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翌朝、マリアは寝不足の頭を抱えたまま出社していた。アントニオが怪訝そうな顔をしているのに気付いているが、素知らぬ顔でやり過ごす。
マリアの脳裏には「なぜ」という言葉が繰り返し浮かんでいた。
昨夜あらわれたルカリオは、許しを請うた。そして結婚という言葉を口にした。けれどなぜかマリアには、その言葉が欠片も嬉しくは無かったのだ。
感じるのは怒りでも恨みでもない。
――なにも感じなかったのだ。
ルカリオに捨てられる前ならば、きっとその言葉に喜んで頷いただろう。心は幸福と歓喜に満ちていただろう。だが昨夜、ルカリオがくれた言葉は何一つ胸に響かなかった。
ルカリオへの愛は、まだある。この胸と、この身体に宿った命は今も彼を望んでいる。
だが彼の謝罪にも、結婚の申し出にも、マリアはまったく震えなかった。
だからこそ、断ろうとした。無論、あの時口にした言葉は嘘ではない。アントニオには世話になっている。一度は身勝手に会社を辞めた自分を、それでも受け入れてくれた彼らを、また裏切ることはできないのだ。
だがルカリオはマリアの言葉をまったく聞いていなかった。
ルカリオにとって、マリアが断ろうとするなど予想の外だったのだ。
「……本当に、結婚したいって思っているの?」
知らずこぼれた言葉は、本心だった。
◇
不愉快だった。
出張先の海外法人会社の会議に出席しながら、ルカリオは胸の内からわき上がる不快さを消すことができずにいた。
理由は昨晩のマリアの態度だ。彼女は自分の申し出を断ろうとした。
このルカリオ・アジャーニが頭を下げ、さらに結婚を申し込んだというのにだ!
それを、仕事をしているからだの、急に辞めることなど出来ないなどと言っている。そんな理由で自分の申し出を断ろうだなんて、彼女は一体何様のつもりなのか。
「――所詮は欲深く愚かな女ということか」
自分という絶対的な庇護者の下にありながら、別の男をくわえ込むような女だ。
ならば、彼女が断れないようにすれば良い。
そうとも。アントニオ・ガゼットがそれほど良いというのなら、彼が居なくなれば良い。自分の力を見せつけ、アントニオなど足下にも及ばないと知らしめれば良いのだ。
女という物を信じるなど、ありえない。ルカリオはそれを若い時に知った。
一人の女性を強く愛したルカリオは、その女性との結婚を強く願った。
だが彼女はルカリオに身体を許しながら、それ以上を許さなかった。結婚を口にするたびに笑って流されていた。だからルカリオは、既成事実をもってそれを達成しようとしたのだ。
相手の都合などルカリオには関係無かった。彼女とて口では断っているが、アジャーニの後継者の妻となれるならば、最終的には喜んでくれるだろう。そう考えていた。
だからこそ、わざと避妊をせずにセックスをした。何度も、何度も。彼女はそのたびに困った顔をして、妊娠したらどうするのかと怒っていたが、ルカリオにしてみればそれは望むところだったのだ。
だが、彼女は一度として妊娠しなかった。
だからこそ、ルカリオは健康診断にかこつけて彼女と自分の検査を行ったのである。
それは全て彼女には秘密裏に行うはずだった。
だがその結果を、彼女は偶然にもルカリオよりも先に見つけてしまっていた。
―――ねえ、ルカリオ? 笑っちゃうわね。あなた、女性を妊娠させる事ができないんですって。
今でも思い出せる。彼女の唇があざ笑うように下弦の月を描いていた姿を。
今でも思い出せる。妊娠させようとわざと避妊具を使わずにセックスをしていた自分を馬鹿にする声が。
彼女は去っていった。ルカリオは彼女が手にしていた報告書を燃えさかる暖炉に投げ捨て、そして全てに蓋をした。
彼女がその後、どこぞの大公に見初められて結婚したと風の噂に聞いたが、ルカリオはすでに身と心を鎧に包んだ後だった。最早女性に心は揺らされない。女など、所詮は金と地位があれば誰にでも股を開くような存在なのだ。
アジャーニの後継者を作ることのできない自分は、結婚などしない。そもそも、後継者など数多居る親戚の中から適任者を据えればそれで良いではないか。
ルカリオの女癖の悪さは、そこから始まった。一夜の恋人と逢瀬を交わし続け、そして自分の中の女性への蔑視を強化していった。
そんな中、彼はマリアと出会ったのだ。ルカリオの地位や財産を知ってもなお、ルカリオだけを見ていた。そんな彼女に、ほんの少しだけ心が揺れた。
――だが、彼女は妊娠した。自分以外の男の子を。そしてそれをルカリオの子だと言って、自分を騙そうとしたのだ。
ルカリオが不意に手を上げ、会議の席で交わされていた言葉が停まった。
不意にシンとした空間で、皆がオーナーの言葉を待っている。
「……ルカリオ様?」
「契約の見直しをしてもらおう。そう。とりあえず、このガゼットとかいう会社については、全て契約を見直せ」
「――お待ち下さい! ガゼット社との関係は非常に良好です! これを見直す理由がありません!」
ルカリオの言葉に、担当者が驚いたように声を上げる。だがそれをルカリオは睨み付けるだけで黙殺する。
「やれ、と言ったのだが? 命令に従えないのであれば、我が社にいる必要性は無いな?」
そして、最後通牒を突きつける。それだけで担当者は押し黙り、席に座り込む。会議の出席者の顔を見回し、ルカリオはただ微笑む。それはとても綺麗で、そして何もない笑顔だった。