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「一度、来たかったのよね」
「ええ? そんな特別な店じゃないだろ」
食券で注文するラーメン店。日中はサラリーマンで混み、夜は飲んだ後の男性客が大半を占める。
特に美味い店じゃないが、コッテリした濃い目の味はシメの一杯には丁度いい。
「あら、これでも兼業主婦なんだから。なかなか外食する機会はないのよ?」
2人分の食券をカウンターに置き、プラスチックのグラスに水を注いで持って来る。慣れない彼女は、物珍しげに店内をあちこち眺めている。そんな様子が、新鮮に感じた。
「そうか。そうだよな」
考えてみれば、2人切りで外食なんて……最後はいつだったろう?
「ねぇ。来週の火曜日のことなんだけど」
水を含んだ後、彼女が思い出したように口を開いた。ドキリとしつつ、横顔を盗み見る。
「うん。ごめん」
「もういいのよ。姉に頼んだから」
「そうか……」
怒っていないのは、僕に期待していないことの表れか。そう思うと、ちょっと寂しい気もする。
「出張の時、お土産、買ってきてくれる? 姉にお礼しなくちゃ」
「ああ。そうだな。うん……気を遣わせてごめんな」
「いいのよ」
奥サンの声は、穏やかだった。
「はい、正油お待ち!」
沈黙を蹴散らす威勢のいい声と共に、カウンターの上に2つ、湯気の立ち上る丼が並ぶ。『安い』と併せて『早い』のも、サラリーマン御用達の必須条件だ。
「どうぞ」
「ありがとう」
彼女の前に丼を下ろす。自分の分も下ろして、揃って箸を割る。
「コショウは?」
「ええ、ありがとう」
銀の缶に手を伸ばし、彼女に渡す。
「いただきます」
「いただきます」
並んで、同じラーメンを啜る。背脂の浮いた、茶色のスープ。やっぱりコッテリ、味が濃い。たっぷりのネギ、半熟の煮玉子、コリコリのシナチク、厚くて柔らかいチャーシュー。次々と、無言で腹に収めていく。黙々と、一杯のラーメンに夢中になっている。
彼女と同じ目的を過ごす、こんな時間――僕は忘れていた。
ー*ー*ー*ー
「美味しかったわぁ」
「うん。美味かった」
満足気な奥サンの笑顔に、僕も釣られて頬が弛む。
店を出て、駐車場をゆっくり歩く。それでも奥サンの赤いミニバンには、あと数歩で着いてしまう距離だ。
「なぁ、久実子」
「――え」
僕が改めて名前を呼んだので、奥サン――久実子は、酷く驚いた顔を向けた。
「これからも、たまには2人だけで出掛けないか? その……食事とか」
思い切って、口に出す。妙な緊張感。初めてデートに誘った、青二才の頃を思い出す。
「あなた」
「駄目、かな」
「あなた、酔ってるわね」
探るような眼差しは、気恥ずかしさを隠すためのもの――多分。
「まぁ、うん。でも、酔っ払いの戯れ言じゃないぞ」
「ふふ。そうねぇ」
分かったつもりになっていた僕は、怠慢だった。
20年共に暮らしてきた彼女について、知らなかったことが、まだまだ沢山あるのに。例えば、今、僕を見上げている、微笑みに似た戸惑い顔も。
「ほら、乗って。帰りましょ」
久実子は、僕の腕に軽く触れて、車の鍵を解除した。
ー*ー*ー*ー
「ところで、あの弁当なんだけどな……」
家に着く前に、僕はどうしても真意を聞いておきたかった。
「弁当?」
「イチゴ味のゼリーのさ……」
「ゼリー? 何それ」
久実子は、きょとんと訊き返す。シラを切っているようには見えない。
僕は観念して説明した。
「やだ、それ、来実だわ。ボーイフレンドに作る前に、パパで試すって言ってたもの」
運転席の大笑いを横目に、思わず項垂れた。
「僕は実験台かよ」
だから、あの夜、娘はリビングに居たのだ。僕の反応を――観察するために。
「ボーイフレンドなんて聞いてないぞ」
「あらあら」
むくれる僕を宥める彼女は、またしても僕の知らなかった――娘の味方をする母親の、とても幸せそうな顔になった。
【了】
拙作をご高覧いただき、ありがとうございます。
さて。
「食べる」というテーマでしが、何かを食べる行為そのものを書くのか、食べる行為までの紆余曲折を書くのか……?
迷った末、いつも当たり前のように「食べて」きた弁当の中身の異変(笑)に始まる、夫婦関係のちょっとした変化の話になりました。
口論とまではいかずとも、嫌なモヤモヤを引きずった翌日、皮肉めいたピンクのゼリー弁当。
このちっちゃな波乱は、職場の若手、間千田クンのKY気味のアドバイスを生み、主人公の気持ちにも小波を掻き立てます。
「パートナー」という便利な呼称の元、互いの存在がマンネリ化したベテラン夫婦。
不満があっても、大喧嘩して改善を図る時間や労力をかけるくらいなら、自分で何とか解決してしまった方が、ラクと割り切れてしまう。
『妻でも女性。幾つになっても、女性として扱って欲しい』
口には出さないし、もしかすると自分自身、そんな感覚さえ忘れてしまっていた。
一緒にチープなラーメンを「食べる」――それだけのことですが、主人公は夫婦で体験を共有することの意味に気付きます。そして、間千田クンの言葉に、少し背中を押されたりします。
熟年離婚が流行語になって久しいですが、仕事や子育てが終わってからの時間が長くなっている現代。もう一度、互いの存在を含めて、関係を見直すことが大切だと言われています。
事の発端となったゼリー弁当の真相は、ご愛嬌。
あとがきまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
また、別のお話でご縁がありましたら、よろしくお願いします。
砂たこ 拝