2話 策士
源田の発言により教室内がざわついたが、そもそも4組に優勝なんてできるはずがないという結論に至ったことで、この話題がそれ以上盛り上がることはなかった。
四宮の話題が終わると、前の方の席にいた源田は何かを思い出したかのように、急いで洋乃の隣の席まで走った。
「ボンド! 頼む! 英語のプリント写させてくれ!」
ボンドと呼ばれているのは、去年の自分のクラスに行くという失敗を犯して遅刻した男子生徒だ。
「いいよ、白紙でいいなら」
「うわ、嘘だろ。本当にやってない?」
「本当だよ。俺は昼休みがあるから」
得意気な様子のボンド。
「そういう奴だったのか、お前は......」
そしてここに、ボンドの隣の席に座る洋乃も加わる。
「私もないんだよなぁ。昼休み」
思わぬ参戦にボンドは取り乱した。
「いやいやいや、そういうことじゃないですから。本当に違うんで」
追い打ちをかける源田。
「じゃあ、どいうことだよ」
「いや、本当に委員会活動ご苦労様ですって感じ」
「「ムカつく」」
源田と洋乃の2人を揶揄ったボンドは笑った。
「いいよ、源田くん。私のでよければ見せてあげる」
「え、いいの! ありがとうございます!」
洋乃からプリントを受け取る源田。しかし、プリントの裏面の問題を解いた形跡がない。
「え......裏は?」
「え?」
源田に渡したプリントを確認する洋乃。
「うわ、本当だ。でも良かったぁ気付けて。ありがと源田くん」
「いや、全然」
「ごめんね、力になれなくて」
「いやいいって。他の人に借りるから問題ない」
それを聞いたボンドが眉間に皺を寄せ、嫌味ったらしく言葉を放つ。
「自分でやれや」
それに負けじと源田はボンドを睨み返す。
「お前も宿題終わってねぇだろうが」
「答えを写すなんて汚ねぇ真似はしねぇんだよ」
「......はぁ。じゃあいいわ。もう2度と答え見せてやらねぇから」
「ごめんなさい」
「許す」
そう言って源田は他の人にプリントを借りに行った。次の授業の準備がすでにできているボンドは、スマホをイジリ始める。そんなボンドに洋乃が訊ねる。
「ずっと気になってたんだけどさぁ。なんでボンドって呼ばれてるの?」
「去年、自分のロッカーをボンドで滅茶苦茶にしちゃったから」
想像を超えた答えを受け、半笑いする洋乃。
「え、どういうこと?」
「去年はロッカーの整理なんて全くしてなくて。何でもかんでもロッカーに詰め込んでたの。そしたらなんか奥の方に木工用のボンドがあったらしくてさ。それが溢れちゃったみたいなんだよね」
「蓋は?」
「してない」
「どういうこと? 意味わかんないって」
洋乃は笑いが止まらない。
「そんで去年度の春休み前にロッカーの中身を全部持ち帰ろうと思って漁ったらさ、取れないんだよね。全く物が取れないの」
「やば、それどうしたの?」
「とりあえず強引に引き剥がした。色々ビリビリになったけど、もう使わなそうだったから問題なかった。そんで、ロッカーの掃除させられた」
「そうだったんだ」
「そうだったんだよ」
「え、私もボンドって呼んでいい?」
「全然いいよ。ボンドって呼ばれるの気に入ってるから」
「気に入ってんだ」
洋乃は笑いながらそう言った。
「かっこいいでしょ。ボンドって」
「いや、分からん」
洋乃はそう言ってまた笑った。
「......いいの? 英語の宿題やらなくて」
「え?」
「裏面、結構時間かかるよ」
「うそ、そうなの!?」
「写す?」
ボンドは源田の方を見ながら、机の中にあるプリントを徐に取り出す。その様子を遠くから源田がまじまじと見つめる。
「いいの!? あっ、え、でもさっき宿題やってないって......」
「おいふざけんな!」
源田が2人の席のところまで戻ってきた。
「いやぁ許せないね、お前みたいな奴は。女子だからって優しくしちゃってさ。何が白紙だよ! ちゃんとやってんじゃねぇか!」
「落ち着けよ」
「落ち着くか!」
「スマホ」
「は?」
「スマホ見てみなって」
源田は自分のポケットからスマホを取り出す。
「お前......」
源田のスマホには宿題の写真が送られていた。
「え、いつ撮った?」
「それ、俺が写したやつ。他クラスの友達から送ってもらったんだよね」
「神かよ。本当ありがと。助かった」
「ジュース!」
「分かった奢る」
「あざっす!」
そして源田は自分の席に戻ると、急いで答えを写し始めた。ボンドからプリントを借りた洋乃も、答えを写し始める。
「ありがと」
「いいって」
しかし、シャーペンを持った洋乃の手が動かない。
「......ごめん、私も写真を送ってもらっていい?」
「ごめん。字汚かった?」
「いや、そうじゃなくて。筆記体が読めなくて......」
ボンドは問題の答えを全て筆記体で書いていた。
「あ、そういうことか。分かった写真送る」
「ありがとう。ボンド君って私の連絡先持ってたっけ?」
「いや、持ってない」
「じゃあこれ」
そう言って洋乃はボンドにQRコードを見せた。
QRコードを読み取り、連絡先を追加するボンド。
「追加できたよ」
「ちょっと待ってて......。私もできた」
「じゃ、送る」
そして、ボンドはプリントの裏面の写真を洋乃のスマホに送信した。
「ありがとう! 本当に助かった!」
「いいよ全然」
この時、ボンドは勝ったと思った。表情には絶対に出さないが、洋乃と連絡先が交換できたのが嬉しくてたまらないのだ。
実は洋乃からドンマイと言われたあの時、ボンドに青春という名の光が差した。そしてその後、私もボンドって呼んでいい?と言われた時、ボンドは恋に落ちていた。そして彼女の笑顔を見た瞬間、ボンドはある作戦を閃いた。洋乃と連絡先を交換する作戦を。
ボンドは英語の宿題の話題を振り、答えを写させるように洋乃を誘導。そして、自分のプリントを彼女に渡しながら源田を誘き寄せた。
源田を誘き寄せたのは、源田を通じて自分のプリント以外にも写せる答えがあることを仄めかしたかったからだ。この直前、たまたま源田に宿題の写真を送っていたのが、いい方向に働いた。筆記体を読めない洋乃が源田に送った写真を求める、もしくは答えの写真を送るためという口実で自分から連絡先の交換を切り出す。これがボンドの作戦だった。
洋乃が英語の筆記体を読めないことは、なんとなく察していた。洋乃が源田に渡したプリントに記された文字が、筆記体ではなかったからだ。筆記体を知っている人ならば、大抵は筆記体を使う。それに、そもそも筆記体が使える人や、筆記体が読める人はそんなに多くはない。そして、案の定洋乃は筆記体が読めなかった。
中学の頃に英語の筆記体に憧れ、筆記体の練習をしていたことが功を奏したのだ。
ボンドは内心驚いていた。こんなに都合よく連絡先が交換できるとは思っていなかったのだ。まさか自分があの一瞬でここまでの作戦を立てられるとも思っていなかった。
ボンドは運が良かったと思った。たしかに連絡先を交換できたのは運が良かった。それは間違いない。しかし、彼の頭が冴えることもまた事実だった。