第弍話
二階のダンスホールには色とりどりの華が咲いていた。弦楽器演奏に合わせてワルツを踊る紳士淑女たち。
一段高くなった立食パーティー会場では招待客らが挨拶を交わし、込み入った話はすぐ隣の談話室や庭を見下ろすテラスでできるようになっている。
私とデミトリがホールに姿を見せると、待ち構えていた紳士淑女が群がってきた。
「ご機嫌よう、デミトリ君。うちの娘と一曲踊ってはくれないかね? あそこにいる、ひときわ可愛い子だ」
「まあ姿子さん、今夜も愛らしいこと。わたくしの息子を覚えていらして? もうお嫁をもらってもいい年頃なのよ」
夜会恒例、息子娘自慢のビッグウェーブだ……。
まあ夜会ってそういうものだとは思うけど、目が血走っててヤバい。スカートの中では隣の淑女の足を踏んでいるのだ。
「えっと、私、女学校の友人をお迎えしてますの。そちらに先にご挨拶させて頂いても宜しいですか?」
「あら、いやだわ、わたくしったら」
そう言えば、物分かりのよい未来の母親を演じたい彼女らは海を割るように退けてくれる。
私はそそくさと、友人のもとに逃げ込んだ。
「お待ちしてましたわ、姿子さま。ローストビーフ召し上がる?」
「ありがとう、琴子さまっ。お腹すいてるの!」
琴子さまが自分のお皿から、お肉を一切れフォークに刺して「あーん」してくる。きっと、いや絶対に本物の淑女はしないマナーだ。
大丈夫大丈夫。私たちまだ学生だから。そんなに淑女淑女しなくても。
ぱくりと犬のようにかぶりつく私。にんにくのソースが、そっと奥に隠されたビーフの血の味が、とても美味……。
吸血鬼がにんにく嫌いって、あれ吸血鬼によるわよね。鼻が利きすぎるどっかの吸血鬼が、切ったにんにくをダイレクトに嗅いじゃったんだわ、きっと。
それに、赤の他人の首に噛みつくのも嫌い。同じ肉なら美味しい方がいいもの。
「はい、もう一切れ」
「あーん」
餌付けが楽しい琴子さまが、ちらりと私の首に視線をくれる。
「姿子さま、最近チョーカーをお召しになってますわよね。ついにお洒落に目覚めました?」
「ふふ、装飾嫌いでしたものね、私」
「ええ。今までの姿子さまなら、こんな締めつけるもの邪魔! とか言って引き千切りそうですけど」
「え、私そんなワイルドなイメージだったんですか……。今さらおかしいかしら?」
「まさか。とても可愛いですわ。私も真似ようかしら」
今宵の私は、白の装飾控えめのドレスに、首周りは黒のフリルたっぷりのチョーカーと、肩には黒のショール。……言ってしまえば、噛み跡対策だ。
がっつり牙の跡が残っているので、余計な騒ぎを起こさないためにも、普段からチョーカーで隠すしかなくなったのだ。
財前の娘の私がチョーカーを愛用していることで、夜会ではチョーカーが密かにブームになりつつあったりする。嬉しいやら、申し訳ないやら。
「あーら、姿子さまご機嫌よう。葬式みたいな色のドレスは、わたくしを引き立てて下さってるのかしら?」
薔薇が舞うようなきらきらした声に、太くてでっかい皮肉の棘。
「いらっしゃいましたのね蝶子さま、ご機嫌よう」
「よくないわよ」
見よ、とばかりに開いた胸元に男性たちの視線を集めながら寄ってきたのは、財前家のライバル商社の娘、猿若蝶子さま。
私たちよりふたつ歳上で、社交界では宵の明星と呼ばれている。意味は『無駄に光ってる』だ。
「今宵は小田野侯爵さまがお出でになるというから来てあげたの。御子息に私という伴侶を見つけて頂かないとね。でなきゃ貴女の家になんか」
「ああ、猿若商会では侯爵さまを呼べないのね」
ひとを見下すために寄ってきたかたと、お喋りするのは時間の無駄。さっさとどっか行ってもらうに限るわ。
「う、うちは、お忙しいかたを気遣ってるのよ。獣が出そうな山奥に、帝都の重職につくかたを恥ずかしげもなく呼べるこの家と違ってね!」
「そんな獣の住処へようこそ、レディ」
「え?」
淑女の仮面が剥がれかけた蝶子さまの背後から、とびきりのキメ顔でデミトリが割って入った。
「今宵参られた紳士は、侯爵さまだけではありませんよ。貴女に声をかけたいのにかけられない、うぶな紳士たちも愛でてあげて下さい」
いや、周りの男性諸兄は、珍芸をする女芸人でも見るような目で見てるだけなんだけど。
神像のような顔立ちの男にたしなめられた蝶子さまは、よだれが出そうなうっとり顔で「ひゃい……」とだけ答えた。
それをボーイに押しつけ、強制退去。
本当にこの男は、自分の顔の武器っぷりを知り尽くしている。
「ありがと、鬱陶しかったの」
「なあに、可愛い妹が虐められているなら、助けないとね」
「一番虐めてるのはどなたかしら?」
昼に出歩けない体にしておいて、よく言うわ。
「ああそうそう、小田野さまが少々遅れると……」
デミトリが話題を逸らし、用事を言いかけたとき。
私の背後で、皿の割れる音がした。
「琴子さま!」
蒼白な顔色で、琴子さまがうずくまっていた。
口元を手で覆う姿に、遠巻きにする招待客からは「毒?」「もしかして、料理に?」などと無責任なひそひそ声が飛ぶ。
デミトリは私以上に鼻が利く。「これは毒の匂いじゃない」と首を振り、
「彼女は、お腹に子がいる」
衝撃の発言を落とした。周囲にもざわめきが波紋のように広がってゆく。
「……え?」
頭が真っ白になった。
私たち、まだ16よ? 女学生よ?
確かに結婚を認められる齢ではあるけど、琴子さまが結婚したなんて聞いてない。
川島伯爵の娘が結婚するとなれば、我が家にも、この場にいるほとんどの人びとにも招待状が届くことだろう。
しかしそれはない。皆が同じ結論にたどり着くと、嫌でもわかる。
……婚外子。
そんな、不名誉な妊娠だと。
「……デミトリ、うそでしょ……?」
「僕が彼女をじろじろ見てると、姿子が怒っただろ。あの時、僕もまさかと思ってた。部屋を空けておいて良かった」
デミトリの指示ですぐさま医者に使いが走る。
使用人たちが部屋を整えるあいだ、メイドに背中をさすられる琴子さまは、とても辛そうで。
これが、つわりというものね。辛いときくけど、いま琴子さまが辛いのは、体調だけじゃない。
周囲の視線、ひそひそ声。針で刺される心地だろう。
多分だれにも、両親にも、友達の私にも言えない苦しみを、琴子さまはひとりで抱えていたんだ。
「琴子さま、だいじょうぶ」
涙を浮かべる琴子さまが、顔を上げた。
「姿子さま……」
「だいじょうぶ。私がいるわ」
何も出来ないけれど、手を握る。
周囲の視線は、私が遮るから。貴女の耳は、私がふさぐから。
貴女はいま、世界で一番大切にされなければならない人なんだから。
「琴子!」
挨拶に勤しんでいた川島伯爵と夫人が、ようやく駆けつけた。
けれど、犯罪者でも見るような視線のふたりは、娘に寄り添おうともしない。それどころか、妙なことを言いはじめた。
「夢魔だ!私の娘は、夢魔の子を宿したんだ!」