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「は? どういう事です? 契約の見直し?」
「いえ、ですから! 突然打ち切りだなんて、冗談はやめてくださいよ!」
ガゼット社のオフィスは今、騒然としていた。突如鳴り響いた電話。様々な取引先から一斉に、これまでの契約や取引の見直しを告げる電話がかかってきたのである。
いずれもが、契約の打ち切りを匂わせる物だった。そうでなくても、これまででは考えられないほどの譲歩を要求された。
「一体なにが起こっている? 不渡りを出した訳でも、スキャンダルがあった訳でも無いというのに、突然」
アントニオが苛立った表情で電話をかける。それは取引の見直しを告げてきた会社の取締役への直通電話だった。
「お久しぶりです。ガゼットです。――ええ。先ほど報告を受けました。一体どういう事なのか、ご説明をいただきたい。我が社に何か落ち度がありましたか」
アントニオの不機嫌な声が分かったのだろう。相手の答えにアントニオの表情が強ばった。
「本社の指示? どういう事です。なぜそちらの本社――アジャーニが」
その言葉を聞いて、マリアの身体が強ばった。
アジャーニが本社の企業。その言葉だけで、マリアはこれが誰によって引き起こされたのかを理解した。
ルカリオだ。そう考え、マリアは身体が震えるのを停められなくなる。
彼はガゼット社を潰そうと考えているのだろうか。これほど突然契約が打ち切られてしまえば、会社の信用は失墜する。そこに理由が無くても、「契約を打ち切られる何かの理由」があると勘ぐられてしまえば株価の暴落はすぐに始まってしまうだろう。
会社で働く仲間達。突然辞めたマリアを、再び雇ってくれたアントニオ。それがマリア一人のために会社の存続すらも危うくなるなど、あってはならないのだ。
「……ルカ」
「――ともかく、一斉にこんな真似をされる覚えは、こちらには無いんです! ちゃんとした説明を――!」
電話口で言葉荒く交渉するアントニオを見、マリアは携帯電話を取りだした。
以前使っていた携帯電話は解約されている。だがアドレスデータは無事だった。だからこの電話には、ルカリオの携帯電話の番号もちゃんと残っている。彼が番号を変えていなければ、だが。
しかし。
マリアはほんの僅かの間逡巡し、そして通話ボタンを押す。
コール音が数回。そして音が切り替わる。
『やあ、マリア。そろそろ電話が来ると思っていたよ』
「ルカリオ……。どういうつもりなの」
『何がだい?』
耳元で囁かれるように、ルカリオの声が耳朶をくすぐる。ベッドで抱かれている間、この声で愛を囁かれるのが好きだった。
だが今、ルカリオの囁きはマリアの心を、毛筋ほども揺らさない。
「あなたの指示なのでしょう? ガゼット社との契約の打ち切りを止めて」
『一体なにを言っているんだい?』
「……ルカリオ」
途方に暮れたマリアの声に、電話口のルカリオが満足げに喉を鳴らせて笑っているのが聞き取れた。
「ともかく、こんな真似はすぐに辞めてちょうだい!」
『マリア。僕は君に選べと言ったはずだよ?』
「――こんな真似をしておいて、選択肢を提示してるような言い方はやめて!」
『別に僕は構わないんだよ、マリア。放っておいても、君が退職するのはこの分では変わりないからね』
悦に入ったルカリオの声に、マリアは肩を落とした。
これ以上の選択肢は無い。このままでは自分のことでアントニオやマイク達に、大きな被害が出てしまう。それは絶対に避けなくてはいけない事だった。
友人としてアントニオは助けてくれた。本当なら見捨てられてもおかしく無かったのに。
では、自分もまたそうすべきではないだろうか。
――心が揺れなかったのだとしても、ルカリオと結婚できる。このお腹の子供に、きちんと父親がいてくれるというのなら。
自分の心が納得していなくても、頷くべきなのではないか?
「……分かったわ。でもあと少しだけ時間をちょうだい」
『時間? ああ、そうだね。身の回りを綺麗にしてもらわないとね』
ルカリオの言葉に言い返すことなく、マリアは電話を切る。そしてため息を吐いたのだった。
◇
突然電話を切られたにも関わらず、ルカリオは満足げに微笑んで携帯電話のディスプレイを眺めていた。
これで良い。彼女はもう、こちらの手の内にある。
ルカリオはその手でインターフォンをつかみ取ると、支社の社長に向けてガゼットへの見直しを上方修正するように伝える。無論、支社の人間は混乱するだろうが、そんな事はルカリオの知ったことではなかった。
時間が欲しいと彼女は言った。それがアントニオ・ガゼットと別れるための時間なのだろう。ルカリオはそう考え、唇をゆがめる。
アントニオがまだマリアに近づくようなら、それは阻止しなくてはならない。アジャーニの花嫁として迎える以上、妙なゴシップは避ける必要がある。祖父――アンジェロの耳に入れば、この結婚を行う理由それ自体が失われてしまうのだ。
「……ああ、ルカリオだ。調査を依頼したい」
マリアを連れて帰った後も、アントニオ・ガゼットの身辺を見張っておく。そのための準備を終えると、ルカリオは満足げにソファに背を預けた。
◇
「本気なの? マリア」
「……ええ。アントニオにも、退職願いを出したわ。……怒られちゃったけど」
リズのアパートで、マリアは沈んだ表情のままでマグカップを手に立っていた。向かい側のソファには、リズが座ってじっとマリアの表情を見ている。
「あの男は、あなたの事を人形か何かだと思っているのかしら。今日のガゼットの株価が乱高下した理由が、まさかあの男のせいだなんて」
ガゼット社が突然、アジャーニ系列の会社から揃って契約を打ち切られそうになった。それはビジネスの世界では瞬く間に広まり、ガゼット社の株価は一時半値以下にまで落ち込んだ。だがそれは、その後に再び広まった契約が上方修正で再締結されたという情報により、今度は倍近い値段を付ける事になったのだ。
事態が沈静した頃に、マリアはアントニオに辞意を告げた。
ルカリオと結婚する事を告げ、退職を願い出た。アジャーニの妻となれば嫌でもアントニオの耳にも届くだろう。だから隠す事はせず、ただ彼から結婚を請われたのだと告げた。
アントニオも、まさか今回の騒動がマリアへ圧力をかけるためだけに行われただなんて、考えもしなかったのだろう。突然の退職について、少々嫌みがましい口調で了解を告げられただけで、マリアは再び会社を去ったのである。
通っていた病院からカルテを受け取り、転院できるようにする。
細々とした物事を片付け、アパートへと戻ってみればリズが待ち構えていたのである。
「……マリア。私、あいつの事が信用できないわ」
リズの言葉に、マリアも苦い表情のまま頷くしかない。マリアとて、彼を信頼して良いのかどうか、分からないのだ。だがルカリオは目的を達するまで停まる事は無いだろう。なにが目的なのかは分からないが、自分と結婚すれば少なくとも友人や知人へ迷惑がかかる事はないはずだ。
それに、信じてはいないが信じたいとは思ってしまう。そんな自分がいる事を知っているマリアは、自嘲気味に笑う。
「……今の私を騙しても、ルカリオにはなんのメリットも無いわ。大丈夫よ、リズ。助けてくれたこと、本当に感謝してる。ありがとう」
そう告げたマリアに、リズはただ頷き返す事しかできなかった。