麻酔②
僕はマウスに手を置き、優しく動かす。その反対で張り詰めた空気が、心臓を縛り付け、離そうとしない。息苦しさの中で、妙に落ち着いている自分。今まで感じた事のない感情が僕を支配してゆく。
マウスを矢印に合わせ、あの時と同じように、文面を確認する。
《暗闇の中で彷徨い続ける》
あの時と全く同じ文面が、姿を現す。
(そういや、あの時もこの文面見たぞ)
脈が荒々しく、波立ちながらも、手を止める気配は全くない。カチカチと鋭い音が鳴り響く。
(ん?)
呼吸が加速していく。
(あの時の文面と全く違う)
≪黒い天使が舞い降りる時、記憶の扉が開かれる≫
≪痛みよりも素晴らしい賞賛を受け、心は自由を掴み取る≫
虚ろな瞳で、ボーッと画面を見ていると、身体の力が抜け、遠い世界へ飛び立つように、意識が薄れ薄れになってゆく。
『慶介?』
僕の異変に気付いた先輩が、雑誌から僕へと視線を移らす。
『どうした?』
僕の肩を揺らす。
何も見えてない、見てない僕を見て、咄嗟に有りっ丈の力で僕を殴りつけた。先輩のバカ力で吹っ飛んだ僕は、壁に凭れ掛かるような体制で倒れこんだ。
先輩の手がぼやけて見えた。
もう一度頬に痛みが走った。正気が戻らない僕を見かねて、殴りつけたのだ。
曖昧な意識の中で、痛みが走る。先輩の声と共に僕を引き戻そうと一生懸命な様子が浮かぶ。
『大丈夫か?』
「……」
『慶介!』
怒鳴り声が響く。
「は…い」
魂の抜け殻のような声を出し、ボンヤリと一点を凝視している。
先輩はパソコンの画面を覗いた。覗いたらいけないと叫びたいが、声が出ない。何かに縛られたように体が言う事をきかない。
先輩は真剣な表情で文面を読んでいる様子だった。先輩も僕同様、変な感覚に支配されてしまうと恐れていた。
画面から目を逸らし、目頭を掴む。
僕は、目を瞑り、先輩に何の影響もないようにと祈る。
『なるほど…』
顎を触りながら、何かを考えているような感じがした。先輩は、僕の視界に手を翳し『息を吸って』とだけ言った。
息を吸っては吐きの繰り返し。五回程すると、呼吸が落ち着き、冷静な普段の僕へと戻ってゆく。体に巻き付かれたような感覚も消え、自由の身となった。
『大丈夫か?』
翳していた手を退けた。
『お前今までに、あの画像見た事あるか?』
「いえ…」
疑問に思った僕は、首を傾げ尋ねた。
「何でそんな事聞くんですか?」
『いやな。お前さっき一種の催眠にかかっていたみたいだったから、ちと気になってな。俺が殴らなかったらお前、やばい事になってたぞ』
真剣な表情で語る先輩を見て、額から冷や汗が溢れてくる。
『お前、あの画像見て、何か頭の中に浮かばなかったか?たとえば文字とか、映像とか…』
幼い少年の泣き顔、ガラスの割れる音、せみの鳴き声、誰かの叫ぶ声が頭の中でグルグル渦巻いていたような気がする。
みるみる内に、血の気が引いて、顔の色が化け物のように青白く変色していく。
『あったんだな?』
コクリと頷いた。
「見た事ない映像や音がグルグル回ってて、それは中に吸収されていくような感じがしてて…」
『その後は?』
「急に眠たくなって…」
先輩の鋭い目が画面に注がれる。
『そうか…』
考え込む先輩の様子を見て、少し怖気づいていた。
『もうあのサイトには近づくな!絶対にだ!』
「……分かりました」
『お前あの画像何回か、見た事ないか?』
「えっ?」
目を見開き、先輩の言葉に耳を傾けた。
「以前に一度は見ましたが…」
『そうか』
口を開こうとする僕を避けるように顔を逸らした。
『取り合えずあの画像は見んじゃねぇぞ!』
亡霊のように顔が強張り、僕を締め付ける。どこかでこんな感じに陥った事があるような気がする。
僕の記憶の奥底に隠れているものが情報を元に、何かが動き始める。
冷たい夜風が、顔を撫で、頬を撫で、逃がさまいとしつこく絡みつく。
(あんなに怒らなくてもいいじゃないか)
凭れ掛かっている枕を退かし、羽毛の詰まっている隙間から指を入れる。ここに隠しとければばれやしない。爪にカチカチと擦れる音がすると、人差し指と中指を器用に使い、外の世界へと案内する。
赤い容器が月夜に翳され、怪しく微笑む。満月は人を狂わす力を持っている。その通りだと思いながら、口に加え、僕の中に取り込む。それは僕を拒絶しようとも、受け入れようともせず、風に身を任かせるようにスッと通り抜けていく。何故大人達は、この快楽を独り占めするのだろうか。子供の健康を思って言ってる。そう大人達は、口を揃えて断然する。
本当にそうなのだろうか。届かない思考を合わせながらその答えにたどり着いた。
その快楽を、開放感を独り占めしようとしてるとしか思えない。
加えている隙間から風を吸い込み、その味を楽しむ。
(ここ禁煙じゃん)
ハッと常識的な考えが頭を過ぎ、少しの罪悪感が縛り付ける。しかし時間が経つに連れて、どうでもいい、と投げやりになり、体の中に投げつける。
(見回りか)
紙コップの中にユラユラと揺らめきながら、僕の耳元に息を吹きかける。ここにそれをひたしなさい、そう呟いた。
言われた通りに、水にそれを浸す。苦味と嫌悪が混ざった味が水の中に広がり、汚す。ジュッと音を発した瞬間、それは奥深くに沈み、無に戻った。