序話
月影さやかな帝都の夜。
眼下に広がる星空にも似た夜景は、私がそこへ踏み出すのを待っているかのようだ。
音を立てずにそっとテラスへの扉を開けて、白い手すりに足をかけたところで、
「はい、そこまで」
背後からの声に、私はぎくりと固まった。
「デミトリ!? な、何でバレてっ……?」
21時をまわり、使用人たちももう邸内に引っ込んでいる。見つかりっこない。
そう高をくくって、自室のテラスから庭木へこっそり飛び降りようとしたのを、義兄に抱き止められた。
「何処に行くのかな、猪お嬢さん?」
「誰が猪よ! ……っわっ」
くるり、ワルツのターンみたいに腰を引き寄せられた。もっとも、私の格好はドレスではなく、動きやすいブラウスに袴、ブーツだけれど。
「まったく、君には困ったものだ」
(ち、近い近い近いっ!)
顔だけは綺麗な男の唇があまりに近い。
キスでもされるのかと一瞬だけ、ほんの一瞬だけ思ってしまった。その隙をデミトリは逃さなかった。
首すじを、鋭い痛みが貫く。
「ふ、ぁっ……!?」
デミトリが私の首に、牙を突き立てていた。
(な、ん、で……?)
見開いた目の先には、悪魔の眼のような碧い月。
(私、殺されるようなこと、したのかしら……?)
月と街明かりが涙で、朧に滲んでゆく。
ああ、今夜はナイトショウの最終日だったのに。父も義母も夜会に出掛けて、今夜が最初で最後のチャンスだったのに……
まだまだやりたいこと、いっぱいあったのに――
どくん。
不意に、心臓が沸騰した。
咬まれた場所から噴水のように、私の血が碧い夜空に舞い上がる。
紅い雨を浴びながら、デミトリがゆっくりと私の首の血を舐めとった。ぞわぞわ。
(え、やだっ!)
妹に何してんのよ馬鹿!
顔だけは活動写真のスタアみたいに綺麗なんだから、犬猫みたいな真似やめときなさいよ。
ていうか私、割と頭が回ってるわね。
くらくらするけど、死ぬわけじゃなさそう……?
「御仕置きだよ、姿子」
手の甲で血を拭き取り、デミトリは夜会の婦女子が虜になるような笑みを浮かべる。
月みたいな、碧い瞳で。
「これで君は僕と同じ、夜の住人だ」
へなへなとテラスの床に座りこむ。袴が汚れるけど、立っていられない。
からだが思うように動かない。それ以上に……
喉が渇く。喉が渇く。
からだの中を巡る血が沸き立ってるのが分かる。これは何……これは何?
「あんた、私を何にしたのよ!?」
私に何をしたのよ、が普通だ。でも今の場合、これで間違ってはいない。
デミトリはわざとらしく肩をすくませ、やれやれと溜息をつく。
「演劇部を作りたいなんてワガママ言って女学校の先生たちを困らせ、歌劇とみれば朝から晩まで入り浸る。日中に出歩けないようにするには、これしかないだろう、素行不良娘さん?」
「これしかないわけあるかぁ――――!!」
こうして私、財前姿子は吸血鬼になった。
毛色の違うものを書きたくなりまして、初めての女の子主人公で書いてみました。更新はまっったりです、すみません。
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