白梅雨物語
雨がひたひたと降り注ぎ、霜がかかって辺りがぼんやりと見えずらい白梅雨時。少女はひとり、傘を片手にそれを見つめていた――。
主人公の妖狐、アメは「雨の日にしか人前に姿を現すことができない」と言う制約を課せられた状態で、人の器を奪う、要するに人の命を奪わなければならないという使命を背負っていた。そんな時、まだ幼くて純粋な穂村紅葉と出会い――。
この物語はそんな一匹と一人によって織りなされる、初々しくも悲しい物語である。
※二ヒトシリーズ、これが雨白狐の由来だ!と言うつもりで手がけた作品です!ぜひ楽しんでみてください!!
★ ―『出会い』―
雨がひたひたと降り注ぎ、霜がかかって辺りがぼんやりと見えずらい白梅雨時。少女はひとり、傘を片手にそれを見つめていた――。
私は生まれながらにして他の人以上のハンデを背負っていた。否、我、人ならざる者としてこの言葉を選択したことは誤りであろうか――。そんな古臭い口調も、私が『妖狐』として生まれてしまったからか、その風貌に見合った口調を演じてみたかったのかもしれない。――まぁそんなこと、正直どうでもよいことか。私が妖狐である事実は変わらないのだから――。
この世界には、魂を注ぐための器を持つ生命体と、その器を持たぬ霊体とが存在する。妖狐もまた霊体の一種で、器となる肉体を持っていない。器を持たぬ霊体は実にもろく、そこに存在していることすらやっとなほど不安定で寿命も短い。そんな、生命体よりも明らかに不利な霊体には、その立場をひっくり返すような使命が、生まれたときに与えられる。それは『生命体から器を奪う』という使命。要するに、生きている者を殺すということだ。だが、他者から器を奪う、命を奪うという行為は現状、許されるものではない。なので、霊体にはそれぞれ別々のハンデが課せられるのだ。
妖狐として生まれた私のハンデは、『雨の日にしか人前に姿を現してはならない』というものだった。その条件は、私にとって人間を欺く機会を大きく減らしてしまうもので、そもそも狐の姿であるため、言葉を話すことすらできない。正直、寿命が尽きるのを待つ他なかった。また、条件を犯すと、寿命を大きく削られるらしく、10年生きれたはずの寿命が、たった3日しか生きれなかったという話も耳にしたくらいだ。なので、私には条件を犯すという賭けにも等しい行動をとることができなかった。そのためか、私は半分諦めたような感じに、神社の石垣にひとり座っていた。
雨の降る神社、コケの生えた石垣は、どこかひんやりとしたものを感じ、社の屋根から滴り落ちる雨のしずくが、私の白い額にあたり一瞬ビクッとして身震いする。しかし、その石垣の上は私にとって居心地が良く、慣れ親しんだお気に入りの場所なので、私がそこを離れることはなく、いつも通りひとり座りながら雨の音を聴いたり、神社を囲むようにして生えた木々を眺めながら時を過ごした。
当然、雨の日に参拝しに来る人間などおらず、それどころか神主すら姿を姿を現すことはない。そんな神社の姿は、人に姿を見せられない私とよく似ており、どこか寂しさを感じさせる。だけど、そんな神社が私は好きだった。終わりを迎えるのならこの場所がいい、そんなことを願うようにもなっていた。そう、生まれて間もない私でも、終わりのことをすでに考えてしまう。しとしとと降り注ぐ、雨の涙の音とともに。
だが、その雨音の中に、いつもとは違う、ペチャペチャという音が混ざる。持ち前の大きな白い耳をピンと立てて、その音の方へと傾ける。どうやら鳥居を越えた先の石造の階段の方からのようだ。その音はだんだんと近づいてきて、いつの間にか雨音よりも大きくなっていた。そして、そちらをジーっと眺め続けていると、鳥居の向こうに黄色い何かが見え始め、ようやくその音の正体が姿を現す。
「ほぇー? 雨びちょびちょだよぉ~……」
それは、私にとって予想の着かないモノだった。黄色い長靴、黄色い斜め掛けポーチ、紺色のスモッグにチューリップのワッペンを付け、少し紫がかった髪を二つに縛った見るからに幼げな少女が、黄色い傘を差しながらこちらを見ている。少女の様子からして、雨宿りをしに来たのだろうか。こんな辺鄙な場所に人間が来るなんて思ってもいなかった私は、少女と目が合った瞬間、ビックリして固まってしまった。だが、
「あっ! 真っ白なキツネさん!」
と、大きな声を発したため、私は金縛りが解けたかのようにとっさに社の下に身を隠した。それを目で追っていた少女は、
「あっ! 待って!」
と、小さな体を一生懸命走らせて私の方へと近寄って来る。だが、私の隠れ術もなかなかのもので、少女は私を見つけることができない。少女が社の下をのぞき込むも、私の姿を確認できなかったためか、
「あれ? ここに入ったはずなのになぁ……」
と、少しショックそうな顔を見せ、のぞき込んだ顔を引っ込めた。私は、『ようやく帰ってくれたか』と、少し安堵し、ゆっくりともといた石垣の上に戻ろうとした。――だが、私のお気に入りの石垣には、さっきの少女の後ろ姿が腰かけていた。
「キツネさんもいなくなっちゃったし……、お兄ちゃんともはぐれちゃったし……、雨もまんだ強いし……」
少女の後ろ姿は震えていた。雨による寒さの震えか、気持ちによる震えか。その時の私は、人間の感情などひとかけらすらもわかっていなかった。人間というものを一切わかっていなかったため、少女が何を思っていたのか見当もつかなかった。だが、その震えが少女の涙だということは、少女が鼻をすする音や咳ばむ音で分かった。
グゥ~
と、その時そこそこ大きな音が鳴り響く。それと同時に少女がお腹をさすりながら『お腹すいたな……』と言ったのが聞こえた。どうやら少女の腹の音だったようだ。
「あっ! そうだっ! 今日の給食のパン残してあったんだ!」
と言うと、少女は黄色いポーチから少々質素な食パンを取り出した。と、そのままそれを頬張る。涙を流しながら。
こんな時にこんなことを言うのもあれだが、私には少女の食べているパンがおいしそうに見えた。正直、私も腹がすいた。いや、ずっとすいている。この頃ほとんど何も口にしていない。まぁ何かを口にすると言っても、誰かの食べ残しやごみ同然の残飯をあさるくらいだ。だが、さきほども言ったようにこの神社は寂れて参拝客などくる気配すらない。だから、この辺りに人間が食べ物を落とすことなどないと言う訳だ。雨の日に街に降りて食べ物を探すのも一つの手だが、もし万が一急に雨がやんだりでもしたら人間が多すぎて私はきっと身を隠しながら逃げ切ることができない。これは私が臆病なせいでもあるが、大切な寿命を無駄に使ってしまうのも恐ろしい。最悪何も食べなくても死ぬことはないが、空腹感という苦痛が私を襲うことになり、結果的に心が死んでしまう気がする――。
そんなこんなで、パンを頬張る少女を陰からモノ欲しげな表情で羨ましそうに眺めていたのだが、さっきまで音がはっきり聞こえるくらいに振っていた雨が、いつの間にか音が聞こえないくらい弱くなっていた。
「あ、雨弱くなってきた……」
そのことに少女が気付いた頃合いで、
「おーい、……はぁ……はぁ……、モミジー!?」
今までになかった新しくて大きな優しい声が聞こえた。息を切らしながら放たれたその声からは、今まで精いっぱい少女のことを探していた彼の真剣さが伝わってきた。その声を聞いた少女は口いっぱいに入っていたパンを無理に飲み込んで、少し詰まったのか、喉もとをたたき、強引に流し込んで立ち上がった。
「……お、おにーちゃん? ……うわぁーん!!」
雨が止むのを待っていた少女は、少し弱まってはいるがまだ降っている雨を一切気にせず、傘を置き去りにして泣きながら声の方へと走っていった。
声の正体は、少女がはぐれてしまった兄のもの。その声は、今までどこか不安さを醸し出していた少女を、安心という温かさで包み込んだ。
「……おにいちゃん……急にいなくなっちゃうから……。雨も強くなってきちゃったし……」
「ごめんな、にーちゃんが悪かった。ひとりで寂しかっただろ?」
「う、ううん? そ、そんなことないよ……?」
少女は、兄の前で少し強がっているのか、涙をぬぐってきょとんとした顔を見せている。そんな少女の姿を見た兄は、何かに気付いたかのように『クスッ』と笑い、少女の手を取った。
「まぁいいか。……母さん心配してるだろうし、そろそろ帰ろっか」
兄は笑顔でそのまま少女を連れ帰ろうとする。もう二度とはぐれないように、しっかりと少女の手を握って。少女も大きな声で『うん!』と返事をし、笑顔で鳥居をくぐる。
私は、『今度こそ帰ってくれたな』と、また同じように安堵し、今度こそ石垣の上に戻ろうとした。だが、
「あ、ちょっとまってて!」
と、少女が兄の手を払い、振り返ってもといた石垣へと戻ってきた。そして、石垣の前まで来たところで少女は立ち止まり、小さな両手を合わせ一礼した。それは、前にここを訪れた参拝客の素振りと似ている気もした。
深々と下げた頭を、元気いっぱいに持ち上げ、斜め掛けした黄色いポーチをガサガサとかき回し初め、そこから何かを取り出した。そしてそれを石垣の上に置き、少女と出会ってから初めての一番最高の笑顔で、
「また来るからね!」
という言葉を残した。
黄色い傘を片手に、少女はひとり、私に背を向けながら歩く。その先にあるのは、少女を待つ兄の姿。
人間ではない、妖怪である私は、人の心などわかるはずもない。その温かさや冷たさ、重さや軽さも、わかるはずがないのに。なのにその時は、なんだかこう、温かいような、優しさのようなものを感じたのだ。人間でない私が。妖怪である私が――。
鳥居の下、少女を待つ兄が再び彼女の手を握り、一歩一歩歩み出した。
二人の足音は次第に小さくなっていく。
「何してきたの?」
「さっきね、キツネさんがいたんだよ! まっしろなキツネさん! だからキツネさんにあいさつと、それから食べ物もあげてきたの!」
「そうなのか? にーちゃんも見たかったなぁ、そのキツネ」
「うん! それとね、今日幼稚園で……」
鳥居の向こう、石階段のあたりで二人が嬉しそうに話している声が聞こえる。その声もまた、さっきの足音と同様、次第に小さくなっていき、今まで忘れていた雨音が聞こえ始めたため、私はやっと安心して石垣に座ることができた。そして、そこにはさっき少女が食べていたパンと同じものが。
私はすかさずソレにかぶりついた。久しぶりの食事だからか、普通以上においしく感じた。そして、狐ながら私の瞳からは涙が零れ落ちていた。気づかぬうちに。
その涙は、空腹によるものだけではない気がする。私にはそれが何なのか、はっきりとはわからなかった。だが、心に優しく触れられたような、そんな優しい感情が、私の涙を誘ったのだと私は思うのだった。
雨は弱いが降り続く。それ以外はいつもと何にも変わらない、そんな日常の一ページに過ぎない。パンもあっという間に食べつくしてしまい、私は一人、いつものように石垣に座りながら雨宿りをする。雨は止むことを知らない。
少女がいなくなり、パンも食べ終えた私の頭には、ふと一つのことがよぎった。それは、さっき少女を前にしてとっさに逃げ出してしまったものの、これが自分の使命を果たす絶好のチャンスだったということ。逃げなければよかったと、そんな思いが頭をよぎり、私は深く後悔した。ただでさえ参拝客だって少ないのに、しかも幼い子供なら簡単に欺くことができたのに、と。
けれど、今更悔やんでも遅いこと。なので、私はもうそのことについては考えないようにしようとした。だが、私はそこで少女の言葉を思い返す。少女は私に興味を抱いているようにも見え、最後には『また来る』のような言葉を残していった。なぜこんな古びた神社を訪れたのかはわからないが、もしかしたらもう一度ここに来てくれるかもしれない、と、多少の希望を抱くようになった。
少女にもう一度会いたいという気持ち。言葉だけ聞いたら善意を感じる。だがそれは善意ではなく悪意によるもの。私にとって少女はただの獲物でしかなかったのかもしれない――。
★ ―『雨と呼ばれた白狐』―
翌日は、私にとってはあいにくの晴れだった。なぜかって……そりゃ人前に姿を現せないから、ね……。
ここ最近は、世間では梅雨と呼ばれる時期らしく、雨が降る日が多かったが、今日はたまたま晴れだった。日の光が私の体に沁みる。私自身実体はないのだが、少しヒリヒリした感じだ。
雨上がりの翌日だからか、地面はまだ少し湿っており、水たまりもちらほらある。木々の葉にも、朝露が。社の屋根からも、水滴がポツポツと落ちてくる。そんな、雨上がりをにおわせる夏の風景は、雨が好きな私であっても少し清々しいものを感じる。
だが、やはり私は雨の方が良い――。
雨音が耳に届かなくなったかわりに、ミーンミンミン、といったセミの鳴き声が私の耳に突き刺さってくる。これも一つの夏の風物詩と言ってしまえば簡単な話だが、こんな蒸し暑い中にあの鳴き声は正直『傷口に塩』のような感じだ。妖怪である私でも、そんなことを日中思っているのであった。
じめじめとした空気を避け、日陰を探しながら人目の着かない場所へと身を隠す。その場所は、昨日少女から逃げたときに隠れた社の下。木造の社、その下は案外風通しが良く、じめっとした空気を忘れさせてくれるような、そんな場所である。晴れの日オンリーの私のお気に入りの場所ってところだ。そこで丸まって寝ると、少し湿った土がひんやりとしていてとても居心地が良かった。そのためか、いつの間にかまぶたが重くなり、いつの間にか深い眠りについていた。
どのくらい眠っていたのだろうか。目が覚めきっていない私は、のっそりと起き上がり社下からでてまだ寝ぼけている眼をしょぼしょぼしながら辺りを見渡す。眩しさで初めは見えにくかったが、鳥居の向こうを見つめると日が少し沈みかけて、セミの声もほとんど聞こえなくなっていた。そこで私はようやく目が覚めた。
『いけない! 人間に姿を見られていないであろうか……』
眠っているときでも、雨が降っていなければ人前に姿を現してはならない。ましてや晴れの日の神社。こんな寂れた場所でも参拝客が訪れるかもしれない。もしそこで仮にでも私の姿を見られていたら――。最悪明日にでも寿命が尽きてしまう。
死と隣り合わせの環境。少しでも油断したら軽く寿命など吹き飛んでしまう。正直怖さしかない――。
普段なら、日中に深く寝てしまうなどほとんどないのに。だが、今日はなぜか眠ってしまった……。今日に限ってこんな……ん? 今日に限って?
――私は分かった気がした。
少女だ。少女だったんだ。今日の私のこの現状は、昨日訪れた少女に影響されたのだ。半信半疑であった。少女がまた訪れるなんて思わなかったはずなのだ。だが、心のどこかで願っていた。それが私の心を、そして性質を変えたのかもしれない。だから、今日の私は普段と少し違ったのだ。少女によって――。
まぁ、どちらにせよ私は眠っていたのだから、少女が来ても分からない。ましてやあんな幼い少女の軽い一言。少女がまた訪れるなんて――。
私はため息をついた。狐ながらに小さくコゥンと。そして、下を向きながらとぼとぼと石垣の方へ。と、その時だった。石垣の上に目をやると、そこには見慣れたあのパンがひとつ、ぽつんと置かれていた。
『また、来てくれたんだ』
私は一目でわかった。あの少女がまた訪れてくれたのだと。信じていなかった。だけど、ほんの少しだけ期待していた。だからこそ、驚きが隠せない。
私はそっとその石垣に上り、置かれていたパンを昨日と同じように頬張った。暖かい何かを感じながら。
そんな感じで、翌日、また翌日と晴れの日は続き、その期間もずっと少女は訪れ続け、毎日一つのパンを置いていった。
そして少女との二度目の「雨の日」が訪れた――。
私は目を覚まし、ゆっくりとその時が訪れるのを待った。石垣の上で、しっぽを振りながら。そして、日が昇り終えてからそれなりの時間が経つころ、少女はいつも通り姿を現すのであった。
「あ! やっぱりいた! キツネさん!」
少女は、お得意の黄色い傘を閉じないまま走ってきたので、その傘はさかさまにひっくり返ってコウモリ傘になっていた。だけど、幼すぎる少女は関係なく走ってくるのである。
私はおそらく少女を待っていたのだと思う。だが、少女と目が合ったとたん、私はとっさに身を隠そうとしてしまった。
「待ってよ! 今日こそは……ねぇ!」
少女は大声で手を伸ばしながら駆け寄ってくる。だが私は隠れようとする足を止めなかった。なぜだろうか、私は私自身が許せなかった。隠れようと足を止めない私自身を。
だが、私はその足を止めるのである。少女のあの顔は、なぜか私の足を止めたのであった。そして私は振り返り、再びあの石垣へと上がった。
「ごめん、びっくりさせちゃったね」
少女は私に謝った。本当に謝るべきなのは私なのに。私は、なぜだかそんなことを思った。それは私の妖狐としての感情ではなかったから、人間に近い感情だったから、私は私の感情を疑問に思っていた。
少女は私の頭をそっと撫でようとした。だが、それは不可能だ。私は妖狐。肉体を持たない。だから、肉体を持つ人間には触れることはできない。そう思っていた。だが、少女は当前のように私の頭に触れ、当然のように私の頭を撫でたのだ。私にはそれが不思議でたまらなかった。なぜなら、かつて私に触れることができた者はいなかったのだから。それが私の妖狐としての常識であったのだから。だが、少女は違った。少女だけが、だ。
初めて触れる温もりに、私はうっとりとしていた。生き物としての温もり、それは私には存在しないモノ。生物としての財産を、私は生まれて初めて肌で感じたのだった。そしてそれは、もう一度味わいたいと思うほど、私にとっては心地よいものだった。
「ねぇねぇ、キツネさん。お話ししましょうよ」
少女は私に話を振った。当然私は口がきけない。そのことを知ったうえで少女は私に話しかけているのだろう。おそらくだが、これはペットに話しかける飼い主のようなものだろうか。
「じゃあ私から……えーとじゃあキツネさん、キツネさんは何が好きなの?」
少女は一方的に話を始めた。私は何も返事をしない。だが、少女は私の声を聞き取っているかのように一人で頷いて納得する。まるで幼子のままごとのように。
「うんうん、パンが好きなのね? なら持ってきて正解だったよ!」
私はそんなことを答えたつもりはない。だが、パンが好きなのは確かだ。少女は続けて自分のことも話し出す。
「私? 私は……えーと、あっ! おにーちゃん!」
どうやら私が同じ質問を少女にしたという設定らしい。少女は得意げに答えた。だが、少女の設定上食べ物を答えた私に対して『兄』という回答をした少女は正直謎であった。と、そんなことを思っていると少女はそのことについて訂正をした。
「あ、おにーちゃんを『食べる』ってことじゃないよ! フツーにおにーちゃんが好きってこと!」
私の言葉が聞こえてたのだろうか、私の考えに答えるように話す少女は実際に会話をしているようで少し嬉しかった。
「そういえば、キツネさんはなんてお名前なの?」
唐突に話が変わり、私はキョトンとした。私に名前はない。どのようにして生まれたのか、誰が親なのか、そんなこと気にしたこともなかったし知るよしもなかった。もともと知っていたのは私が『妖狐』であること、それからその使命について。この二つだけだ。だから私には名前はない。それに意味を持たないから。
だが、少女は私の名前に意味を求めていた。
「そっか、キツネさんにはお名前がないんだ」
私の名前を必要とする者。そんな者が現れるなんて考えてもみなかった。私はただ使命を全うするだけ。それだけだと思っていたから。だが、少女と関わっていくうちに、なぜだか私にも名前が欲しくなっていた。なぜだろうか。少女に『キツネさん』と呼ばれるのではなく、ちゃんとした私として呼ばれたかったのかもしれない。まるで人間のように。
「じゃあワタシが付けてあげる! うーんそうだなぁ……っあ、そうだ! キツネさんは雨の時にしかいないから『アメ』って名前にしよう!」
とても安直だった。だが、嬉しかった。『アメ』か。確かに私に合っているのかもしれないな。
少女はそっと空を見上げた。――雨はまだやむ気配をみせない。
「キツネさん……じゃなかった、アメは本当に雨の日が好きなのね」
雨が降っているのを確認して、少女は私に問いかけた。私は雨が好きなわけではない。雨こそが私の縛りであるから、私は雨の時にしか現れない。ただそれだけだ。
だが、この雨が私を少女とめぐり合わせた。それは事実だ。だからこそ、私にとって雨は好きなものになった。
「そうだ、ワタシの名前言ってなかったね」
少女は自分の名前を名乗ろうとしている。だが、私は少女の名前を知っていた。確か、『モミジ』といったか。少女の兄だと思われる人物が少女をそう呼んでいたのを思い出した。
「ワタシの名前は穂村紅葉。よろしくね!」
少女は私の予想通りの名前を名乗った。初めて聞く穂村という名字を添えて。
★ ―『花火の夜に』―
あれからほんの少しの時が流れ、世間一般では『夏休み』と呼ばれる期間に入ったようだ。私が住まうこの寂れた神社にだって、やたらとごつい男衆なんかが『リンゴ飴』やら『わたがし』なんかっていう看板を担いでは一生懸命何かを組み立てているのがうかがえた。私が生まれてからこんなことは初めてだったため、正直驚きしかなかった。だって、彼らが何を行っているのかが見当もつかなかったのだから。
そんな辺りが騒がしい中のある雨の日のことである。
モミジという名の少女はいつものように私の前に現れてはいつも通りの他愛もない話をして、一人にこにこ笑っていた。初めのころの私はその意味が解らなかったがだんだんと少女のその姿を見て少し嬉しく感じるようになってきたのであった。
そんな少女から、ふと、いつもとは違う内容の話が飛び出してくる。
「そういえば……ねぇアメ、もうすぐこの辺りでお祭りがあるんだけど……一緒に花火見ましょうよ!」
『花火』という聞いたことのない単語とともに、少女は少し恥ずかしそうに私に問いかけるのであった。私はその意味が解らなかった。だが、少女のその姿からなんとなく私にとってうれしいことなのだと悟った。だから私は大声で『クゥーン』と返事をした。
その声に反応したのか、少女は嬉しそうに、
「絶対だよ! 約束だからね!!」
と、大きな声で応えて、私の頭を強く撫でた。
そして、花火が上がるというお祭りの日がやってきた。
鳥居奥の石階段の下あたりは、何やら人々が集まっているようで、聞きなれない笛の音や太鼓の音、人々の賑やかな笑い声などが社にまで響いてくるのがわかる。
私にとってそれは、眠るのには耳障りで少し不快に思うものでもあったのだが、聞き入っているうちにだんだんそんな気持ちも失せ、正直どうでもいいように思えてきた。
ため息を一つつき、いつもの石垣の上で丸くなりゆったりとしている私だったが、不意に少女とのあの約束を思い出す。『祭り』それから『花火』という単語から、何かしら特別なものなのだとは感づいていた私であったが、その真相にまでは至ってなかった。だが、今この状況から、普段とはまるっきし違うこの現状から、今この時がもうすでに祭りなのだと私なりに推測できたのであった。
と、そんな時、空に響く『ドーン』という大きな音。突然だったのでびっくりした私は、とっさに社の下へともぐりこむ。だが、振り返りざまに目に入った空に描かれたあの情景は、私の心をつかんで離そうとしなかった。それはいくつもの色が混ざり合い、弾け飛ぶさま。夜空というスケッチブックに大きく彩られたそれは、あの衝撃的な音とは対照的に異様な美しさを放っていた。
私は、誰か人が来てしまったら、ということを忘れて堂々と石垣の上でそれに見入ってしまっていた。そしたら案の定、誰かがこちらに近づいてきたのだ。しかし、私はそれに気づくことなく空の美を眺め続けていた。
そして、
「アメー!」
と、大きな声が聞こえて私はようやく現実に戻る。そしてその声に驚いた私はとっさに例の場所へと隠れようとするのであった。しかし、あの『アメ』という声とその名を呼ぶ人物はあの子しかいないことを私は知っていた。いや、私しか知らないあの少女だ。
私は立ち止まって振り返る。すると、そこには私のよく知る浴衣姿のあの少女が息を切らしながら立っていた。
「ごめん……遅れちゃった」
ついさっき、今日がお祭りなんだと気付いた私にとって、待たされたという感覚はなかった。ましてやほんとに来るかどうかも怪しかったわけなので、私としてはほとんど無関心でいた。だが、少女のその息を切らせながらも急いできてくれたんだという姿はなぜかしら嬉しかった。
雨は降っていない。だが、私は少女に自分の姿を見せている。私が生まれ持って与えられた制限のようなモノ『雨の日にしか人前に姿を現してはならない』。今の状況は私に課せられた制限に大きく反する。だが、私の身に変化は起きなかった。制限そのものが嘘だったのではないのかと疑いもした。だが、それはおそらく違う。また、少女は私に触れることさえできたわけなので、そのことも踏まえた私の考えは『少女が何かしらの特殊な力の持ち主』ということだ。だが、詳細ははっきりしない。はっきりはしないが、今こうして私は少女と向き合っていられる。それだけで十分だと思った。理由は必要ないと思った。だから、私は深く追及しようとしなかった。
「花火……一緒に見よっか」
少女は私の隣にちょこんと座り、私と同じように夜空のスケッチブックを眺めた。その姿を隣で見ていた私は、夜空の景色を見てにこにこする少女に見とれていた。なぜかしら心安らぐ、そんな感じだった。
言葉を交わす必要はない。私と少女を繋ぐこの景色。それは、少女が私を誘ってくれた『花火』というものなのだと理解した。そしてそれが、妖狐である私の心にすら、何か温かいものを届けてくれる、人間の作り出した芸術というものなんだと知ったのである。
辺りに響く花火の強い音とともに、心清らかなゆったりとした時間は、思っていたよりも早々と過ぎていくのであった。
最後を飾る特大の虹色花火。それを期に、祭りはだんだんと終りムードになっていったのを何となく感じた。さっきまで騒がしかったはずの人間の声も、いつの間にか静かになっていた。
「今年の夏ももう終わっちゃうんだ」
花火の終わりとともに放たれた少女の言葉は、どこか寂しいものを感じさせた。笑顔だったはずの少女も、いつの間にか無表情になっている。だが、
「来年も、再来年も、一緒に花火見ようね! アメ!」
少女は私の方を向き、さっき以上の笑顔でそう言ったのであった。
祭りの全てが終わり、少女は立ち上がり私の方を向いた。そして再度ニコッと笑顔を見せ、少しずつ歩み始めた。ちょうどそのくらいから祭りの灯りも消え初め、辺りは時間に似合ったくらいの暗さになろうとしていた。と、そこへ、
「おーい! モミジー!?」
と、前にも似たようなことがあったと思えるように、少女の兄であろう少年が現れるのであった。私は、少女と同じ感覚でその場に滞在してしまった。だが、
「お、いたいた。ったく心配したんだぞー? 屋台の番頼んどいたのに、ちょっと目離したすきにいなくなっちまうんだからさ」
「ごめんねお兄ちゃん……。でもアメと約束してたから」
「アメ? あぁ、モミジの言ってたキツネのことか。んで? あれがそのアメか?」
少年は私を指さして、少女にアメなのかを確認していた。だが、その行動が私の体を、心を蝕む結果となることをその時の私は分かっていなかった。少年と目が合ったとき、何かしらの寒気を感じたのだ。だから私はとっさではあったがいつものようにあの場所へと身をひそめたのである。
その後のことはあまり覚えていない。少女と兄の話し声がぼんやりと聞こえるなか、私の体はだんだんと薄れていった。体中には激痛が走り、意識を保つだけでもやっとのような、そんな状況であった。自分の存在が、存在そのものが消えていくような、そんな恐ろしく悲しい感覚に陥っていたのである――。
いつの間にか私は、どこか別の場所にいた。どうやら意識が途切れ、自分の想像の世界に迷い込んでしまったようだ。
そんな私に、誰かが言った。
「使命を果たせ。さもなくば汝の妖怪としての魂をいただくぞ」
と。目の前にある『死』という絶望。いや、『消滅』という絶望。それを目の当たりにしたかのように、私の心の内の何かが異常なまでの恐怖心を覚えた。そして、もともと持っていたはずの妖狐としての感情、人間を殺めてしまおうという感情を、再び思い出すきっかけとなった。
深く人間と関わりすぎた。人間に情が移ってしまった。まるで人間のようになってしまった。そう感じた。だからこそ私は、そのすべてを捨てた。少女との思い出も全て。
私の心には、少女が去り際に放った「また来るね、ばいばい」という言葉が届くことはなかった。
★ ―『台風14号』―
それから少しの時が流れたが、私はあの日以来、モミジの前に姿を現すことはなくなった。妖狐としての使命を果たさなければならないことは私が一番わかっていること。だが、払いきったはずの少女に対する感情が、私の判断を曖昧にする。そのため私は何もできず、ただ一人そこに居座るのだった。少女に姿を見せぬよう――。
それなのに、それなのにだ。モミジは私のもとへ毎日やってくるのだ。10回も20回も。私を求めてやってくるのだ。あの無邪気な表情は、あの幼げな高い声は、私の感情を鈍らせる。なぜなんだ。私にはわからない。忘れると決めたのに――。
それから何日か経った雨の日のことである。私はついにしびれを切らして少女の前に姿を現した。覚悟は曖昧なままだった。だが、こうしなければならないと思った。
「……アメ?」
少女は私の存在に気づいたようだ。そしてかつてのように私のそばに寄ってきた。だが、
「あ、待ってよ!」
私はその白い尾をなびかせながら林の奥へと進んでいった。少女から逃げるように、そして少女を導くように。
「待ってってば!」
少女は私を追いかけてくる。小さな体で息を切らせながら。これでいい、そう、これでいいのだ。これでこそ私本来の生き方というものだ。
手入れのなっていない伸びきった草をかき分けながら、前の見えないけもの道をひたすらに走る。あの場所へといざなうために。少女の声は次第に遠くなるが、それでもかまわない。私はただ走るだけだ。あの『崖』へと導くために。
草木でふさがって見えにくくなっている道の果て、ようやく私はあの場所にたどり着いた。姿も声も聞こえないが、少女が追いかけてきている足音だけはかろうじて聞こえた。だから私は少女を待つようにして崖の目の前でちょこんと座っていた。と、そんな末、ようやく少女は私に追いついた。
「はぁ……はぁ……やっと追いついた」
少女の顔は真っ赤だ。だが、私はそのまま崖へと飛び込んだ。
「あ、待ってって……え?」
少女も共に、崖へと飛び込んでいた。
私はとっさに妖術で姿を隠した。妖狐である私にとって、霊体である私にとって、崖から落ちても死ぬことはないのだが、少女の前に姿を現しておくことが辛かったのだ。
少女は崖下まで落ちていく、かのように思えた。だが、そこへ思いもよらぬ人物が登場したことに私は驚きを隠せなかった。そう、その人物とは――。
「大丈夫か!? モミジ!?」
モミジの兄であった。
少女は兄によって何とか引き上げられ、一命をとりとめた。
「おにいちゃん……ごめんなさい」
少女の声はひどく弱々しかった。その姿を見た兄は、何とも言えぬ表情で妹を抱きしめた。
私はいまだに姿を現すことはなく、少女と兄が私から遠ざかっていくのが見えた。少女は泣いていた。『死』を間近に感じた恐怖心からか、それはいまだにわからないままであるが――。
それからと言うもの、少女が私の前に姿を現すことはなくなった。「これでよかったんだ」と自分に言い聞かせる。そう、これで――。私は少女を殺めようとしたが、結局殺められずに諦めていた。やはり私の中にある少女への情は消えていなかったのだ。私と少女がこれ以上関わりを持つことは、お互いにとって悲惨な結果を生むことになる。だから、これでよかったのだ――。
私は笑顔だった。だが、私の瞳からは次第に涙が零れ落ちていた。うっすらとした笑みは、涙の雨ですぐに崩れ落ちた。私の本心は、少女と離れたくないのだ。一人ぼっちで何もできなかった私に話しかけてくれた少女に。
少女との時間は、私にとって非常に大きなものになっていた。そして、少女の存在もまた、私の中で非常に大きなものになっていた。それなのに私は少女を――。
時が流れた。少ない時間のように思えるそれは、私にとっては非常に長く感じるものだった。雨の日はその後何度も訪れたが、少女が私の前に姿を現すことはなかった。私が少女にしてしまった行動はそれほどまでに最低だったということだ。
私は妖狐であり天邪鬼でもあるのかもしれない。自分の心に嘘をつき、他人を思いやってしまうソレはもはや妖怪としては失格にあたいするものである。私は何がしたいのだろうか、自分の気持ちがわからない――。そんなことをいたずらに考え、ただ無駄に時間を浪費していた私の前に、アレはやってきてしまった。
2000年9月11日、記録的な大雨を生み出した台風14号は、私にとっては初めての台風であり、私の人生の中で最後の台風となった。強風に見舞われ、私はいつものように社の下で丸くなっていた。私は一人だった。一人ぼっちだった。昔と同じだ。これが本来だ。これが私だ。これが正しい。今までが間違っていたんだ。自分にそう言い聞かせながら、私はじっと涙をこらえた。そう、もう私の前に少女が現れることはないのだから――。
強風に揺れ、木々が騒めく。古ぼけた社は、その風貌によく似合ったように、ガタガタとひしめき合っていた。無論、誰かが補強しに来ることもなく、ほったらかしにされたその姿は私とよく似ていた。それに付け加え、身を刺すような強烈な雨は、社という雨宿り場所がない限り私の体に多大なる重圧を加えることとなるだろう。しかし、今はそんなことどうだっていいことだ。現状を表すとするならば、ただ私が一人ぼっちである、ということだけである。それ以外はいつも通りの雨の日だ。私にとってこれらの気象状態など、何の問題もない事であった。鳥居が倒れるまでは――。
石造りの足場に、木製の腐りかけた鳥居が轟音を立てて崩れた。その衝撃音は、社の下に潜り込んでいた私の耳にも強く刺さった。その音に驚いて、私は社の下から飛び出し、崩れてバラバラになった鳥居を雨にあたりながら眺めていた。木片が散りじりになって、水たまりにぷかぷかと浮いている。それを眺めているうちに、また強い風が吹く。私の体は小さくて軽いため、簡単に吹き飛ばされてしまいそうだ。と、そんな時、私の左側からはゴロゴロと言った不思議な音とともに、木々や土砂が崩れ始めているのだった。それは勢いが強く、強風に気をとられていた私は、そのせいもあり反応が遅れ、対応ができずにいた。あの花火の日以来だ、自分の身の終わりを感じたのは――。
しかし、運命というものは、自分が死を悟ってしまうときに限って抗ってしまうものであるようだ。私の視界に入ったもの、それは――。
「アメ! 危ない!!」
黄色いコウモリ傘に、全身真っ黄色のレインコートを羽織ったモミジの姿だった。
私は少女に抱きかかえられ、社の中に入り込んでいた。崩れ落ちた土砂から、少女は私を庇ったようだ。でもなぜ? 私は少女を殺そうとしたのに――。
「無事で……よかった……」
少女は息を切らしながら、いつものように顔を真っ赤にして言った。私はその言葉に対して、申し訳ない感情とやるせない感情を抱いていた。
少女の後を追って、少女の兄が社の中に顔を出した。今になって気づいたが、古ぼけた社は手入れがされておらず、鍵すらかけられていなかったため中に入ることができたようだ。兄は私を見るなり何とも言えない表情を見せた。そしてその次に少女の顔を見て、兄は少女をしかりつけるのだった。
「急に飛び出して……、台風だぞ? ダメじゃんかモミジ!」
「だって……だってアメが死んじゃうかと思ったんだもん……。だって、だって……!」
少女は大声で泣いた。小さな社の中に、その声は痛いほど響いていた――。
その夜私は夢を見た。いつになく珍しい夢だ。そこには少女がいて、私がいて、少女は私の方を見るなり笑顔で近づいてくる。でも、私はそんな少女を殺そうとした。
「アメが死んじゃうかと思ったんだもん」
私は少女を、少女の命を奪おうとしたのに、それなのに少女は私のことを助けようとしてくれた。私を庇って社の中へと導いてくれた。私にはその感情がどうしてもわからなかった。でも実際、少女は私を助けてくれたのだ。
少女は私に手を伸ばしていた。「一緒に行こう!」と、私の手を引いて。私は手を伸ばしていた。その手は白い獣の手ではなく、薄橙色の五本指、人間の手だった。私は少女の手を握っていた。そしてゆっくりと立ち上がり――。
目が覚めると、そこは社の中だった。扉が中途半端に開いており、そこから光が差し込んでいる。空は雲一つない快晴、風はまだ強いが、前までの勢いはなく雨も降っていない。そして私は、私以外の存在を思い出し社の中を再び見直した。そこには二人でくるまって眠る兄妹の姿があった。私はその片割れに近づいて、その頬をそっと舐めた。少女はビクッとして、一瞬身震いしたように見えた。私はその姿を見て、少し嬉しくなった。だが、少女の目にはうっすらと水滴が残っているように見えて、私はそのままその場を離れようとした。しかし、
「いか……ないで……」
少女は私を呼び止めていた。否、それは寝言だったようだ。少女の目に溜まった水滴は涙として流れ落ちた。私は少女のその姿を見て、もう二度と会わない方がいいように思うようになっていた。そう、これ以上深い関わりを持ってはならない、そう思ったのだ。
兄妹が完全に目覚めたときには、すでに白狐の姿はそこにはなかった――。
★ ―『アメとモミジと白梅雨と』―
私がそれに気づいたのは、あの台風が過ぎて一週間ほどが経ったある日のことだった。私の体が、足先から少しずつ消え始めていたのだ。わかってはいたものの、いざ寿命の終わりが現実になってくると、私としても動揺が隠せなかった。
一週間の間に、少女は毎日社に顔を出した。崩れた鳥居はいつの間にか撤去されていたが、崩れた土砂が残っていたため一時的に閉鎖されていた。しかし、少女はそれであっても私のもとへとやってきては、いつものようにパンを置いていった。その間に雨の日はあったものの、私は少女の前に姿を現すことはなかった。それはあの台風の日の夜から決めていたことだから――。
そして、その日はやってきた。その日は、時期としては少し遅れた梅雨時のようで、夕立のようにしっとりと降る雨は、茜色の空を見せながら白く輝いている。ちまたではこの現象を「狐の嫁入り」と言うようで、妖狐である私としては、何か因果関係があるような、そんな気にさせられた。そう、私の最後の日としては、これほどにまでふさわしい日はない、そう思わされてしまうのだった。
雨がひたひたと降り注ぎ、霜がかかって辺りがぼんやりと見えずらい白梅雨時。少女はひとり、傘を片手にそれを見つめていた。それは少女を前にしても動じず、いつもの社の石垣の上でひっそりと座っていた。その姿は少女にとっては一週間ぶりに見る姿で、今までとは少しばかり違うそれの様子に、少女は気づいていた。
最後の日だと知っていた私は、少女を前にしても動じることなく、最後くらいはしっかりと顔を合わせてあげようと心に決めていた。だからこそ、今日だけは少女の前に姿を現したのだ。
「アメ……?」
黄色い傘を片手に持つ少女が、私の姿を見るなり足を止めて立ち止まった。初めて会ったあの日とは異なり、そこに鳥居の姿はなかった。
少女は私の名前を呼ぶと、閉鎖用のロープを潜り抜けてそのまま私の方に走ってきた。その姿はどことなくうれしいようで寂しいように感じるものだった。
「アメ……アメ……!!」
少女は私を抱きしめた。普段の私なら嫌がって逃げ出すところだが、今日だけは特別だ。
私の体は次第に薄れていく。が、それでも少女は私を放そうとはしない。
「もう……死んじゃうの? 行っちゃうの? アメ……」
少女は大粒の涙を流していた。
「アメ……私アメのこと大好きだったんだよ」
少女は私に告白をした。
「本当は分かってたんだ、アメが普通のキツネさんじゃないんだってこと。私ね、いろんなモノに触ると、それがこの世界のモノかそうじゃないかってことがわかっちゃうの」
突然の告白に私は驚いた。少女は私の正体に初めから気付いていたようだ。
「そのせいでいろんな人から怖がられちゃって、私ずっと一人ぼっちだった」
――私と同じだ。
「でもね、そんな時にアメと出会って、私すごく嬉しかったんだ。オバケとか妖怪さんとかには、もっと小さい時に色々と怖い事されたからお兄ちゃんはアメの所に行くことを禁止しようとしてたけど……」
――私も同じだ……!!
私も一人だった、私も寂しかった、私も君と出会えて嬉しかったのだ。否定し、ごまかし続けてきた。でも本当は、とても嬉しかったんだ。
「だから、ごめんねアメ。何もしてあげられなくて、一人にしちゃってごめんね……!」
そんなこと、そんなことない。君は私に大切なものをくれた。このよくわからない感情を、はっきりとはわからないこの感情を、思い出を私にくれた。私はそれだけで幸せだったんだ。
少女は涙を流し続けた。無感情であったはずの私にも、知らず知らずのうちに涙があふれていた。「死にたくない」そう思わされた。ただ、時間は刻一刻と過ぎていったのだった――。
二人の時間は長いようで短く、いよいよその時は訪れようとしていた。
が、
「モミジ……! もう来ちゃだめだとあれほど言っただろ? はやく兄ちゃんのところへ……」
そこにあったのは兄の姿だった。
少女はその言葉に応えようと立ち上がった。しかし、私が驚いたのは兄の姿ではなく、予想外の存在がその後ろにあったからだった。
「おいボウズども! そこで何してやがる!? ここは危険だから入っちゃなんねぇのがわかんねぇのか?」
それは見知らぬ中年の男だ。
今思えば、ここで踏みとどまっておけばよかったのかもしれなかった。私はその場から飛び出していた。
「あっ、待って! アメ!」
「おい、待てモミジ!」
少女は私を追いかけていた。そしてそれを兄が。と思いきや、
「おっと、ボウズ、お前には少し聞きたいことがある」
兄だけが引き止められてしまった。
車通りの激しい大通りに出た。人通りも多く、中途半端に降る雨のせいもあり、視界がぼやけて見えずらい。
後ろから少女が追いかけてくるのがわかる、が、私は今になったとしても振り返ることはできなかった。
「はぁ……はぁ……待ってよ……」
私は走り続けた。そして車の激しい道路に飛び出し――。
鋭い音とともに、私の視界に映ったのは、私を追いかけて共に道路に飛び出した少女の姿だった。今にも弾き飛ばされそうになっているその少女の左腕は、私の方へと伸ばされていた。
私はとっさに願ったのかもしれない。その一瞬の出来事に、私は何も覚えていなかった。突然輝きを放った私の体とともに、不自然に宙を舞う少女の姿。そしてそこへ押し寄せ団子状態となる車の数々。被害は最悪だった。そして、私もそこで終了した――。
奇跡的に、その連なった車たちは、少女を避けるように倒れていたそうだ。しかし、少女の意識は戻らず、意識不明の重体。あとから来た兄は、口に手を当てて、何も言えない状態となってその場に泣き崩れた。そこに私の姿はなかった。
声が聞こえる。それはどこか懐かしく、そして虚しい声だ。
「ようやく終わってしまったようだね」
「あぁ、私は大切なものを守れなかった」
「なにを守れなかったの?」
「モミジを」
私は死を受け入れていた。受け入れてはいたんだ。しかしそれは自分一人だけで死を受け入れる話であって、それに少女を巻き込むなんて一切思ってもいなかった。
私にとってはそれが、唯一の心残りとなってしまったのだ。
「そうか、君はその子のことを大切に思っていたんだね」
「とても大切だった」
「それは器として?」
「そんなわけない!」
私は涙を流して答えていた。私にとっての少女は、妖怪と人間とのそれとはまったく違うものになっていたから。
「私はどうなったの?」
「死んだよ、さっき妖力を使い切ってね」
「やっぱりそうよね……。モミジはどうなったの?」
「君のおかげで、っていうのも不自然かもしれないけど、息はあるよ」
「そう、なら良かった」
「それと、君は死んだけれど人間として生まれ変わるから」
「え? 私は誰も殺していないのよ? モミジも生きてるって……」
「確かにあの子は生きている。でもね、君があの子に抱くその感情は、もはや妖怪じゃなくて人間なのよ。人間の器を奪う使命の本質は、その使命に抗い人間の気持ちを理解し受け入れること。だからあなたはもうとっくに人間なのよ」
「――――ッ!」
突然の言葉に唖然した。当然だ。こんな展開になるなんて誰も予想できない。まさかこんなことに――。
「それと、あの事故で唯一亡くなった女性がいるのよね。生まれたばかりの息子を庇って死んでしまったあの女性の分も、あなたは生きる義務があるのよ。あの人がいきれなかった分を、あの人の代わりに。そして、そのモミジちゃんに、再び人間として出会って、今まで伝えることのできなかった想いをしっかりと伝えるの。それが今のあなたに課せられた使命」
私は何がどうなっているのか、理解が追い付けなかった。だが、唯一分かったことは――、
「これで恩返しができる」
ということだ。
一人の少年が、全てを失ったかのように絶望に浸っている。意識不明の妹と、妹を失ってから身についてしまった体質に愕然としながら、少年はただ絶望に浸っている。
少年は、自分の胸についた名札を、事故があったあの現場に投げ捨てた。
捨てられた名札には、穂村秋人と刻まれていた――。
本編『二人で一つの物語』の第二章に差し掛かる前に投稿しておきたかった作品です!
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました!