白雪と朱星
小さい田舎の領地だった。
領主は狭い領地をあちこち行き来して、うまく治めた。
働き者の領主は熊のような容姿とからかわれていたが、壮年になった頃に、領内の幼なじみを妻に迎えた。
若くて美しい妻もまた、夫を愛し、よく働いた。
田舎者であると揶揄されることが多かった領主は、妻に磨かれ、威風堂々とした押し出しのよい領主になり、妻はそれ以上に美しさで近隣の評判となった。
領地の経営が軌道に乗り始めた頃、それを言祝ぐかのように、領主夫妻には娘が生まれる。
領主夫妻にも、領民にも愛された娘は、領地全体を家として、朝は川で漁師とともに魚を捕り、昼には果樹農家の軒先で収穫したリンゴを食べ、夕方には放牧されていた牛を小屋に追い立てる。
一所に落ち着くことなく、どこに行くのかもわからないが、彼女のいるところには愛らしい笑い声が響くので、領主夫妻が娘をわざわざ探すことはなかった。
日に焼けた肌を隠すことなく、鼻の頭にはそばかすをちらし、エプロンドレスはかぎ裂きだらけ。
母譲りの愛らしい顔に手入れしないことを様々な人に惜しまれたが、娘はそれを一笑に付して、草原を走り回ることを選んだ。
それらがすべて、一瞬で失われる薄氷の上の幸せであったとわかるのは、娘が年頃を迎える前であった。
残虐と恐れられる国王が、仰々しい使節団をよこして、領主夫人を王の側妃として差し出すよう命令を下した。
その美しさは、国王まで届いていたのだ。
拒否することはたやすいが、それでは領地全体を戦に巻き込むことになる。
領主夫婦は苦悩の末、妻を差し出すことを決意したが、王妃を連れた使節団が王都に向かう道中を、武器を持った領民が襲った。
領民達は、領主に決断を迫り、領主は国王に反旗を翻した。
小さな領地はあっという間に戦場となった。
果樹園は焼き払われ、川が軍靴によって濁り、牛や山羊は姿を消した。
半年にわたる戦いの中、多くの領民がその命を落とした。
秋を迎える頃、娘は尖塔の一室から、黒い煙を上げる村を見下ろしていた。
その背後では、父が母の胸に短剣を突き刺している。
領主館は、物々しい国王軍に囲まれていた。
父である領主が最期に何と言ったか、娘は覚えていなかった。
渡された短剣を、娘は窓から外に捨てた。
父と母の生み出した血だまりの上で、娘は国王に慈悲を請うた。
摘むには早すぎる果実は、その夜に、無残にもぎ取られた。
「鏡よ、鏡よ、鏡さん、世界で一番美しいのはだぁれ?」
無邪気に微笑む娘。
「それはあなただ、王妃」
映し出されたのは、磨き上げられたひとりの女。
いまや、王妃となった姿である。
王妃は、目を瞠るほどに美しい姿をしていた。
その姿を見た男は、どのような身分であろうと、目を瞠って彼女を凝視する。
明け方近くの空のような漆黒の髪には、星のようにきらめく光が宿り、流れ落ちる清流のように揺らめく。
白い肌は、しかし不健康に血管を浮かすことなく、みずみずしい弾力に満ちている。
よく笑う口元は、可愛らしいえくぼを浮かべ、赤く熟れたような唇の下に真珠のような小さな歯を隠していた。
生き生きと輝く青い瞳は、夏空のように青く高く、人を歓喜に誘った。
「なんて私は美しいのかしら。あなたの言うとおり、私は世界一、美しいわ」
艶めいた声に喜びを滲ませ、王妃は母に似た美貌を、母とは違う毒々しい笑みで彩った。
国中の美しい装飾品が、美容によいとされる食物が、腕のよいデザイナーが、王宮に集められた。
王妃の髪一本損なえば、極刑が待っている。
そう噂されるほどに、王妃は自由に振る舞った。
美しさこそが、おのが地位を保っていることを、彼女は十分知っている。
国民は、残虐な王が新たな王妃として迎えた娘に、怯えおののいた。
しかし、意外にも王妃はしばしの平和を国にもたらした。
王妃の美貌に注ぎ込まれる費用のため、戦費が削られた上、王は王妃に耽溺した。
この平和のさなか、王妃は子どもを出産した。
生まれた子どもは、女の子だった。
王妃が妊娠中、国王は以前のようにあちこちの娘を手に入れ、捨てた。
それでも、王妃をそばに置き続けたのは、やはり彼女の美しさ故であった。
生まれた赤子はすぐに乳母に預けられた。
ろくに両親の顔も知らずに、赤子はすくすく育っていく。
幼いながらも、王妃に似た美しい黒髪と白い肌、愛くるしい顔立ち。
将来は王妃を凌ぐ美貌になるだろうと、物心つく前から話題になるほど。
「鏡よ鏡よ、鏡さん、世界で一番美しいのはだぁれ?」
甘えるように問いかけると、いつもは打てば響くように答える言葉が一瞬の遅れを見せる。
「あなただ、王妃。しかし……王女はもっと美しくなるだろう」
王妃はすぐに動いた。
我が子が母とも慕う乳母を解任し、ようやく字を覚え始めたばかりの王女を使用人部屋に移す。
朝から晩まで、王宮の最下層で働かせ、食事は最低限。
火をたき、料理を覚え、服を繕い、掃除をする。
それはとても王女の生活ではない。
あまりの虐待に、心あるものが王妃をいさめようとしたが、それらはことごとく遠ざけられた。
国王は年端もいかない子どもより、美しい王妃がいればよかった。
王妃はそのことをよく理解し、すべてを利用した。
そのうち、王妃の機嫌を損ねないよう、王宮中のものが王女に辛く当たるようになった。
王妃は満足していた。
「鏡よ鏡よ、鏡さん、世界で一番美しいのはだぁれ?」
「それはあなただ、王妃」
王妃の人生を語るに置いて、いくつかのポイントがある。
それが、王女が十三歳を迎えたときであった。
王女はかつての王妃にそっくりであった。
容姿ばかりでなく、その性格までも。
自分を捨て置く王にも、無関心どころか虐めを続ける王妃にも、王女は反発を感じていた。
王女は密かに味方を増やし、こっそりとその助力を受け、憧れていた美しい装い、王女にふさわしい姿に身を包んだ。
その姿は確かに美しく、容色に衰えを見せだした王妃と並べば一目瞭然であった。
王女は憧れの夜会に潜り込み、幼いながらも、その美しさで広間を圧倒した。
王妃は生まれて初めて恐怖した。
自分の横にいるはずの王の心が離れていくことを知った。
その夜、王妃はいつも通りに問いかけたが、声は震え、しわがれて聞こえた。
「……鏡よ鏡よ、鏡……さん、世界で一番美しいのはだれ?」
「それは王女だ」
王妃は絶望した。
夜が明けきらぬ前に、王妃はベッドを抜け出した。
王宮の片隅にある墓所で、王妃はひとりの男を呼び出す。
片足がないものの、しなやかな肉体を持った壮年の男は、王妃の前にぎこちなくぬかづいた。
「お呼びと伺い、はせ参じました」
「……狩人よ、そなたに大事なことを命じます」
王妃は一粒の涙も見せることはなかった。
「王女を森の深くにつれていきなさい。そこで殺すのです。
証に、王女の黒髪を持って帰りなさい」
狩人が頭を上げたとき、そこに、王妃の姿はもうなかった。
狩人と呼ばれた男は、すぐに実行に移した。
使用人部屋から王女をさらうことなど、造作もない。
義足をつけているとは思えない素早い動きで王女を気絶させ、袋に入れて担ぎ上げると、彼はさっさと王宮を後にした。
深い森の中で目覚めた王女は仰天した。
そして、目の前の感情を見せない狩人を見て、死を覚悟した。
「……お母様は、そこまで私のことを嫌っているのね」
狩人は一瞬動きを止めて、王女を見下ろした。
「彼女は……あなたを嫌うことはありません」
「なんであなたにそんなことがわかるのよ!」
自分を殺そうとしている男にも、王女は怯むことはなかった。
その命の輝きに、狩人は目を瞠る。
森の中ではない、青空の下の強い眼差しが脳裏をよぎった。
狩人の目が、自分を通して他のものを見ているように、王女には見えた。
「申し訳ありません、そうですね、私にはわからない……」
腰に持っていた短剣を狩人が振り上げたので、王女は迷わず足を出した。
王女にもかかわらず虐めてくる使用人が多いので、身を守る術は心得ていた。
つま先が義足を蹴る。
狩人がバランスを崩したところで、王女は走り出した。
一度も振り返ることはしなかった。
辛いことばかりがある王宮に未練はない。
狩人が短剣を鞘から抜くことさえせずに、遠ざかる王女の後ろ姿を眺めていることなど、気づきもしなかった。
森の中をうろうろしているうちに、夜が更けてきた。
王女はさすがに恐怖を覚えて、周囲を見回した。
来た道を戻ることは出来ない。狩人は自分を殺すため、すぐ後ろまで来ているに違いない、と王女は考えていた。
舗装された細い道をとぼとぼと歩いているうちに、どこからか美味しい匂いが漂ってくる。
温かいシチューだ。そうに違いない。
思わず生唾を飲み込んだところで、お腹がぐーっと鳴った。
匂いを辿るように歩き続けると、いつの間にか目の前に石造りの家が建っている。
王女がふらふらとそこに入っていったのは、仕方のないことだった。
古びた家屋は、狭いながらも温かい光に満ち、炉の上には大きな鍋がのっている。
王女は辺りを見回し、テーブルの上の並べられた皿のうちの一つを手に持った。
深く考えることなくシチューをよそい、手近な椅子に座って行儀悪く皿に唇をつける。
熱々のシチューをだましだまし流し込み、途中でスプーンに気付いた。
少し腹が落ち着いた王女は、残り二杯は上品にスプーンを使って食べた。
四杯目に手をつけるかどうか考えたところで、王女の意識は途絶えている。
再び気付くと、粗末なベッドの上に寝かされ、王女の周りには七人の老人が興味深そうに並んでいた。
老人達は、目覚めた王女の話をほとんど聞くことなく、彼らの家に住むことを許した。
「何も言わんでいい。儂らはあなたが来るのを待っていた。
あなたは儂らの孫のようなもの。好きなだけ、ここに住むがいい」
一番年上の老人は、王女の頭を撫でながら目を細めてくれた。
老人達と一緒に暮らし始めた王女は、至って快適に毎日を過ごした。
朝は日の出とともに起き、腰痛を持っている老人達よりも早くに水を汲みに行き、大鍋と釜で朝食を作る。
森の中では枝を拾って集め、老人達が狩ってきた小動物を捌く。
老人のひとりに習った機織りでは、皆に才能があると褒められるほどに綺麗な布を織り、近所の村に売りに行くようにもなった。
王宮での厳しい日々と、それほど違いのない労働量ではあったが、食事は出るし、何よりも意地悪な人間が誰もいない。
楽しい日々はあっという間で、王女は気がつくと美しい年頃の娘になっていた。
明け方近くの空のような漆黒の髪には、煌々と照る月のような光が宿り、流れ落ちる清流のように揺らめく。
少しそばかすが残る白い肌は、しかし不健康に血管を浮かすことなく、みずみずしい弾力に満ちている。
よく笑う口元は、可愛らしいえくぼを浮かべ、赤く熟れたような唇の下に真珠のような小さな歯を隠していた。
生き生きと輝く青い瞳は、夏空のように青く高く、人を歓喜に誘った。
森の中の世捨て人とともに住むと言う美しい少女の名は、あっという間に広まっていった。
その噂を王の口から聞いたとき、王妃は磁器のように美しいと言われる肌を一層青ざめさせた。
「鏡よ鏡よ、鏡さん、世界で一番美しいのはだれ?」
歪んだ笑顔で問いかけると、返答は迷いを含んでいた。
「……勿論、王妃だ。だが……森の娘はどうなのか……」
王妃は決意した。
薄汚れ、古びたドレスに身を包み、分厚い黒のローブで頭部をすっぽりと隠し、王妃は王宮を出た。
「王妃様……」
「王女の元へ案内なさい」
言葉少なに告げると、狩人は深く頷いて、森の中へ歩みを進めた。
「あら、このガラスの箱は何なの?」
貧しいはずの我が家に似つかわしくない大きなガラスの箱。
王女は庭に出現したそれに驚いて、七人に問う。
「なぁに、今度の村の祭りのための余興だよ」
七人の中では真ん中くらいの年齢の老婆が、何でもないようにガラスをカンカン叩きながら答える。
「村長さんが村人を驚かしたいとかでね、ここに置いてやってるのさ」
「まぁ、そうだったのね! 何に使うのかしら、楽しみ!」
無邪気に喜ぶ王女に、残された六人は苦笑するばかり。
それよりも、と、中の一人が王女に可愛らしいエプロンドレスを差し出した。
「おまえさんもさっさと用意しなさいな。
去年は足をくじいて祭りには行けなかったろう?
今年こそは、全部の屋台を食べ歩くのだ、と楽しみにしていたじゃないか」
「ちょっと、人を食欲ばかりの子どもみたいに言わないで!
粉ひきのところのお嬢さんだって、去年の祭りで結婚相手を見つけたって言ってたのよ。
私も頑張っていい男捕まえて、皆にもっといい暮らしさせてあげるんだから!」
「おや、じゃぁ、屋台での食べ歩きはしないのかい?」
「え? それとこれとは別っていうか……少しは、食べるわよ。その……食べ過ぎない程度に……踊れるくらいは……」
七人は一斉に爆笑した。
彼らの愛すべき王女は、暗い過去を思わせないほどに、明るく健康に育っていた。
「あぁ、もう少し一緒にいられたらねぇ……」
思わずといった風にこぼしてしまった言葉に、他の六人から厳しい視線が向けられる。
しかし王女はその視線に気付かなかった。
「ちょっと、長生きしてもらわなきゃ困るわよ。
私の子どもも、孫も、たくさん抱っこしてもらうんだから。
皆は、私のおじいちゃんとおばあちゃんなのよ。
これからいっぱい楽をさせてあげるんだからね」
七人は言葉に詰まり、涙を飲み込んで無理矢理微笑んで見せた。
「あぁ、本当に。そんな未来が待っていたら、なんて素敵なことだろうね」
「そうよ、だからもう少し頑張って生きてちょうだい」
村の中央でたき火が空高くを焦がすほどに炎を上げる。
その周りを気の早い男女が躍っていた。
王女はあちこちの屋台を回り、去年までは見なかった店を見つけた。
そこでは、ローブを深くかぶった老婆と思しき女性が、一人で店番をしていた。
屋台には、串に刺さった焼きリンゴがずらりと並んでいる。
たっぷりの蜂蜜がかかったリンゴを、小さな子どもが母親に買ってくれと強請っていた。
あるべき親子の姿を見ると、王女の胸は少し痛んだが、すべては過去のことだった。
「おばあさん、私にもリンゴを一つくださいな」
声をかけると、老婆は暗いローブの奥から、王女をじっと見ているようだった。
「聞こえてる? ねぇ? 私もリンゴを食べたいのよ。売ってもらえない?」
「あぁ、本当にそっくりだわ……」
「おばあさん? おぉい!」
よほど耳が遠いのか、老婆は見当違いのことを呟きながら王女を見つめ続ける。
濃厚な蜂蜜と焼き上がったリンゴの匂いに腹が鳴りそうになるのを感じながら、王女は老婆に声をかけ続けた。
「…………そうそう、リンゴだったわね。出来たてがあるから、こちらをどうぞ」
老婆は、焼きたてのリンゴに小瓶に入った蜂蜜をかけ、王女に差し出してくれた。
王女は気付かなかった。
老婆の手が、この村にいる誰よりも白く美しいことにも、かけられた蜂蜜が他のリンゴにかかっている蜂蜜と少し違う色をしていたことにも。
「ありがとう、おばあさん」
食べ歩こうと思ったが、教育に厳しい七人に叱られるので、王女はにっこりと笑って礼を言うと、七人の元に戻ろうとした。
「綺麗な娘さん、あなたは今、幸せ?」
不意に思わぬことを聞かれ、王女は足を止めた。見ず知らずの老婆は、この辺りでは見かけない人物だ。よそから来た人だろう。
警戒心がムクムクと沸き立つ。だが、回答はあっさりと口からこぼれ落ちた。
「え? 当たり前じゃない」
「そう」
老婆は満足そうに答えて、バイバイと手を振ってくれた。
奇妙な言動はするが、悪い人ではないのだろう。
王女は手を振り返して、その場を後にした。
七人の元に戻った王女は、丸太の上に座って、リンゴを口に頬張った。
濃厚な甘さとリンゴの酸っぱさが口いっぱいに広がる。
これはかなり良質の蜂蜜を使っているに違いない。
満足しながらシャリシャリと食べているうちに、急に眠くなってきた。
何だか、小さい子どもみたい。
王女は自分を笑いながら、すっと意識を失った。
その後のことを王女は知らない。
倒れた王女を七人が取り囲み声を上げて泣き始め、村人が異変に気付いて、祭りを放り出して駆けつけてくれた。
老人達は、王女が毒に倒れたこと、心臓がもう止まってしまっていることを告げ、人々はショックを受けた。
祭りは中止となり、焼きリンゴを売っていた老婆を探したが、その姿はどこにもなかった。
残されたのは、王女の遺体のみ。
用意されたガラスの棺は、彼女の華奢な身体にぴったりだった。
村人が悲しみとともに集めた花を敷き詰め、その上に横たわる王女は、彼女が王女であることを知らない人々にまで、美しい王女にしか見えないと思わせた。
静かにしめやかに、葬列が夜の森を歩き続ける。
夜が明ける頃、ガラスの棺は国境の丘の上に安置された。
墓地ではなく、こんなところまで運ばせた七人に、村人は訝しんだが、「あの子に最後の朝日を見せてあげたいんだ」と言われ、納得した。
死んだ少女はその美しさもさることながら、今登らんとしている朝日のような生命力に満ちあふれていたからだ。
「もしかしたら、朝日と一緒に甦るかもしれん」
苦いジョークを言い合いながら、村人は村に戻っていった。
国境の防衛は、その王国にとっての最重要であった。
美しい王妃を迎えて以来落ち着いているとは言え、隣国の王は残虐で短慮、何度も無謀な戦いを挑んできた人物だ。
王家の直系であるはずの王子であっても、国の防衛のためには国境守備をしっかり学び、守る必要があった。
だからその日も、王子は日課に過ぎない国境の見回りを行っているだけだった。
丘の上に、見たことのないガラスの箱が置かれ、その周りに、やはり見たことのない七人の老人達が立っていた。
供のものが止めるが、どうしても気になって彼らに歩み寄る。
王子が来るのを見ると、七人の老人達は一斉に膝をついた。
どう見ても残虐王の領地の人間のようなのだが、何故、敵国の王子に敬意を払ってくれるのだろうか。
王子はますます興味が湧いて、馬から下りた。
「そなた達は何をしているのだ? そのガラスの箱は何だ?」
「どうぞ、ご自身の目でお確かめください」
リーダーと思われる老人の重々しい言葉に押されるように、王子はガラスの箱に近づいた。
近づいて、王子は驚きのあまりに目を瞠った。
供のもの達も、老人達への警戒を忘れて口をぽかんと開ける。
色とりどりの花が敷き詰められたそこには、世にも美しい娘がひとり、横たわっていたのだ。
王子が思わず歩み寄り、箱のうちに手をかけると、箱が大きく揺れた。
その拍子に、王女がぱっちりと目を開ける。
王子と王女はしばし見つめ合った。
「わかったわ、これは夢なのね。だからこんな、理想みたいな王子様が目の前にいるのだわ」
寝ぼけている王女は、王女らしからぬへらっとした笑顔を浮かべて、王子に手を伸ばした。
「夢なら、覚める前に決着をつけなきゃね。
ねぇ、王子様、私と結婚してくださらない?」
王子は声も出ないほど驚いていたが、王女の手を取り、それが働き者の手であることを知った。
王子は深く頷いて見せた。
「あぁ、私でよければ、あなたの夫にしてください」
「まぁ、うれしい! 喜んで! あなたはとても立派な服を着ているもの、きっと甲斐性があるわ。
七人も舅と姑がいるのだけど、きっとちゃんと養ってくださるわね!」
王女は喜んで王子にキスをした。
王宮の片隅、忘れ去られた墓所の一角で、王妃は天窓から降り注ぐ月の光を浴びていた。
「村人は、美しい娘が死んだことを嘆き悲しみ、その噂は急速に広がっています。
王宮に聞こえてくるのもすぐでしょう」
「あの子はどうしましたか?」
「隣国の王子に見初められ、隣国へ渡りました。
…………もう、王女は安全です」
「いいえ、あの男が生きている限り、あの子に平安はないでしょう。
隣国の王子が世にも希なほどに美しい妻を迎えたと聞けば、あの男はすべてを顧みずに、隣国に戦争を仕掛けるでしょう」
王妃は手のひらから血が滲んでいることにも気付かず、ぎゅっと握りしめていた。
狩人はその手を恭しく抱き、優しく指を開かせた。
血にまみれたそこに接吻する。
「おやめなさい、汚れます」
「あなたに汚いところなど、何もない」
唇を赤く染めた狩人は、月の光をベールのようにかぶる王妃を仰ぎ見た。
「あなたは気高いままです。どうかこれ以上、ご自身を苛むのはおやめください」
「そのようなことを言ってくれるのは、あなたと、あの七人だけです」
泣きそうな顔で、王妃が微笑む。
「でも……そうね……ようやく、私も歩みを進めることが出来そうです」
差し出された手のひらに、狩人はもう一度唇を寄せ、それから自身の腰に下げてあった短剣を渡した。
高所から投げられたことのある短剣は、かつてはまっていた宝石すべてを失っていたが、まだ凜として真っ直ぐだった。
「……鏡よ鏡よ、鏡さん、世界で一番美しいのはだれ?」
「何だ、まだその遊びを続けるのか。そろそろそなたは、自身が盛りを過ぎたことを知るべきだな」
王は、白い裸体を晒した王妃を、好色な目で眺めつつ、そう言った。
自身も老いた身でありながら、王妃をさげすんだ眼差しで見下ろし、鼻で笑う。
それでも王妃の笑顔はいっぺんも損なわれなかった。
それもそうだろう。
そもそも、王妃の笑顔には一切の感情がなかったのだから。
「愛しい娘よ、最期のわがままだ、せめて、そなたがよしとするまで、生きてくれ」
父の最期の言葉。
何度も忘れようとしたが、泣きながら、謝罪しながらも、生きて欲しいと願う父の言葉を忘れることは、とうとう出来なかった。
そして、自らが娘を生んだとき、父の気持ちを痛いほどに理解してしまった。
「あら、ではあなたはもう、用済みね」
王妃は、艶やかに微笑んだ。
毒々しくも美しく、妖艶に。
王は思わずその笑顔に飲み込まれる。うっかり、王妃の言葉を聞き逃した。
いや、王はいつだって、王妃の意思など聞いたことも、気にしたこともなかったのだが。
「壊れた鏡は、捨ててしまいましょう」
王妃の腕が王の背中に回された瞬間、焼け付く痛みが王を貫いた。
王の目が驚愕に見開かれる。
自分の下でいつも無力であった女が、自分を害するなど、考えたこともなかったのだ。
「ねぇ、鏡さん、こんなに長い間一緒にいて、初めて打ち明けるのだけど。
私、あなたを殺したいほど憎んでいたの、内緒よ?」
鏡のように丸く王妃を映し出していた瞳は、そのまま光を失った。
嫉妬に狂った王妃が王を害した。
残虐王は、恐怖で統治し、まともな思考を持つものを王宮に残していなかったため、王国はあっという間に瓦解し、緩やかに隣国に吸収されていった。
王の隣で美しさを誇っていた王妃の遺体は見つからないままだったが、あの儚げな王妃がこれほどの激動を無事に生き残れるとも思われていなかった。
王妃が幼い頃、野山を駆けまわる野生児だったことを知っているものなど、八人ほどしかいなかったのだから。
森の中の小屋からは、七人の世捨て人が姿を消し、代わりに中年の狩人夫婦が住み始めたという。
いつだってくるくると動き回っている働き者の妻は、片足のない狩人を甲斐甲斐しく世話し、病で夫を失ったあとは、村の子ども達に学問を教えながら、緩やかで穏やかな余生を過ごしたという。
若い頃は美人だったと本人は嘯くが、しわしわの老婆のいつもの冗談に、子ども達は笑って、相手にしなかったという。