ー1ー
「……何だ、これ」
PCで資料を見ながら、事務机の自席で食べる昼メシ。
使い古したアルミ製の弁当箱の蓋を左手に、思わず固まった。ランチョンマット代わりに敷いているハンカチも、少し褪せた藍色に白のストライプ柄――長年愛用している僕のものに、間違いない。
「わぁ、課長のお弁当、可愛いー!」
気を利かせてお茶をいれてくれた、経理の朱里チャンが黄色い声を上げる。
「あっ、いや……これは」
覗き込まれて、動揺が走る。慌てて隠しても、かえって怪しいから、観念して蓋を横に置いた。
「うわ、愛妻弁当、ラブラブですね?」
「課長、今日、記念日なんですか?」
「でも、これ……何なんですか?」
社食に向かいかけていた社員達が俺のデスクに集まって、口々に質問を投げてくる。
「……何なんだろ。別に記念日じゃないし。第一、今朝は奥サンの方が先に出たから、顔見てないし」
半透明の桃色の……多分、寒天。その中に、赤いハート形の何かが埋まっている。
弁当箱に入っているから「昼メシ」なんだろうが、明らかに米粒の姿はなく。
首を傾げつつ、興味津々な周りの視線に押されるように、隅っこに箸をつける。
――ぷにっ
うわ。ちょっと嫌な感触に眉をしかめる。
――つるん
「あ」
「課長、よろしければお使いください」
思った通り、つまみ上げた物体が、箸の隙間をすり抜けて、全体に飲み込まれる。その一瞬を待ち構えていたように、部内最年長の富士嵜女史が、コンビニで付けてくれるクリーム色のプラスチックスプーンを差し出してきた。
「あっ、ありがとう」
ビニール袋から取り出し――いざ、改めて桃色の波へ。ひと匙掬い、口に運ぶ。
「……課長?」
するりと喉に流れた物体が残す後味に、目が泳ぐ。
「甘いぃ」
40を越えたオッサンが、昼から口にする食い物じゃない。嫌な予感はしていた。そして、それを裏切らず、甘酸っぱい、いや甘ったるいプルプルは、イチゴシロップ味のゼリーだ。しかも、常温だから生ぬるい。
「課長、甘党でしたっけ?」
「いや」
「ゼリー、お好きでした?」
「特に」
「あの、もしかして、奥さんと何かありました?」
「おい、将!」
最後の突っ込みは、入社5年目、部内最年少の間千田将クン。歯に衣着せぬ物言いが、今時の若者らしい。
隣で、彼の教育係の会荏田クンが、冷や汗を浮かべて諌める。
「いや、いいんだ」
悪気がないことは分かってるから、不躾な指摘を苦笑いで流す。
「課長、俺達と飯食いに行きませんか?」
まだ何か聞きた気な若者の背中を押し退けながら、会荏田クンが誘ってくれる。
「ありがとう。でも、大丈夫だから。気にしないで行ってよ」
精一杯、強がりの笑顔を作って、社員達を見送った。
それから、視線を斜め前にゆっくりと落とす。自己主張の強い愛情が、押し売りのように待ち構えている。
空腹だったはずなのに、胃の辺りに消えた先程の一欠片に食欲を奪い去られてしまった。なんたる破壊力。
「課長、後程、お召し上がりになるおつもりでしたら、冷蔵庫でお預かりしますが」
「……頼むよ。ありがとう」
眼鏡の奥の一重を細め、富士嵜女史は微笑んだ。逃げ道を用意してくれる辺り、流石の年の功に加え、彼女の人柄が伺える。まんまと乗っかった僕は、蓋を閉じた弁当箱を手早く包み直すと、彼女に委ねた。
「ちょっと外回りに行ってくる」
「はい。ご苦労様です」
得意先を2、3軒回って、立ち食いソバでもやっつけるか。時間も小遣いも余裕がない、しがない中間管理職には、そのくらいしか選択肢はなかった。
ー*ー*ー*ー
それにしても、だ。
機械打ちの白っぽいソバを、ゾゾゾッと快活に啜る。
『財布に優しい』が謳い文句の、首都圏を中心にチェーン展開しているソバ屋で、遅い昼メシの月見を味わう。サービス品の揚げ玉とネギをたっぷり入れて、七味も軽く振る。半分までは、満月を崩さぬように慎重に箸を進め、残りの半分は大胆に黄身を絡めて掻き込む。丼の底が覗くまで平らげると、不意討ちを食らった胃袋が、ようやく落ち着きを取り戻した。
少し冷めた番茶でシメて、一息吐く。
間千田クンの指摘は、意外にも図星だった――。
昨夜、僕は奥サンと口論になった。ケンカか、というと、ちょっと違う。意見の対立、そんな感じ。
『研究授業が近いから、お願いしてるの』
夕食の洗い物を終え、彼女は黄色と紺のマグカップを手に、ダイニングに戻った。テーブル脇に出しっぱなしの瓶から、コーヒーとミルクを順番に入れ、8分目までお湯を注ぎ、1つのスプーンで2つのカップをかき混ぜる。それから、紺のカップを僕の前に滑らせ――やや憤慨気味に、先程の台詞を口にした。
『そりゃ、君の事情も分かるけどさ、僕も部長のお供は外せないんだよ』
湯気の立つマグカップから一口含む。
奥サンは、小学校教員だ。この春から、担任業務に加えて、新卒採用で赴任したての『先生のヒヨコ』ちゃんの指導を任されている。来週の火曜日、ヒヨコちゃんの研究授業――いわば先輩教員達による指導目的の授業参観――が行われるそうだ。
どんなに準備して頑張っても、愛ある突っ込みを受けることは必至なのだが、やはりブラッシュアップは必要で、責任感の強い奥サンは、連日残業続きだ。
『じゃあ、私の予定を変えろって言うの?』
『物理的に言っても、君の方が近いだろ。僕は、新幹線でとんぼ返りしなくちゃならないんだぞ』
『……私、何でもかんでも頼んでいるつもりはないわ。あなたに無理言うことなんて、そんなに多くはない筈だけど』
『分かった。僕が行けばいいんだろ』
『もう……いいわよ。自分で何とかするから』
非難めいた眼差しのまま、彼女は瞳を伏せた。半分以上中身の入った黄色いマグカップだけ持って、立ち上がった。
『明日、早いから』
溜め息混じりの呟きと、空のマグカップをシンクに残して、彼女の後ろ姿が2階へ消えた。
苦みのないコーヒーが、渋くて不味い。飲みきれずにシンクに流し、マグカップを2つ洗って、洗面所に足を運ぶ。
いつもより念入りな歯磨きで、後悔の後味を消してから、寝室に入った。寝息のない背中に背中を向けて、沈黙に身を任せた。
今朝、目覚めると、既に彼女の姿は家の中から消えていた。
それでも、ダイニングテーブルの上には朝食と、弁当の包みが乗っていた。まるでいつものように。
なんだ、言葉や態度程、怒ってなかったんだな。
単純な僕は、至極簡単に考え、日常に倣って満員電車に駆け込んだ。
しかし、事態は、そうあっさりしたものではなかったみたいだ。
真っ赤なハートを閉じ込めた、甘々なゼリー。
ラブラブな新婚夫婦時代じゃあるまいし、むしろ反動だとすると……怒りは根深そうだ。