曖昧な関係
不意に力を緩めると、咳き込みながらペタリと地面に座り込んだ。力が抜けたような表情をしている。左手は血で染まってあり、右手は雄介の襟元を引き千切っていた。微かに血が滲んでいる。僕はいつの間にか雄介の首を絞めていた。爪を食い込ませてしまったのか、首からもちが流れていた。力の抜けない両手を眺め、唇から流れ出ていた血を舐めとった。
『もう遅い…奴らにやられた』
そう呟いた瞬間、頭を抑え嗚咽を漏らした。
「おい…」
雄介の近くに行こうとすると怒鳴った。
『来るな』
ハァハァと息を切らし、危なげな足取りで立ち上がった。
痛み……。
彼が言っていた『痛み』
僕は痛みを超え、耐えられなかったからあそこにたどり着いた。もしかして雄介にも、僕と同じような『痛み』を持っているのではないのか?頭痛とは違う、人間の手によって故意に作られた『痛み』を…。形、姿、影響は違うかもしれない。だけど、人の心を壊すくらい強烈な副作用として痛みが生じるのではないだろうか。脳に細工をし、架空の人物を映し出し、その人の脳を混乱させる。その隙をついて、言葉で誘導する。どんどん相手を追い詰め、不安の頂点へと導く。そこから奴らの思うがまま。利用しようが、殺そうが、実験台にしようが思いのまま。
あの時の声に助けてもらわなかったら、僕と言う存在は消え、全く別人へと変わっていただろう。まるで抜け殻のような、感情を表わせない操り人形へと…。顔を歪め、目を閉じ、抵抗するように力を入れる。そんな雄介を見て、咄嗟に雄介の腕を引っ張り痛みを加えた。
『つぅ…何す……』
「いいからここに痛みを加えろ」
雄介の手を僕が痛みを加えている部分へと誘導し、瞳で訴えた。僕の曖昧な記憶が正確に変わるまでの時間稼ぎとしては大丈夫だろう。目を閉じ、眉を潜め、記憶の扉を開く。以前先輩に教えてもらった暗示の解き方を、見真似だがしてみる事にした。雄介の方を確認すると、瞳孔が開ききっていて遠い所をボーッと眺めている。痛みを加えていた手はダランと垂れ下がり、気力をなくしている。
雄介の近くに行き、視界の前に手を翳す。
「雄介…目を閉じ、神経を集中させ、大きく深呼吸しろ!ゆっくり五回」
僕の言った通りに従った雄介が、何故だか少し小さく見えた。瞼が重たくなっていき、痛みを感じなくなっていく。雄介は、安心したように寝息を立てた。純粋で愛らしい……。そこには『幼い頃』の雄介があった。
僕は雄介のズボンのポケットに手を突っ込み、携帯を取り出した。唯一入っている『番号』は一件のみ。夏子とだけ記されてある。もしかしたら、奴らの仲間なのかもしれないと言う疑問はせず、この人なら大丈夫だと言う確信さえした。
夏子……。
聞き覚えのある名前。懐かしいような気がしたからだ。雄介に成りすまし、メールを打った。
『怪我をしてしまって動けない。迎えに来てくれ』
メールなら不振に思われる事などないし、電話と違って特徴が掴めない。顔文字を使う、使わない、文字の打ち方の差はあるが、それさえ分かってしまえば簡単だ。まして雄介や、過去の履歴を確認すれば、顔文字を使った形跡もないし、文字の打ち方に変化などない。昔の雄介のままだ……。
五分経った頃、返信がきた。
『今どこにいるの?』
すぐさま返事を打つ。
『いつものところだ』
少し不安になった。いつものとこと言うだけで分かるのだろうか。そんな不安を掻き消すように、着メロが甲高く鳴り響く。
『すぐ行くわ』
シンプルにそれだけ液晶に記されていた。
「雄介、もう少しで来るから待ってろ」
そう呟き、手を握りしめた。
怖い位静けさが僕達を包み込み、飲み込もうと企む。だけど赤い光が僕達を守り、奴らは近づけない。ざまあみろ。目を据わらせ、身を構える。そうすると深い不安が徐々に薄れていき、霧となり消えてゆく。バタバタと足音が地面を伝い、体に振動が注がれていく。
『雄介!』
叫び声が耳を通過し、雄介へと伝わる。意識のない雄介の瞼がピクリと動き、ゆっくり開かれていく。女は、そんな雄介に応えるかのように、僕を突き飛ばし、頬に触れる。
『雄介っ?大丈夫……なの?』
「つぅ……ああ」
右手と首の痛みが雄介の呼吸を遮り、苦痛の声を吐く。ジャリとボクの足が動いた瞬間、女は振り向き、狂ったように睨む。
『あんたがやったの?許さない』
僕の襟を掴んだ。
「やめろ!」
そう言い、僕の襟から夏子の手を払った。
『雄介…』
雄介の行動に驚きを隠せなかった。雄介の瞳を見つめ、夏子は落胆した。いつものあの優しい瞳の持ち主の雄介は『そこ』に存在せず、夏子に対して『軽蔑』を抱き、体を動かす事も許さない重圧が圧し掛かり、息苦しさが走る。
『分かったか?』
我に返り、激しく頷く夏子の姿があった。
『慶介…お前が夏子を呼んだのか?』
「うん…」
『そうか…』
「ちゃんとした場所で休ませたほうがいいと思って…僕の家には親がいるし…携帯覗いてみたら、夏子さんの連絡先しかなかったから」
『だ、そうだ。わかったか?夏子』
『……うん』
『…行くぞ』
そう言うと、素早く夏子が雄介の体を支えるよいうな体制で歩き出した。寂しそうな背中。徐々に、しかし確実に離れていく距離。僕は唇を噛み締めながら、ただ立ち尽くす事しか出来なかった。