廃人
頭に頭痛が走る。それと共に、色々な残像が過る。一緒に虫取りに行き、迷子になった事。母の化粧品の中に小さな虫を入れた事。かけっこで転んだ僕をおぶってくれた事。そして、自身が起こった中で僕達がしてしまった事…。
体に氷を落とし込まれたように、血の気が引いていくのが分かる。僕は両腕で守るようにして抱え込み、眉を顰め、キミの声を辿りながら記憶の扉が開かれていく。
廊下に奴らの怒鳴り声が響く。
「六〇五号室か」
『はい!』
部下らしい男が鋭く返事をする。
「しかしあれだな。これで何人目だ?」
溜息を吐く。
「俺達のしている事、正しいと思うか?」
眉を顰め、部下の顔を凝視している。
『仕方ない事です』
そう言うと、腕に目をやり、時間を確認した。
『時間です。急ぎましょう』
急かすように言った。
「ああ…」
部下が足をピタリと止め、一言だけ言い放った。
『言動には気をつけてください』
険悪な表情で訴えかけていた。
再び足を速めた。
また始まる。
大きな音、叫び声、何かがボロボロになっていく。
『夏子さん、お願いします』
雄介は、深刻そうな表情で夏子に頭を下げた。
「雄介くん。頭を上げて」
雄介の両腕を支え、悲しそうな顔で呟いた。
『すいません。色々迷惑かけて…』
「いいのよ。でも、あなたは大丈夫なの?」
心配そうな夏子を見て、心配かけないようにと、配慮する。
『大丈夫です。俺の事は気にしないでください。心配いりません!』
「でも…」
『俺の事より、慶介の事頼みます』
もう一度深く頭を下げ、夏子に念を押した。
『それとこの事慶介には…』
言葉を飲み込む雄介を見て、頷いた。
「分かっているわ。で、どうする気なの?」
首を傾げながら問いかけた。
雄介は、ズボンのポケットから何かを取り出し、夏子に見せた。
「それは?」
キラキラ輝く、銀色のそれを不思議そうに眺める。
『奴ら組織の使用しているマイクロチップです。昨夜の間奴らの目を盗んで、手に入れた物です』
「そんな事したら……」
大きく息を吸い込み、言い切る。
『分かっています』
獣が住み着いているような雄介の目を見て、顔色が曇っていくのが分かる。
『あなたも知っているはずです。この使い道を…』
雄介の言葉に、動揺を隠せなかった。
「…」
『これをつけると、個性も、その人の人格も壊してしまう。それはあなたも知っている事でしょう?』
「…」
何も言わない夏子を、呆れた表情で見た。
『夏子さん!』
雄介の怒鳴り声が部屋中に響く。緊迫な空気が張り詰め、金縛りにあっているような錯覚が全身を過る。そんな空間を切り裂くように、息を吸い込む。
「私だって…こんな事したくないわ」
『だったら…』
雄介の言葉を封じ込む勢いで口を挟む。
「仕方ないとしか言えない」
目を瞑り、拳に力が入る。
夏子は、机からタバコを取り、口に加えた。カチカチとライターのスカる音が耳に障る。
雄介の表情を見て、何かを悟った。
「雄介くん、あなたまさか…」
目を見開き、訴えかけるように凝視している。
『慶介は何も知らない。奴らと関わりもない。俺は、慶介がこんな牢屋みたいなトコで一生生活すると思うとゾッとする。あいつには、いつまでも純粋でいてほしいんです』
雄介の瞳に薄ら涙が浮かんでいる。夏子は、たばこを灰皿に押し当て、溜らない気持ちで雄介を抱きしめた。
生暖かい空気が、雄介の身体をなぞる。抵抗する事も出来るのに、全く抵抗しなかった。奴らは、手際よく雄介の身体を押さえつけ、麻酔をかける。鼻にツンとするキツイ匂いが脳裏を刺激し、身体が重たくなっていく。
《慶介》
瞼が閉じ、視界が暗闇に包まれてゆく。
『雄介君!雄介君!』
夏子は、キチガイみたいな声を出し、眠り続ける雄介の手を握りながら、涙を流す。
「ん…」
眉が動いた。
夏子は、目を真ん丸くし、真っ赤になっていた目を擦った。
ゆっくりと瞼が開いていく。
『雄介君、大丈夫?』
虚ろな瞳で、遠くを見つめ、呟く。
「はい。大丈夫です」
無表情な雄介を見て、言葉を失った。そこにいたのは雄介とは全くの別人のようだった。