貴方を逃がすものか
何時間経っただろう。辺りは真っ暗で、人、一人歩いていない。外灯が一つしかない為、不気味さがより増している。そんな事にも気付かず、死んだように祈り続けている自分が、小さく思えた。
色々な言葉を頭の中で巡らせていると、それをかき消す不穏な音色の声が聞こえた。
『貴方、大丈夫?』
……見て、分からないのだろうか。今、小野さんに心の言葉を伝えているという事に。
誓いの中で、誘惑の言葉が飛び交う。嫌悪そうに振り向くと、衝撃を受けた。黒い髪、黒い瞳の奥に宿っている灯。蒼く鮮やかに、しかし卑劣に舌なめずりをする獣の牢獄。
今まで感じた事のない不思議な感覚に捕らわれた僕は、日差しを遮った。
「大丈夫ですよ」
微笑みも、優しさも何もない虫の抜け殻のような感覚が狂い走り、全てを巻き込み、黒い渦へと吸い込まれていく……。
『そう、よかった。身動きしないから死んでいるのかと思っちゃった』
苦笑しながら、顎の骨を掻く。
白い指に『Ω』と小さな刺青が目立つ。何かの暗号のように思えたそれは、特別な何かを示しているように感じた。
僕のゴツゴツした手に比べて、しなやかな、しかし豪快な印象を受ける『手』だった。
『貴方、小野さんの遺族?』
透き通った声が耳を突き、何かを探るように入り込む。威圧感に近いものが身体に圧がかかってきて、僕を縛り付ける。
あの弱い生き物と関わっている時に感じた視線。
(この女だったのか……)
緩んでいた心の隙間を閉ざし、感情を悟られないように無になりきる。
「いいえ、違います。以前、小野さんにお世話になった者で。テレビを見て……」
潤んだ涙を浮かべ、何も出来ない自分の姿をアピールする。
『そう……』
「貴女は?」
『……私も貴方と同じようなものよ』
――嘘だ。
この女、嘘をついている。
脳裏に描かれたシナリオが崩れ出す瞬間、この女の内部がちらついた。何千枚の書類に囲まれながら、何かを必死で観察している姿。僕の前にいる女とは、別人の匂いを出し、狂犬のようなギラギラ光る瞳で睨み続けている。そんな姿が僕の中に入ってきて、こいつの本性を暴く。
「そうですか……」
目を合わさず、立ち去ろうとしたその時、腕がゴキッと唸りをあげた。
「何ですか?」
冷たい目で問いかけると、さっきとは違う表情で、女の匂いを漂わせてきた。
『ここで会ったのも何かの縁だし、小野さんを送りだす儀式を一緒にしない?この後、予定ある?』
有無を言わさぬ、慣れた口調に圧倒され、口ごもっていると、どういう訳か『承諾』されたと勘違いされ、逃げれないように腕を掴みなおした。