麻酔①
ユラユラと揺らめきながら、人間が立ちはだかっている。ここからはいかせないと、言わんばかりに僕の邪魔をする。僕が足を動かそうとすると、嗚咽にも似た叫び声が鼓動を突き破る。奴らは僕の一瞬の隙な突き、某で殴り掛かる。足が重たくて、身動き出来ない。
後ろを振り返ろうとした瞬間鈍い音が響いた。
何度も、何度も、殴る。
頭からタラリと赤い液体が僕の顔を包み込み、激しく流れ落ちる。
キミの涙のように…。
頭がボーッとする。起きているのだが、意識はどこか遠くに飛んでいっている。まるで抜け殻みたいだ。
僕は眠り続けているきみかの横顔を見ながら、ずっと座り込んでいた。何も考える事など出来ない。いや、考えられない。頭がパニックを起こし、これが夢なのか、現実なのか理解出来ない。
『慶介くん!』
誰かの声がする。きみかは起きる気配もないし、一体誰の声なのだろうか。居心地良い、ハキハキとした言い方。
『ちょっとどうしたの?』
同じ目線になるように、腰を下げ、僕の顔を覗き込んだ。声を出そうと思っても、喉に針を刺されたように、チクチクする。
『慶介君!』
バシッと、頬に痛みが走った。僕は、夢から覚めたようにキョトンとしていた。
「しおり…?」
声を振り絞り、掠れた声で呟いた。
『よかったぁ』
胸を撫で下ろし、安心した様子のしおりを見た。
「何で…ここに?」
『それはいいから』
しおりの顔を見ると、何故か安心する。幼少の頃に戻ったみたいに温かい気持ちになっていく。忘れかけていた何かが、彼女の手によって僕の中へと流れ込んでくるみたいだった。
僕は無意識の内に、しおりを強く抱きしめていた。
一筋の涙が、溢れた。
糸を辿りながら歩いていると、暗闇の中へと辿りついた。泥沼のように、黒く、冷たいソコは、今まで感じた事のないような空間のように感じた。僕達はここで泣き叫びながら産まれ、愛しい者との別れを惜しみながら、永遠の眠りにつく。
ここで何百人、いyた何千人の人がこの世に生まれ、この世を去っていったのだろうと思うと、きりがないのは分かっている。分かってはいるのだが、細い細胞を通り、その疑問にたどりついてしまう。
生ぬるい風が窓ガラスを破壊し、僕の心へと流れていく。耳元で囁きながら、中身を塗りつぶそうとする。
雪は溶け、無に戻り、僕の前から姿を消す。
少し悲しく、少し切ない。
生ぬるい風のせいか、余計、胸が苦しい。
『慶介君!』
ドアを開ける音がした瞬間、嬉しそうな声が病室を張り巡らせる。
『目覚めてよかった…』
手で顔を覆い、鼻を啜りながら僕に抱きついてきた。
「しおり?」
名前を呼んでも、答えられない彼女を見て、不思議と、彼女の頭を撫でていた。窓ガラスを通し、しおりの髪に舞い降りる。誰をも屈服させる勢いで、輝き続ける。
しおりの鼻を啜る音が弱まってきた所で、我に返った。
「落ち着いたか?」
優しく、甘い、今まで出した事のない声で囁く。
僕に顔を見られないように隠しながら、頷いた。しおりは、目を擦り、涙を拭い取った。
「きみかは?」
きみかの様子が気になった。あの時、僕と会話を交わしていたきみかは、まるで別人のようだった。それに、僕を蹴り上げた時の、あの力。女というより、男に蹴られているように感じた。
『大丈夫。安定してる』
「そうか…」
思いつめている僕を心配そうに覗き込んでいる。
小さな溜息を吐き、躊躇いながら問いかけてきた。
『慶介君。一体何があったの?』
しおりは巻き込みたくない。そう思った僕は嘘をついた。
「何もないよ」
『だったら…何で?』
怪訝そうに見つめてくるしおりを見て、勝手に口が開いた。
「探し物しててさ、一人で探していたんだけど、どうしても見つかんなくて…。一人で探してても時間かかるばっかりだから、きみか呼んで一緒に探してたんだ。そしたらきみかが足を滑らせちゃってさ、僕、助けようとしたんだけど、一緒に落ちちゃって」
頭を欠きながら、照れ臭そうに話した。
しおりが返す間を与えてはいけない気がした。
僕は、白い壁に掛かっている時計に目をやり、時間を確認した。
「もうこんな時間じゃん。僕らの事は気にしなくていいから…」
『でも…』
「いいから!」
少し強い口調で言うと、不安そうな表情で見つめ、物言いたそうな顔をしながら、部屋を出て行った。
再び深い霧のような沈黙が始まる。
全身に力を入れてみた。少し腹が痛むが、これだったらいける。僕はベッドの手すりに全体重を支え、床に足を付けた。それからは思ったより困難ではなかった。腹と左足を庇うような体制をとり、歩き出した。
まだ麻酔が効いているせいか、少し痺れが体に走る。頭もフラフラしてまるで池の上を歩いているような感覚だった。
行き交う人々の笑い声が耳に障る。脳裏を過る汚い記憶が僕を惑わす。
あの映像。
あの声。
引っかかる。
コンコンと三回ノックをし、返事を待たず、ドアを開けた。驚いたように、一瞬目を見開き、元の視線に戻した。
『何か用か?』
男は気だるそうな声を吐き、面倒くさそうな顔で睨みつけた。
「お久しぶりです。早川先輩」
お辞儀をした。
そんな僕に目もくれず、先輩はスポーツ雑誌を身ながら、コーヒーを口に運んだ。
『お前も入院しているのか?』
「はい。少しトラブルに合いまして」
先輩は冷蔵庫を指差し『コーヒー飲めよ。勝手に取っていいから』と言った。
『トラブル?』
でかいクワガタを採った時のように、目を輝かせている先輩を見て、笑顔が毀れそうになった。
「ま、トラブルと言っても、大した事ないですけどね」
笑いながら、茶化した。
「それで先輩に聞きたい事が」
『何だ?』
「人の人格を無視し、操る事って出来るんですかね?」
先輩の眉が動く。
『そりゃやろうと思えば出来るが…』
怪訝そうな顔つきで、僕を睨む。
『何でそんな事聞く?』
「いえ、ちょっと」
言葉を濁し、先輩から視線を逸らした。
沈黙が流れ、喉まで出かかっている言葉を飲み込んでしまう。
先輩は何も聞かず、大きなため息をついた。
『お前が言っているのマインドコントロールの事だろ?』
「マインドコントロール?」
『そう。自分らしさや、意識、人格を失い、思いのまま操られてしまう。それがマインドコントロール。主に組織、いわゆる破壊的カルトで使われているみたいだ。簡単に言えば催眠術みたいなもんだな』
「一般人には、危害及ぼさないんですよね?」
『ああ。普通はないな。何か目的がある場合は別だけどな』
「目的…」
『慶介、そこのバック取ってくれないか?』
床の下に手を入れ、指差した。僕は腰を下げ、取り出した。
「重っ!一体何が入っているんですか?」
ニヤリと怪しく微笑みながら、ジッパーを開けた。そこには銀色に輝く、ノートパソコンが顔を出した。
「先輩いいんですか?ここ病院ですよ?」
慌てる僕を楽しそうに見ている。
『何、焦ってんだよ!』
クックックッと笑う姿が憎たらしい。
何事もないように、電源を入れ、起動するまで待ち続ける。
『ちょっと待てよ』
右足の膝を立て、喰らいつく。
手荒くキーを打つ。それに抵抗するようにガシャンと怒りの音を上げる。そんな事に気を留める事もなく、何度も何度もマウスをクリックする。何かを探しているみたいだ。
『あったあった』
画面から逃げるように、視線を逸らし、目頭を摘む。
『それ、見てみろ』
食い入るように画面を覗くと、そこにはマインドコントロールの知識が詰まったサイトが僕の瞳に映った。
『口で説明するの面倒くせぇからな。そこに色々書いてるから』
そう言った瞬間、近くに置いてあった雑誌を広げ、真剣な表情で読んでいた。
(この人には適わないなぁ)
そう思いながら、画面に視線を戻すと、見覚えのある画像が目についた。黒い画面。白く書かれている文字。怪しさと、変な居心地悪さがする。マウスから手を離し、目を瞑る。黒い闇の中に、白い霧が曖昧に脳の思考を邪魔する。思い出せ、思い出せ。何かに憑りつかれたように、心の中で何度も呟く。そんな僕を見て、笑いながら黒い天使が舞い降りてくる。その瞬間、時空を超えたように、映像が頭の中を駆け巡り、僕の中へと吸収されていく。
閉じていた瞳を開け、画面を見つめた。夢のような、曖昧な記憶から正確な記憶へと塗り替わる。