第漆話
財前邸から、転がるように馬車に乗り込んだ旦那さま。「出せっ!」と乱暴に命じられるまま、馬に鞭をいれたが。
いま、俺は信じられないものを見てる。
夢か、それともこれが、異国の化け物か?
いったい何が起きてるんだ!?
財前邸から伯爵父娘を追ってきたこいつは……
巨大なコウモリだ。しかも、美しい少女の顔かたちの、化け物だ!
漆黒の長い髪が夜風にさらさらと解けている。
その冷たい瞳、憎々しげな眼差しさえ愛らしい。
白のドレスが月明かりを映して、神々しくさえある。
急かして走る馬車の屋根の上で凛と立つ姿は、可憐な天使のようでもあるが……
大きく拡げた羽根はまるで、馬車を異界へいざなう魔界の王だ。
風の夜に、霧を裂き、駆けゆく者あり。
愛しい子をしっかと胸に抱く父親、うなされる子に、魔王は語りかける……
「足で蹴り砕けそうだけど、はしたないかしら」
ドレスで空を飛んでおいて、今さらだけど。
屋根は木製。でも、さすがに足でガンガンやるのは、中にいる琴子さまもうるさいわよね。
私は、手刀を屋根の一辺に突き入れた。中から、驚く男の声がする。
缶切りで缶詰めの蓋を開けるみたいに、手の幅の分ずつ、屋根に切り込みを入れてゆく。
ふたつの辺に切り込みを入れたら、あとは力で。
ベキン、ベキンと音を立てながら、角の部分から屋根を引き剥がす。
「琴子さま、お待たせ。助けにきたわよ」
「姿子さまあっ!」
さすが我が友、驚かないわね。
琴子さまの肩を抱いて……いえ、琴子さまを屋根の化け物への盾にしようとしているクソ親父、もとい川島伯爵なんて、唖然とした口が塞がってないけど。
「き、貴様、なんなのだ、何故、馬車に追いつける!?」
「それ訊く意味ある? お生憎さま。私は琴子さまを護るためなら、鬼にも悪魔にもなるわ」
私には羽根がある。あるものは利用しないとね。
走り続ける馬車は財前邸の敷地を抜けて、つづら折りの山路を下ってゆく。
私のうしろから護送用の馬車がついてきてるかと思ったけど、姿が見えない。本当、頼りないわねあのゴリラ。
屋根を完全に剥ぎ取って放り投げ、私は馬車籠の中に降りる。ガタガタと、伯爵は椅子の上で私から距離を取った。まぁ、一歩で詰められる距離だけど。
娘を私の方に突き出して、私の手を逃れられる気でいるみたい。怯えて震える涙目が、哀れというか、図々しい。
「な、何が望みだ!」
「望みって。貴方がひとりで黙って護送されていれば、私は追って来なかったわよ。琴子さまを人質に取るから、取り返しにきたんじゃない」
「琴子は渡さん!私の娘だ、これからいい縁談がどんどん来る。着飾って、体を磨いて、とびきりいい女にしておく必要が、っ……」
最後まで聞く義理はない。琴子さまにも聞かせたくない。
私の爪は琴子さまの頰を掠め、川島伯爵の首を捕らえた。ごり、と喉が軋む。
伯爵の尻が椅子から浮く。脂汗が滲み首が滑る。ああ嫌だ、触りたくない。
「は、はなせ……!」
「喋らないで。耳が腐るわ」
琴子さまを放り、私の腕を掻きむしるけど、離して差し上げるつもりはない。
「……生け捕りじゃないと駄目かしら」
「ぐぅっ」
その時、頭の上で音がした。
私と同じ、馬車の屋根に誰かが乗った音だと瞬時に解った。
「その手を離せ、吸血鬼」
聞き覚えのある声。それと、低い唸り声。
まるで獣のような。
見上げるとそこには……黒服に身を包んだ、犬に似た化け物がいた。
でも、今の声は……
「尚将さま……?」
私に答えることなく、化け犬は伯爵の首にかかる私の手を叩き落とした。加減無しの力で。
ちょ、痛いんだけど!
「……貴様、いま伯爵を殺そうとしていただろう」
きびきびと部下に命令していたのと同じ声が、目の前の化け犬から聞こえる。
やっぱりそうだ。この化け物は、小田野尚将さま!
吊り上がった目は金色に獰猛に輝き、裂けた口もとには血を吸ったような真っ赤な舌と牙が並ぶ。
硬い黒毛で覆われた顔に人の面影はなく、脚も犬みたいに変形してる。走って馬車に追いついたのかしら。尋常じゃないわ。
美丈夫だった細マッチョがゴリマッチョになって、体格の面影すらない。
ていうかこの人、自分を棚に上げて、私を化け物呼ばわりしたのね!
「殺そうとはしてないわ。殺したいとは思ったけど」
「伯爵は貴族裁判にかける。余計なことをするな」
「誰のせいで琴子さまが攫われたのよ!」
尚将さまの救援で形勢逆転したと思ったのか、伯爵のいやらしい目が琴子さまを狙う。
私からはそれが見えたけど、尚将さまには背後だ、見えてない。
「! 琴子さ……」
飛びついた伯爵の腕と、伸ばした私の手をすり抜けて、琴子さまの体がふわりと宙に浮いた。
伯爵がその勢いで馬車の床に顔からつんのめる。ガタドンと馬車が揺れたが、誰ひとり気に止めない。
私は内心、「でかした!」と叫び、屋根だったところを見上げる。
思った通りの男がいた。
私よりも大きく禍々しいコウモリの羽根を拡げて。
銀髪が淡く月光を宿し、森の精霊のような清廉な光を纏う。
夜会の衣装は白のタキシード。それがやけに芝居じみていて、まるでこの男のための舞台のようだと思った。
「……っデミトリ!!」
「寄ってたかって、レディの扱いが雑すぎるよ、君たち」
「貴様らは……! 余計なことをするなと言っているだろう!」
琴子さまを横抱きに、窓枠に立つデミトリは悪戯っぽく尚将さまに笑いかける。
「貴方は、犬神憑き、だね。そんな奴が大事な妹の結婚相手だなんて、僕は嫌だな。君らが嫌う異国の化け物よりも、ね」




