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ゼリー弁当の後、奥サンとはロクに顔を合わすことのないまま、週末になった。土曜日も当然のように、彼女は学校に行った。
「課長、帰りに一杯行きませんか」
昼休み、コンビニ弁当をつついていると、会荏田クンが誘ってきた。
「うーん、そうだなぁ」
普段なら、すんなり賛成するのだが、奥サンが忙しい時に飲んで帰るというのは、ちょっと後ろめたい。しかし、部署内の飲みニケーションも必要な訳で。
「課長。まだ奥サン怒ってるんですか」
「え?」
「こら、将っ!」
「だって、あれからずっと弁当が」
「馬鹿、今聞くなよ!」
どうやら部下達は、僕の夫婦関係を危惧してくれていたらしい。
苦笑いしながら、返事を少し待ってもらって、奥サンにメールした。
『今夜も遅いのか?』
『そうね。雑務が溜まってるから』
デスクワーク中なのか、程なく返信が届いた。読み終わる前に、更にもう1通、追いかけてきた。
『お付き合いなら、遠慮しないで、どうぞ』
鋭い。いや、当然か。彼女とは20年近く生活を共にしてきたのだ。互いの繁忙期や勤務状況、交遊関係も、分かり切っている。
「会荏田クン」
片手でOKの丸を作ると、彼はホッとしたように笑顔を見せた。
部下に気を遣わせちゃ、駄目だなぁ。やれやれと嘆息して、メールアプリを閉じた。
その夜――。
大衆居酒屋の片隅で、焼き鳥を片手にビールで疲れを癒す。
「……という訳で、ケンカじゃないんだよ」
「学校の先生って、大変なんですねぇ」
乾杯の後、サッサと誤解を解くと、朱里チャンが眉を下げた。
「将来、君達の子どもが学校に通うようになったら、担任の先生を労ってやってくれよ」
「やだなぁ、俺ら、まだ独自ですよ」
会荏田クンがカラカラと笑う。
「でも……俺なら、心配です」
ポツリ、間千田クンが暗い顔で俯いた。
「心配?」
「健康とか……浮気とか」
「うわ……?!」
思わず噎せた。会荏田クンが慌てる。
「将っ、お前!」
「あ、いや、いいよ、会荏田クン」
健康の心配は賛同するが、浮気――思わぬジャブに面食らった。
「すみません、でも、面倒見てる後輩が異性だったら、俺なら心配で」
「馬鹿、お前、もう黙れ!」
「だって、奥さんだって女性でしょう?」
空気を読まない間千田クンは、引かなかった。彼の正面の朱里チャンまで、軽くひきつっている。
「課長、すみません! コイツ、この前、彼女に浮気されたばっかで」
「そうか。いや、気にしなくていいよ」
なぁんだ、という同情めいた眼差しと同時に、張り詰めた空気が弛む。間千田クンだけが、眉根を歪めている。
「僕の奥サンは、もうオバサンだし、浮気は……ないなぁ」
そんな彼の肩をポンポンと軽く叩いて、軽やかに笑って見せる。酒席での笑い話にして、後に引きずらないようにせねば。
「奥様のこと、信頼されてるんですねぇ。素敵ぃ」
朱里チャンがウットリ微笑む。背中が、ちょっとムズ痒い。
「信頼? うーん、長く家族やってると、仲間みたいなもんだからなぁ」
小さな不満はあっても、こんなものだと分かっているから、相手に殊更期待しない。若い頃は、理想を重ね、期待を押し付け、思い描いた姿とズレると、裏切られたと勝手に落胆したものだ。
凡そ、20年。数多の落胆と理想の修正を繰り返して、漸く相手の等身大を受容出来るようになった。それは奥サンも同じだろう。
「あたしも、そんな関係になれるダンナ様が欲しいなぁ」
「そんな羨んでもらえるモノでもないよ」
照れ笑いで、この話題をお開きにした。然り気無くテレビドラマの話題を振ると、他愛なく盛り上がった。
「間千田クン、心配してくれて、ありがとうな」
居酒屋を出て、皆で最寄り駅まで移動する途中、僕はこっそりフォローした。
「あ……いえ、さっきは失礼しました」
酔いが回ると大人しくなる性質なのか、彼は赤い顔で素直に頭を下げた。
「いいんだよ。忠告、肝に命じておくよ」
確かに、奥サンの健康に対して、僕は無頓着だったかもしれない。彼の指摘は、反省のきっかけになった。
ところが、彼は足を止めると、僕をジッと見詰めた。
「間千田クン?」
「俺の彼女、大学から付き合って、もう7年目でした。アイツのこと、分かってるつもりで、すっかり安心して……俺、全然分かってなかったんです」
彼は、苦し気に吐露した。心から悔いている――それが伝わったから、僕も真摯に受け止めた。
「そうか」
「別れ際に『長く一緒にいても、ちゃんと女性として見て欲しかった』って言われて、俺、ショックでした。だから」
「うん。ありがとうな、間千田クン」
僕は、もう一度、彼の肩をポンポンと叩いた。失恋を慰めるためでも、その場を治めるためでもない。
20代の彼らの恋人関係と、40代の僕達の夫婦関係は違うかもしれない。でも、僕も彼同様、奥サンのことを『分かった』つもりになっていた。
本当は――何も分かってなんかいないんじゃないのか。
あの赤いハートのゼリー弁当に込められた真意すら、未だに測りかねているのだから。
「さ。帰ろう」
彼の気持ちを受け止めたことが伝わったのだろう。安堵した瞳が頷いた。
部下達と別れて電車に乗ると、僕はスマホを取り出した。
『お疲れ様。今、どこだ? まだ学校?』
『これから帰るところ。あなたは?』
あれからずっとデスクワークだったのか、返信が早い。時間を確認してドキリとした。もうすぐ22時じゃないか。
『帰りの電車の中だ。君、晩メシは?』
『まだよ』
『何か買って行こうか?』
テンポよく交されたキャッチボールが、やや遅れる。
『あなた、酔ってる?』
『うん、少し』
罪悪感を指に乗せて、タップする。
『じゃ、駅の西口にいて頂戴』
『いいよ、1人で帰れる』
思いがけない文面に驚いて、反射的に打ったメールを――削除した。思惑は分からないが、彼女の厚意に素直に従おう。
『分かった。ありがとう』
打ち直したメールを送り、しばらく待って返信が途絶えたことを確認してから、スマホを仕舞った。