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「父親として認めて……って」
マリアは目の前で頭を下げているルカリオの存在が信じられなかった。
一年間、共に暮らした中でマリアの中に構築されたルカリオ・アジャーニという男性の印象は『傲慢』の一言に尽きるのだ。アジャーニ一族の家長として采配するという責務がある以上、そうなるのも仕方のないことなのだろう。彼の肩にはアジャーニの一族だけでなく、傘下企業の従業員達の生活すらものしかかっているのだから、傲慢なほどでなければやっていられないのだろう。
だが、だからこそ彼が頭を下げるなどという図は、思い浮かばなかった。
「一緒に帰ろう。そして結婚して欲しい」
顔を上げて見つめてくるルカリオの視線は熱を持っている。じっと懇願するような視線に、マリアは困惑の表情を浮かべていた。その隣で、リズが険しい顔をしている。
「今さらと言われるかも知れない。確かに僕は君に酷い真似をした。だが、もしもまだ君の側に誰もいないのなら、どうか僕にチャンスをくれないか?」
「……ルカリオ」
真摯な姿勢を保つルカリオに、マリアはどこか迷う雰囲気を漂わせる。だがその直後、マリアは首を横に振った。
「駄目よ、ルカリオ」
「……マリア?」
驚いた表情で顔を上げたルカリオに、マリアは苦々しい顔を向ける。
「私は今、仕事をしているわ。以前、貴方に言われるがままに辞めてしまったせいで、迷惑もかけた。だから今度は貴方の言葉に従って辞めるわけにはいかない」
「……君は、僕よりも仕事を取るというのか?」
不意にルカリオの声が硬くなるのをマリアは感じた。
「どういうつもりだ、マリア。君は今、妊娠しているんだぞ。なのに仕事をするだなんて」
「お言葉ですけどね。今のご時世、妊娠していても仕事をしている女性は沢山いるわ。アントニオ――社長にもお世話になっているの。あの人の期待を裏切る訳にはいかないわ」
「……お世話に、ね」
ルカリオの言葉が嫌に耳についたが、マリアはそれを無視して言葉を続ける。
「分かって、ルカリオ。あなたも会社を経営する人間ならば、理解できるでしょう? 突然従業員が辞めたりしたら、それは無用の混乱を生むわ」
「そんな事は無い。大概の従業員は替えがきく。少なくとも君の仕事は『君にしかできない仕事』じゃないだろう?」
ルカリオの言葉にマリアは言葉を失い、横で聞いていたリズすらも唖然となった。
替えがきく。確かにそうだろう。従業員は特殊な技能を要する仕事でなければ、多くは別人でもフォローができるものだ。だが、そうだとしても、突然の退職は職場にとっては迷惑でしかない。
ルカリオは、雇用する側としてそれを知っているはずだ。なのに彼は、それを些末な事だと言う。
「確かに、私の仕事は社長の秘書といっても、たかが知れているわ。でもね、それでも社長は私を信頼して仕事を任せてくれているの。その信頼を裏切れと、あなたは言っているのよ?」
「君が僕の妻となるのなら、それは仕方のないことだろう。僕は自分の妻が、別の男の秘書をやっているだなんて冗談じゃない」
今や憮然とした表情を隠さない目の前の男に、マリアは途方に暮れてしまった。
ルカリオは譲るという事を知らないのだ。彼にとって、全ては譲られる物だから。
本来、ルカリオとて秘書が突然辞めるなんてありえない事だと分かっているはずだ。ルカリオにも当然のように秘書はいるし、むしろ彼には数人の専属秘書がいるのだ。その内の誰かが突然辞めるような事があれば、彼の業務にもなにがしかの差し支えがあるだろう。
だが彼はそれを想像しない。
いや。できないのだ。
「ともかくだ。マリア、君には僕と一緒に来てもらう。仕事はすぐにでも辞めてくれ」
「ルカリオ!」
もはやマリアには悲鳴めいた声を上げる事しかできない。
ルカリオは初めから聞く気が無いように、自分の言いたい事だけを口にしていた。
最初に頭を下げた事が嘘のように、ルカリオは自分の思うように物事を推し進めようとする。
ルカリオの事が理解できない。彼は一体、なんのつもりでここまで来たのか。
マリアは、不機嫌そうに顔をしかめているルカリオを、怯えながら見つめる事しかできなかった。
◇
ルカリオは苛立っていた。
このルカリオ・アジャーニが頭まで下げて見せたのだ。さらに結婚という言葉まで口にして見せた。アントニオ・ガゼットなど足下にも及ばない自分の妻に収まれるのならば、彼女はすぐにでも頷くと思っていた。
だが、マリアは拒否した。アントニオに世話になっていると言って。その瞬間、ルカリオの胸中には憎悪がわき上がった。
それはマリアに対してであり、同時にマリアのパトロンであろうアントニオに対してもだった。マリアはここに至って、まだ自分とあの男を天秤にかけるつもりなのか。
不愉快な感情は、そのまま表情と言葉にも表れていた。
秘書の仕事と言っても、どうせアントニオの個人的なパートナーを側に置くための方便だろう。ならば、仕事と言いながら何をしているのか分かったものではない。
そもそも、別の男と密通しながら、自分に妊娠したと言うような恥知らずの女が、仕事の責任などという言葉を口にする事自体が、お笑いだった。
だが同時に、一つの案が浮かぶ。
「良いだろう、マリア。仕事があるから僕と来られないというのなら、君の仕事が無くなれば良いんだろう?」
「……ルカリオ? 何を言って」
「僕を甘く見ない事だ。ガゼット社なんて、アジャーニからすれば中小企業も良い所の、下請けの下請け程度だ」
「待って。なにをするつもり!?」
「選べ、マリア。僕と一緒に来るか。それとも――――」
叫ぶマリアに、ルカリオは微笑みを浮かべて見せる。その笑みは、仕事場で部下達が恐れているような類の物だということを、ルカリオは良く知っている。
「卑怯よ、ルカリオ! あなた、自分がなにをしようとしてるか分かってるの!?」
「僕は何も言ってはいないよ。ただ君に僕と来るか否かを『選べ』と言っているだけだ」
唇をかみしめるマリアの横で、沈黙を保っていたリジー・ダーシーが手を上げた。
「良いかしら、ミスタ・アジャーニ」
その視線は蔑みを孕み、すでに絶対零度に近しい物になっている。
「あなた、自分が今、脅迫をしているって理解している?」
「脅迫? 人聞きの悪い。僕はプロポーズをしているだけだよ」
鼻で笑うルカリオを睨み付け、リズはため息を吐いて見せた。
「もし本気で言っているなら、最低のプロポーズだわ。ルカリオ・アジャーニ。あなた、自分が拒否されたからってマリアから全部を奪うつもり?」
「……なんだって?」
「今のあなた、マリアに拒否された事が許せなくて八つ当たりをしてるようにしか見えないって言ってるのよ」
「ハ! 何をバカな事を。僕が八つ当たりだって?」
笑って見せたルカリオを、リズは呆れた表情で見ると頭を振った。
「駄目だわ、マリア。こいつ、本気で分かってない」
「……リズ」
「ともかく! 今日はもう帰って。マリアにだって考える時間くらいよこしなさい。本気でマリアを愛して結婚したいんなら!」
リズのその言葉に、ルカリオは息を呑み、渋々と頷く。
「……仕方ない。僕はそう長い間、この国にはいない。マリア。あまり僕を待たせないでくれ」
そう言うと、足早に家を出て行く。その後ろ姿を見送ったマリアとリズは、お互いに顔を見合わせてただ頭を抱えるのだった。