すでに日付が変わった頃の事だった。
会議を終えて出張中に溜まった書類の決裁を済ませた頃に、友人から誘われて夕食に出たのだ。そこで酒と料理を腹に収め、アルコールで酩酊した頭で部屋へと入る。
そこは電灯が点っていて、いやに明るい。アルコールで濁った頭のまま、いつもの週刊に従って冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、注いだグラスの中身を飲み干した。
「……なんだ?」
そこで気付いたのは、ダイニングテーブルの上に置かれた皿だった。ラップをかけられ、冷め切っている。だがいずれも手の込んだ調理がなされた料理なのが見て取れた。
そして居間のソファの上で、丸くなりながら眠っている女性の姿を見つけた。
クッションを抱きしめ小さくなっているのは、マリアだ。どこか幼く心細げな表情で眠る彼女に、ルカリオは言いしれぬ苛立ちがわき上がった。
結婚式を挙げなかったのだとしても、略式もいいところで登記所で書類を提出しただけなのだとしても、今夜は初夜だった。なんの連絡も入れずに花嫁を放置し、友人と夕食を摂って帰宅した自分。
自分が帰ってくるかどうかも分からないのに、夕食の準備をして待っていたのだろうマリア。
彼女の本性を知っていても、こんな風にされれば罪悪感の一つも湧いてくる。それが腹立たしい。まるでマリアが被害者のようではないか。自分こそが被害者だ。祖父のために意に添わぬ結婚までした自分こそが、アジャーニという巨大な家族への殉教者だ。
そう考えて怒りを湧き上がらせようとしても、こうしてソファで小さくなって眠るマリアを見てしまえば、怒りは簡単に霧散する。
「くそっ」
思わず罵り声が漏れるが、マリアが起きる様子はない。
このままソファに置いておいては、風邪を引くかもしれない。妊娠している状態で、それは望ましくないだろう。自分の子供ではないが少なくともアンジェロに『アジャーニの後継』として見せて彼を安心させるためにも、子供には健康に生まれてきて貰う必要がある。
ルカリオはマリアの身体を抱き上げると、ベッドルームへと運んだ。小柄で体重の軽いマリアだが、それでも抱き上げた彼女は数ヶ月前よりも軽く感じた。
本当に妊娠しているのだろうか。そんな疑問すら抱いてしまう。
ベッドに寝かせ、布団をかぶせると彼女の目尻に触れた。
わずかに湿っていることに気づき、ルカリオは舌打ちをして部屋を出て行った。
◇
マリアは浅い眠りの中で誰かが帰ってくるのに気付いていた。明晰化しない意識のまま、ぼんやりと薄目を開けて見ればそこにはルカリオがいた。
書類上、夫となったはずの男性。だが彼は酔っているようだった。
一緒に暮らしていた頃も、彼は付き合いやパーティーで酔ったまま帰ってくることが何度もあった。だからそれは別に珍しいことじゃない。マリアは痛みを告げる胸をなだめるように、心の中で繰り返す。
「くそっ」
自分を見下ろしたルカリオの罵りに、身震いしそうになった。眠ったふりを続けながら、マリアはやはりそうなのかと、心中で嘆息する。
彼は結婚などしたくなかったに違いない。少なくとも、自分とは。
だからこそ、結婚式の当日に誰かと夕食を共にし、酔っ払って帰ってきたのだろう。もしかしたら帰ってきたくなかったのかも知れない。
どこかのモデルのガールフレンドとベッドを共にしたかったのかも――いや。どこか別の女のベッドから帰ってきたのかも知れない。
そこまで考えてしまえば、マリアにはもう目を開けてルカリオに「お帰りなさい」と告げる勇気はなかった。
不意にルカリオの身体が、その体温を感じられるほど近くなる。抱き上げられたのだと理解したのは、ルカリオの使っている香水とアフターシェーブローションの香りを嗅いだ後だった。
ベッドまで運ばれ、布団をかけられる。そして、そっと目尻を撫でられた。
その感触で初めて自分が泣いていたのだと気付いたマリアは、ルカリオが立ち去るまで目を閉じて眠ったふりをする。
小さな舌打ちと共に人の気配がなくなり、ドアが閉まる音がした。
それを確認してマリアはようやく目を開いた。
なぜ、結婚を望んだのか。
ルカリオの心が理解できず、マリアは枕に顔を埋めて声を押し殺した。
2011/02/21 23:35 誤字訂正
2011/02/22 23:15 誤字訂正