アカイツメ
肌寒い木曜日。昨日は、あ、春が本番じゃん、みたいな気温だったけれど、打って変わって日にちが変わった途端急に冬戻ってきた? みたいな冷帯気温になっていた。就労時間が終わりいつもなら、あー、終わったぁ、と猫がお昼寝から目覚めたように伸びをしてすがしがしく帰るのだけれど、おそろしいくらいに寒気がしてほとんど幽霊のような形でタイムカードを押した。
これだから春先はいやなの、だって気温差が激しいでしょ。
うん。
なおちゃんは今夜は珍しく午後7時に帰宅をしてきた。おどろいた。
帰ってくるなり、体調がわるいことや寒気のことや気温についてのことを矢継ぎ早に話した。それはまるで機関銃のように。いやに饒舌に。
「おれも今日はとても鼻水が出たよ」
昨日の夜、作業着のボタンを2個つけてポケットのほつれているところを縫った。それを着ている。なんだかそれはあたしの勲章のような気がしてくすぐったい。
「そうなんだ。風邪ひいたのかな?」
「うーん。どうだろう。寒いとおれすぐにこうなるだろ。寒さに弱いんだなぁ。おれは」
おれは。なおちゃんは今夜だけでも『おれは』を3回も口にしている。おれは。
「おれもだよ」
あたしもなおちゃんのくちぐせを真似てみた。
ぽかんと口をあけてあたしをみつめている。笑いたいけれど笑えないとゆうふうなそんな顔をして。
チラッと時計を見上げて
「あ、今日はとてもはやいね」
「うん。こんな日もないといけないだろ」
そうだね、あたしは、そううなずき
「いつも遅いもんね」と、つけたす。
「うん」
なおちゃんは昨日あたしがつけたボタンを手にやり作業着を脱ぐ。
「あ、お風呂洗ってあるの。入ってきたら」
それはあたしが帰ってきてあまりにも寒かったので自分のためにお風呂に入ろうと思って洗ったのだけれど、溜めようとしたと同時になおちゃんが帰宅したのだ。あたかもなおちゃんのために洗っておきました。みたいないいぐさになっていたけれど、彼はそのような細かなことなどかいもく気にはしない。
「うん」
背中を向けてお風呂場に消えてゆく。テーブルにはコンビニで買ってきただろう、焼きとりと唐揚げ、おにぎり3つとカップラーメンが置いてある。もちろん、缶ビール3本とハイボール2本。
「さぶい、さぶい」
まるでひよこのような出で立ちでもうお風呂から上がったなおちゃんはブルブルと震えている。
「もっと温まってから出てきたらいいのに」
とはいわず
「さぶいね」
と、なおちゃんの言葉に同意し温風ヒーターをともす。長湯は嫌いなのだ。
「焼きとりたべよ」
急いでジャージに着替えたなおちゃんが椅子に座って焼きとりをすすめる。
あたしは、首を横にふる。
「ううん、ほんとうに今日はダメなんだ。さぶけがするもん」
「えー、どれどれ」
いいながらあたしの額に手を添える。ヒヤッと冷たい手。無骨な指。あたしはなおちゃんの手が好きだ。
「どうだろうね」
うっとりした顔をしたあたしだけれど別に熱があってうっとりしたわけではない。手が、うっとりさせたのだ。
「顔が少しだけぼーっとしてる感じはするけれど」
「……、あ、うん、あ、でも、アイスなら食べれるからいい」
冷凍庫からハーゲンダッツを取り出してソファーに横たわって食べ出す。
「アイスでも栄養とれるからね、食べれるならましだ」
プシュ。缶ビールの空ける音がして今度はごくごくと喉が鳴る音が静寂な部屋にこだまする。
あ、いけね。そう、気を使ったのか、なおちゃんはテレビのリモコンを持ってテレビをおこす。今まで眠っていたテレビは、おはよう、とでもいいたげなふうに灯りと音をあたしとなおちゃんに届けた。
テレビは見ているというのではなくてただのBGM。間をとるにちょうどいいBGMだ。
毎日いると始めは会話があるけれどそれはほんの数分でつきてしまう。
「なおちゃん」
名前を呼んでみる。
「うん」
返事だけはいつもいいのだ。この人は。
「あ、今日は赤い爪だね。ふーちゃんは」
えっ? あたしは無意識に声をあげて、自分の爪をみたあと、なおちゃんの方に顔を向ける。
「みていたの? あたしの爪を」
「うん」
「じゃあ、昨日は何色だったかわかるの」
うーん、どうだったかなぁ、とゆうしぐさをしてるなおちゃんの眉間には深いシワが刻まれている。
「わからないでしょ?」
さらにつめよってみる。
「どうなの?」
とも。くどいかなぁ、と、思いつつ。いじわるだなぁと、思いつつ。
「青」
青と小声でいったあと、ピンクだったかなぁ、と、頼りなさげにつけたす。
「ブブー」
「うん」
昨日も赤だった。月曜日からずっと赤。
「青だよ」
「だろ? あたったな。おれ。すげーな」
そうね、なおちゃんは鼻白んでクスクスと笑う。
「赤もかわいいね。おれ、爪きたねーから」
「汚くないわ。好きな手よ」
テレビの中からお相撲の話題が流れている。「あ、高景勝負けたんだね」
赤い爪は嫌いではないしあたしの爪はいつだって裸をみせない。
なおちゃんのテレビだけにみせる無防備な顔とあたしの赤い爪はあまりにも似つかわしくないなぁ、とおもいつつ、温風ヒーターによって温まった部屋で食べるハーゲンダッツは格別においしくなめらかに胃におちてゆく。