綺麗な音
懐かしいメロディが僕の耳に残る。それは暖かくて、優しくて、とても居心地が良い。冷たい雪が降ろうとも、風が吹こうとも決して彼女は離そうとしない。
「綺麗な曲だな…」
独り言をポツリと言った僕に答えるように、囁いた。
『サン・サーンスのロマンスと言う曲よ』
ニコリと僕の瞳を見つめてきた。そして再び目線を楽譜に戻し、マウスピースに近づけた。彼女は確認すると、楽譜から視線を外し、目を瞑った。サラサラと風に靡きながら、曲が進んでいく。ホルンの籠ったような音が何故か愛しく感じ、胸が締め付けられた。僕も彼女動揺に目を瞑り、心を音楽に任せてみた。
自分の身体が宙に浮いているような感覚に陥り、少し嬉しくなった。彼女もこんな風に感じながら演奏しているのだろうかと、想像してみると、心に明かりが灯った。
演奏が終わり、マウスピースから口を離した瞬間の横顔がキラキラ輝いているような気がした。
「上手だね。いつからしてるの?」
『三年くらいかなぁ…。中二の時から吹いているよ。前の学校でも吹いてて、これだけはどうしてもやめられなくて…』
苦笑いしながら、楽器を置き、乱れた髪を整えた。
『楽器の奏でるメロディ凄く綺麗でさ。悲しみも、苦しみも、温もりも表現出来るんだよ?それって凄い』
うれしそうな横顔が輝いて見えた。
「神崎さんって楽器大好きなんだね」
ニコリと微笑みながら言うと、嬉しそうな顔をし、頷いた。
(なんて綺麗な笑顔なんだろう)
そう思いながら、見とれている自分に驚いた。目を真ん丸く見開き、一か所を見つめている僕を起こすように声をかけてきた。
『しおりでいいよ』
「え?」
『なんか変!慶介君が「神崎さん」って呼ぶの」
「そう?」
彼女は笑いながら、冷たい手を僕の頬へと伸ばした。
冷たい体温が僕の暖かさの中に混ざりこんでゆく。僕は、顔を俯かせ、しおりの体温を感じていた。
『そうだよ』
彼女はそう言い切ると、楽器を持ち出した。
『もう行くね』
そう言い残し、愛らしい瞳で僕に笑いかけた。
人に対して興味を持った事なんてなかった。幼い頃から、本当の自分を誰にも見せる事はなかった。仮面を被り、心を凍らせて人と交わろうともしなかった。
正確には、したくなかった。
本当の僕を知ったら、見て見ぬ振りをし、僕との距離を切り離そうとするだろう。
一種の拒絶。
『お前なんか生まれてこなきゃよかったのに…』
『お前の存在自体が疎ましい』
あの時みたいに、あの時と同じように…。
信じたかった心も、希望も全て灰にされた時僕は自分から進んで、暗闇のトンネルに入っていったんだ。
そして、闇に導かれながら、長い年月をかけて『今の自分』を作り上げてきた。笑う事もなく、他人の前で完璧に作り上げてきた自分が、たった一人の女の笑顔で崩れそうになった。
もう二度と笑う事など無いと思っていたのに、スルリと、剥がされそうになった。
風が勇ましく吹き荒れる。
『ガシャン』と勢いよく、何かを叩き捨てるように、ドアを閉めた。
『ムカつく!ムカつく!』
何度も何度も、呪いの言葉のように呟きだした。きみかは親指を口に含み、尖った牙で噛み砕く。何度も何度も……。血がタラタラと口を伝い、指を伝い床に毀れていく。
大きな目をギョロリと据わらせ、眉を吊り上げ、怒りに身を任せる。
そんなきみかを鎮めようと、風がきみかを包み込む。優しい音色を漂わせ、きみかを一生懸命鎮めようとする。
『カサカサ』
『ザワザワ』
木々が揺れ乱れ、何かを相談している。
きみかを恐れているように、心配するように全てが狂い始める。
《それでいい》
低い男の声が響いた瞬間、きみかはパタリと動くのを止め、倒れこんだ。