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30.憲兵総監へ送る

 リオの中に冷たい真っ黒な感情が鋭く心に突き立っていた。

 目の前の男は姉を殺したと言って自慢している。その慢心を折り、滅茶苦茶にしてやりたい。生まれて初めての殺意がリオを強く揺り動かしていた。

 呼吸を震わせながら銃の照準を定め、引き金に指をかけた。これを引けば男は死ぬ。

 目の前で姉を殺した男がせせら笑いながらリオを煽っていた。

「どうした?さっさとやれ!やらねえかこの腰抜けが!」

 これは正当な復讐だ、そう思うのに指に力が入らない。姉の意思はヴァレンタインを通じて皇帝コルネリアスに届けた後なのだから、リオがここで姉の復讐をしても構わない。その筈だ。

 なのに、リオは引き金を引けずにいた。胸の中にあるのは、最後に見た姉の笑顔だった。

「いつまでも何やってんだよ!俺を殺す気がねぇのかあ⁉」

「うるさい!」

「いつまでそうしていられるかな?」

 男は腰からもう一本のナイフを抜いた。小さな刃に、悪意を乗せて指先で弄んでいる。

「俺はいつだっていい。ん?それとも、姉の死にざまをもう少し聞きたいか?」

 男はリオの殺意を掻き立てようとして、道化た口をきいている。憎さが増すと思ったが、急にリオの中に冷たい理性が冷たい涙のように浸透してきた。

 目の前の男が煽ってくる道化ぶりが急に悲しく見えた。こんな道化に姉が殺されたことが切なかった。姉の夫であるブルス・カーマインが殺されたときから、この滑稽な悲劇は始まった。

 リオが姉の生存を信じながら今まで逃げ延びてきたことを、この男は滑稽な劇にしようとしている。恐らく彼も、事が済んだ後にウルスラ政府から消されるだろう。事情を知る者を生かしておくとは思えない。まさしく男は道化だった。

 姉と義兄を殺した男相手に平静ではいられないけれど、その時リオの引き金を握る力は緩んでいた。その隙を見逃すような暗殺者ではなかった。

 リオの隙を見て、男は短く鋭い動きでナイフを放ち、それはリオの持つ銃に命中した。手元の銃を取り落としかけて慌てるリオに、男が掴みかかってくきた。

「くううっ!」

「ほら、ほら、どうした?次はどうする?」

 男はリオをその場に倒し、二人は争い合いながら転がった。事態を握っているのは暗殺者の男だった。愉悦たっぷりにリオを翻弄するつもりでマウントを取り、また手に新たなナイフを持ってにんまりと笑んでナイフを弄んでいた。

「お前の姉のように」

 そう言って、彼はナイフを落とした。リオは、彼に組み伏せられたままじっと見上げていた。男はそのまま全身の力を失って倒れた。

 何が起きたのか分からなかった。とにかく、脱力した重たい体を押しのけて一息ついてから顔を上げると、そこにいたのは、ヴァレンタインだった。

「あ、ああ……ヴァレンタイン」

「つれない呼び方だな」

 そこに銃を持ち立っていたのはリオの恋人だった。よほど急いできたのかいつも見かける部屋着のままで、靴の踵を踏んでいる。

 男と出会った時、リオが咄嗟に緊急通報ボタンでヴァレンタインに報せておいたから、どうにか助かったのだ。

「君は偽物だって?」

 ヴァレンタインの声が笑っている。リオは弁明した。

「演技してたんだよ」

「そうか。それは主演男優賞ものだな」

 倒れた男はぴくりともしない。やがて、ドアから軍人がばらばらと入ってきて男を捕まえて連れて行った。恐らく生きているのだろう。彼らは憲兵ではなかった。

 リオが物問いたげに見ているのに気付いて、ヴァレンタインは言った。

「あいつは俺からザイフェルト憲兵総監にプレゼントする」

 ヴァレンタインはリオの背に手を回した。廃ビルを出ると元帥専用の黒塗りの車が停まっていて、そこにベルトラン少佐がいた。

「後は任せた」

 ヴァレンタインは少佐にそう告げて二人で車に乗り込んだ。リオはほっと息を吐いた。

「この借りはいつか返すよ」

「別に、今夜返してくれてもいい」

 リオは微笑しようとしてできなかった。

「あいつ言ったんだ、姉さんを殺したのは自分だと」

 ヴァレンタインは何も言わず、肩を抱いた。下手な言葉が何の役にも立たないことを彼は知っていた。強い力で肩を抱かれながらリオは言った。

「姉さんは殺された。何が事故死だ、ウルスラ政府の言うことは全部嘘だった」

「ヴェントの名誉市民になりたいか?」

「姉さんの顔が見たいよ」

 叶えられない望みを言い、つまらないことを口走ったと後悔していた。

「今夜はステージが成功した祝いに、ワインを冷やしてあるんだ。お前は白が好きだろう。グラスを三人分出そう。俺とお前と、姉上の分と」

 リオは初めてヴァレンタインを見た。彼はごく真面目な顔でいた。

「本当は銃を持って欲しいんだ」

「無理だよ。難民出身の憲兵は帯銃許可が出ない。市民にならないと」

「くだらない決まり事だ。本当にくだらない!」

 ヴァレンタインはため息とともに決め込んで、リオの肩を撫でていた。人肌の温かさに、今さっきまで人を殺そうと冷たく尖っていた気持ちが宥められ、ましな気持ちになってくる。

 恋人の温かい手をリオは握った。それが生きている実感だった。

「市民権は自分の力でとりたい」

「なぜ?」

「俺が憲兵試験に合格したとき、姉さんは生きてると思っていた。俺はこの憲兵姿を姉さんに見せて笑わせたかったんだ」

 ヴァレンタインは真面目に言った。

「俺も笑った」

「え?」

「お前と会った時だよ。リオ・ブラックそっくりの憲兵が見えて、わけがわからなかった。リオ・ブラックだ、どうして?目が覚めて見てみたら、本物みたいに見えた」

「本物だよ」

「その時は分からなかった。いや、分かるもんか、目の前にリオ・ブラック。ラッキーだと思った、名刺を渡すに決まってる」

「俺が偽物だったらどうしたの」

「問題ない」

「体面とかは?」

「俺は反逆罪以外は罪に問われない」

 治外法権の身の上だと言うことを改めてリオに伝え、ヴァレンタインは考え深そうに呟いた。

「あの男を引き裂く映像をウルスラ政府に見せつけるか?」

「悪趣味だろ」

「やめておく?」

「仕返しはしたいよ。でも、そんなことしなくてもどうせあいつは自滅する。誰のせいでもなく、自分のしたことでそうなるだろ」

「俺達がその時を早めてやる必要はない、か」

 ヴァレンタインはリオの意思を尊重する気でいる。リオは、あの男が法の元に裁かれて報いを受けることを望んでいた。

 ヴェント星の法律に守られていない難民だからこそ、この星の法を守り、そして市民として認められたかった。

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