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ルカリオは「待たされる」事が滅多にない。無論、自然ややむを得ない事情で待たされる事はあるが、こういう風に誰かを訪ねて玄関先で待ちぼうけを食わされるなどという事は、まず無い。誰もがルカリオが訪れたと知れば、あらゆる手を止めて彼を歓待するからだ。
だが、目の前のドアは一向に開く様子が無い。苛立ったルカリオは、今度はより力を込めてドアをノックした。
「――はいはい。ドアをたたき壊さないでよ?」
インターフォン越しに女の声が響く。その声が聞き覚えのない声だという事実が、ルカリオをさらに苛立たせた。
「ミス・ダーシーかな? 開けてくれないか」
「自分の名前も名乗らないような男を家に上げる女は居ないよ。一昨日おいで」
威勢の良い声で啖呵を切られ、ルカリオは目を白黒させる。彼にこのような物言いをする者などいない。たとえ親戚であろうとも、アジャーニの当主である自分にはもっと丁寧な口の利き方しかできないのだ。
だが、このインターフォンの女性は平然と口答えを返してきた。恐らくは自分を知らないのだろう。そう考えてルカリオは胸をなで下ろし、改めて名乗る事にした。
「僕はルカリオ・アジャーニだ」
それだけを言えば、扉は開くと思っていた。
だがインターフォンは何も返さず、ドアが開く様子もない。
怪訝に思っていると、インターフォンからは呆れた声が発せられた。
「……で?」
「なに?」
「ルカリオ・アジャーニさんね。了解したわ。で? そのアジャーニさんが、どんな用事だと?」
初めから喧嘩腰な物言いに、この女性が自分を知っていることをルカリオは理解した。恐らくはマリアから、彼女にとって都合の良いように様々な事情を吹き込まれているのだろう。さしずめ自分は、健気な彼女を捨てた情のない男、というところか。
「……マリア・ウォートンが、こちらでお世話になっていると聞いている。彼女と話しがしたい」
「話? 具体的には?」
「……ここで話すような内容じゃあ無い。それは彼女の名誉のためにだ」
こう言えば、この女性もさすがに譲歩するだろう。
ルカリオはそう計算し、インターフォンへ視線を向ける。
「……分かったわ。ちょっと待ってなさい」
ブツリとインターフォンが切られ、ガチャガチャと音を立ててチェーンが外される。そして、ドアが開いた。
そこには地味で質素な服を着た女性が立っていた。黒髪を一本縛りにして背中に流し、険のある目つきで自分を睨み付けている。
「……言っておくけど、私も同席するわ。それに、隣には腕自慢の友達が住んでるの。変な真似をしようとすれば、すぐに駆けつけてくれるわ」
「……大丈夫だ。話をするだけだよ」
睨み付けてくる女性に両手を挙げて見せれば、彼女はフンと鼻を鳴らして踵を返す。
「こっちよ」
会話するつもりのない女性。だがその態度で確信した。
リジー・ダーシーはマリアから事情を聞いている。それも恐らくは彼女にとって都合のいい「真実」を。
「なるほど。味方は多いほうが良い、という所かな。マリア」
だがどんな味方を得ようとも、マリアはルカリオには勝てない。アジャーニという巨大な帝国からすれば、こんなちっぽけなアパートに暮らす独身女性など、敵にもならないのだ。ましてや、非は彼女の方にある。どれほど都合のいい嘘で友人を騙したのだとしても――いや、もしかしたら友人もグルなのかも知れない。
ルカリオはそう考えて、身を引き締める。
嘘つき二人を相手にする――そう考えて、苦笑を浮かべた。どれほどの詐欺師であろうと、ルカリオの前で嘘をつき続けるなど不可能だ。これまでの自身の経歴を合わせて考えてみれば、当然のことだった。
◇
ルカリオの目の前に、二人の女性が座っていた。先ほどから自分を敵意に満ちた視線で睨み続けているリジー・ダーシー。そしてその隣に座っている女性は、ルカリオにとっては見慣れた存在だった。――だった、はずだ。
けれどルカリオは、目の前に座る女性が本当にマリア・ウォートンなのか確信が持てずにいた。妊娠しているはずなのに、以前よりも細く痩せた身体。安物の服に身を包んでいる。顔色も悪い。
「……マリア。どこか病気なのかい?」
「っ……。別にどこも悪くはないわ」
思わず心配して声をかけるも、マリアはとりつく島もない声色で、冷たく返答するだけだった。
ルカリオが二人の前に腰を下ろし、リジーがいれた安物のコーヒーを口に運ぶ。
「それで?」
二人がいつまでも話し出さないことに焦れたのだろう。リジーが口火を切る。
「そう……だね。まずは、どうして僕がここに来たのか、から話そう」
「そうね。あんたがマリアにした仕打ちは、許せるものじゃないわ」
「……そうだね」
頷いて見せる。なぜならばリジーは、マリアから事情を聞いているだろうからだ。つまり彼女は基本的にマリアの味方なのだ。だがルカリオは別にリジーを説得する必要性は感じていなかった。正義は我にあり、とルカリオは考えている。
つまるところ、マリアを利用するために今は彼女達が思う「真実」を自分も認めたように見せれば良いのだ。そうすればリジーの反応も好転するだろうし、マリアの怯えたような様子も変わるだろう。
そう考え、ルカリオはマリアに対し頭を下げて見せた。
「すまなかった、マリア」
「……ルカ……リオ?」
マリアの呆然とした声が下げた頭の上から聞こえてきた。呆然としているのだろう。実際、自分のこんな姿を社員が見れば、この世の終わりかと思うかも知れない、とルカリオは思う。
ルカリオ・アジャーニが誰かに頭を下げるなど、この世が終わろうともありえない事なのだから。
「あの時、君が浮気をしているという電話がかかってきていたんだ。……そこに君が妊娠した、というから悪意の噂を信じてしまった」
ルカリオは沈鬱な顔を作り、マリアへと告げる。彼女の望むだろう「真実」を。
「けれど、君を追い出した後、冷静になって考えてみたんだ。君がそんな真似をするだろうか? ……答えは否だ。君はそんな真似をするような女性じゃあない」
マリアが、おずおずと顔を上げる。その目に希望の光が宿っているのを認め、ルカリオは内心で笑みを浮かべた。
「マリア。どうか許して欲しい。そして僕にチャンスをくれないか? そのお腹の子供の父親として、僕を認めて欲しい」
そう言って頭を下げた。
本来ならば高いプライドを持つルカリオが、こんな毒婦に頭を下げることなどありえない。だが今は自分のプライドよりも、敬愛する祖父の願いを叶えることのほうが優先される。
そう考えながら、ルカリオは頭を下げ続けていた。