#0
/0
ルカリオ・アジャーニは薄暗い階段を昇っていた。
薄汚れた階段はあちこちに落書きが描かれ、治安の悪さを見せつけている。その中を仕立ての良いスーツに身を包んだ男が、一人ゆっくりと階段を踏みしめる。
薄い扉の向こうから怒鳴り声が頻繁に聞こえてくる中、ルカリオは一つのドアの前で足を止める。手にしたメモに書かれた住所は、目の前だった。
深呼吸をしてから、ドアをノックする。
ドアの向こうから音はしない。だが、その向こうに目的の人物がいる事は、事前の調査で判明していた。
「……はい?」
ガチャリと音を立ててドアが開く。チェーンがかかっているのだろう。僅かに開いたドアから、女が一人、顔を見せた。
長い金の髪は扇情的にあらわになった肩にかかり、豊かな膨らみはキャミソールを下から持ち上げている。下着姿の女性は、ドアの向こうになったルカリオを一瞥して、驚いたように目を見開いた。だが、それだけだ。
「……久しぶりだな、マリア」
沈黙を割るように、ルカリオは言葉をかける。
だが女――マリア・ウォートンは胡乱げな目つきでルカリオの頭からつま先までを見回し、鼻を鳴らす。
「五年ぶりね。なにか用かしら、ルカリオ・アジャーニ」
「話がある。……中に入れてくれないか」
ルカリオの言葉には懇願の響きがあった。
それを聞いたマリアは、わずかに眉を寄せ、扉を閉めた。チェーンを外す音が響き、再びドアが開く。
「どうぞ? でも話は早めに済ませてちょうだい。私、もうすぐ仕事だから」
「……お邪魔する」
ルカリオが入った室内は、外観の薄汚れた様子からすれば、随分とマシに見えた。狭苦しいキッチン兼居間。その向こうにあるドアは、恐らくは寝室だろう。質素な室内は、最低限の家具しか置かれていないようだった。
「それで? 一体なんの用かしら」
マリアは肌の露出の多い服に袖を通しながら、ルカリオを促す。
「マリア。僕の――僕たちの子供はどうしているんだ」
「は?」
マリアがキョトンとした顔で自分を見るのを、ルカリオは自分の内側の恐れを必死に押さえつけながら見つめ返した。
「教えてくれ、マリア。あの子は――ジョシュアは、どこにいるんだ?」
「なにを言っているの、あなた」
「頼む、教えてくれ……。僕たちの子供は、どこにいるんだ? ここに居るのか?」
顔色は真っ青で、こけた頬がルカリオの顔をまるで幽鬼か何かの類に見せている。それを知りながら、マリアはただ肩をすくめて見せた。
「――話が分からないわ、ルカリオ・アジャーニ。僕“たち”の子供、って一体なんのこと?」
「マリア。どうか、頼む」
「どこに居るも何も。ルカリオ。『僕たちの子供』なんて、この世のどこにも居ないわ」
マリアの淡々とした言葉は、ルカリオの意識を停滞させた。
目の前で化粧を始めたマリアは、濃い化粧を施しながら口を開く。
「分かったなら、早く帰ってくれない? そろそろ時間なの」
「マリア……どういう、ことだ?」
「だから、何がよ。どうせここに来たって事は、私のことは調べてあるんでしょう? コールガールをやっているマリア・ウォートンの身上調査なんて、もう済んでいるんでしょ? だったら分かるはずよ。ここにジョシュア・ウォートンはいないわ。『私の子供』は、もう居ないの。この世のどこにもね」
マリアの告げた言葉は、ルカリオの最後の希望を断ち切ったのだった―――。