【小さな牙:01】
大通りから外れた路地裏。
男はそこで煙草を吹かしていた。
随分と走り回ったのであろう。
男のシャツには汗が滲んでいた。
乱れた呼吸を整えるように深く吸い、そして吐き出す。
紫煙は薄曇りの空に吸い込まれるように消えた。
ここでしばらく身を隠していよう。
小さい町ではないが、すぐに見つかるわけでもないだろう。
身を隠している安堵感に加えて疲労から来る倦怠感も相まって、男はすっかりその場に座り込んでしまった。
煙草はもう根元まで燃え尽きた。
それを捨てて、更にもう一本咥えた。
胸ポケットからマッチを取り出して擦る。
とにかく身を隠す。そして落ち着く。
それが男にとって優先すべき事案であった。
しかし、それも長くは続かないようだった。
大通りの方面がにわかに騒がしい。
男がふっと様子を覗くと、何人かの輩が騒いでる様子が見えた。
「……のんびりしてられそうもないな」
自分を探しに来たのだろう。
火のついた煙草を踏み消そうとして、男はあることに気が付いた。
どうやら輩は自分に対して騒いでいるわけではなさそうだ。
慎重に通りの様子を伺うと、自分の追っ手と思われた輩二人の前に心当たりのない人物の姿が見えた。
「だからぶつかってきたのはそっちからでしょ……」
大柄の相手にも全く怯む様子を見せないのは、旅装の外套とフードを目深に被った子供?のようだった。
「てめぇ!このやろう!俺達が誰だかわかってんのか?あぁっ!?」
「知らないわよ、誰よあんた達」
怒鳴り散らす輩相手にも怖じ気付く様子も見せず毅然とするその子供は、どうやら少女のようだった。
肝が据わってるなと男が感心したが、相手は自分を追ってきた輩だ。
「放っておくわけにもいかねぇか、相手が違ぇよ!オラッ!」
「このクソガぐぅっっ!!!」
路地から一気に駆け出して少女の胸ぐらを掴んだ輩に一閃、膝蹴りを叩き込んだ。
もう一人いるがいちいち相手にしてられない。
「ほれ、行くぞ!」
少女の肩を寄せて促した。
「ま……待ちやがれ!てめぇ!」
「……待てってさ」
「そう言われて待つ奴なんざいねぇよ」
二人は足早に路地裏へと消えた。
「ちくしょう!奴だ!いたぞ!さっさと起きろ!」
「うるせぇな!くそ……いてぇ、ぶっ殺してやる……」
輩二人も後を追って路地へ駆けていった。
「ここにいりゃ平気だろ」
煙草に火をつけて煙を吐き出した。
二人がいるのは適当に駆け込んだ宿屋で、余程のことがなければ姿を隠すには適していた。
部屋のある二階の窓からは通りが見渡せる。
少女はしばらく警戒するように外を見ていたが、気が済んだのか男の方に顔を向けた。
「……一応助けてもらったし、感謝するわ」
「一応ってなんだよ」
「追われてたのはおじさんでしょ」
「なんだわかってたのか」
「面倒事に巻き込まれたのはあたしの落ち度だけどね、ああヤダヤダ……迂闊だったわ」
まるで往来で牛の糞でも踏んだかのように顔をしかめてため息をついた。
絡まれたこと自体はまるで意に介していない様子だ。
「ちょっと考え事をしていただけなのよ、上の空だったわ、けど歩いている相手が見えてなかったわけじゃないのよ」
目の前を見ていなかったのはむしろ輩達だろう。
何せ男を探し回ってたわけだ。
そこで運悪くぶつかってしまったというわけだ。
「ついてないわ!あぁ、まったく……」
「まあ落ち着いて腰でも掛けなよ」
「誰のせいよ」
「その重いもんも一旦下ろしてさ」
その瞬間、暗闇で獲物を見つけた猫のように少女の目が丸く大きく開かれた。
「……おじさん」
「おっと、俺に敵意はない!安心しろ」
煙草を咥えたまま、頭の辺りで両手を相手に見せた。
少女はしばし逡巡の後、フードを外した。
ビオラを思わせる薄い紫色の髪を後頭部で束ねたその少女の顔立ちはやはり幼く見えた。
そして外套の止め金を外すと、そこには到底少女には似つかわしくないものが姿を現した。
それはくすんだ赤いネクタイでもなく、サイズの大きいシャツでもない。
男はそれを知っていた。
鋼を叩いて、叩いて叩いて造り上げたそれはそこらの傭兵が持っているような粗雑な鉄でできたものとはまるで違う。
聖職者が祈りを捧げる十字架のように少女が持つそれは。
「刀だな」
「そうよ」
傍らに刀を置き、ベッドに腰掛けた。
視線は男に向いたままで。
「自己紹介が遅れたな、俺はジャンルカだ、ジャンルカ・フィルド」
「……ニアスよ」
旅する者が短刀を所持しているのはごく当たり前のこと。
何故ならば、それは身を守るためのものだから。
しかし、ニアスの持つ刀は身を守るためのものとしてはあまりにも相応しくない。
「まるで牙だな」
煙草を灰皿に押し付けて、更にもう一本取り出して咥えた。
その間も決してニアスは視線を切ることはしない。
「おじさん何者なの?」
「おじさんはよしてくれよ」
「おじさん、何者?」
「世の中には知らない方がいいこともたくさんあるんだぜ」
「巻き込まれてるんだけど、もう」
「ちゃんと無事に町から出すよ心配するな、それよりお嬢ちゃんこそリンゴの皮を剥くにはそれ、でかすぎだろ」
「リンゴは皮ごと齧るから問題ないわ」
いっ!と歯を剥いて見せた。
「まあ世の中にはいろんなことがあるからな、お嬢ちゃんみたいなのだってそりゃいてもおかしくないだろうな」
ふん、と鼻を鳴らしてようやくニアスはジャンルカから視線を切った。
「お嬢ちゃん俺の娘と同い年くらいだな、13くらいだろ?」
「失礼ね、16よ」
今度はジャンルカの目が大きく開かれた。
実際ニアスの背丈も、顔立ちも年相応には全く見えなかったからだ。
「ああ悪い、気を悪くしないでくれ」
「まあいいわ、自覚あることだし、けどもう少し胸があればレディっぽく見えるのにね、あたし」
それだけが問題と言うわけでもないが、ジャンルカはあえて口にしなかった。
「おじさんは家族と暮らしてないのね」
「ああ、って言っても娘と暮らすつもりだけどな」
「いいことじゃない」
「女房ももういないし俺が支えてやらないとな」
「……ふぅん」
「そのためにも俺は……、おっと」
すっかり灰になってしまった煙草を灰皿に捨てた。
「あたしそろそろ行くわ」
そのタイミングでニアスは外套を羽織りなおして、フードを被った。
刀は再び外套の下に姿を隠した。
「わかった、町の外まで連れて行こう」
「大丈夫よ、一人で」
薄く微笑んで、ニアスは宿から出て行った。
一人取り残されたジャンルカは煙草を咥えながら天井を仰ぎ見た。
「あの年で何を背負ったんだろうな、一体」
咥えた煙草には火は点いていなかった。
町とは言っても宿場町だ。
人の往来は比較的多い。
ニアスは注意を払いながら通りを歩いていた。
もっとも外套とフードがあればそうそう顔がわかるものでもない。
それでもうっかり面倒を招いたこともあったわけで、多少神経質になっていた。
ニアスも旅の途中で立ち寄っただけだ。
町から出てしまえば問題ない話だ。
ましてこれまでの道中でも大小のトラブルは付き物だった。
ジャンルカに関してはニアスには関係のないことだ。
少し経った頃にはもう夕食のことを考えている始末だった。
肉にするか魚にするか、そんなことを考えていた時だった。
正面から先ほどの輩が歩いてきたのが見えたのだった。
するりとニアスは建物の陰に隠れた。
焦る必要はない。
向こうが通り過ぎたあと出ていけばいいことだ。
「いてて、ちくしょう……」
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃねぇよ、ったく」
「まあどうせすぐ見つかるだろ」
二人はニアスに気付くことなく歩いている。
会話に興味はないが離れてくれないことにはここを出るわけにもいかない。
ニアスはじっと姿を隠していた。
「しかしなんだってあんな奴捜してるんだ?」
「お前知らないで捜してたのか?」
「しゃーないだろ、ザイシードさんの命令じゃ」
その瞬間スッと自分の身体が冷たくなったのをニアスは感じた。
束の間、燃えるように熱くなっていた。
「ねえ」
「あ?」
「っててめえ!さっきのガキじゃ……」
「誰?」
「ああ!?」
「……………誰の…………命令?」