一章 第九話:親不孝
美奈の意識を現実に呼び戻したのは、鎖の吸血鬼が上げた雄叫びだった。
目を覚ましてすぐ、美奈の頭部を鈍痛が貫いた。体を壁に打ち付けた時の衝撃によるものだったが、その痛みのおかげで、彼女が寝起きの微睡みというものに捕らわれずに済んだ。
——目を開いた美奈は、ほんの数メートル先の光景を見て、息を呑む。
拳と拳。脚と脚。異形と化した肉体同士が、もはや金属音となったそれを響かせ、攻撃の応酬を繰り広げる。
硬質化した身体同士の打ち合いは、火花すら散らすほど激しいものだった。
鎖の吸血鬼。黒い外殻に包まれた褐色の女。
そしてもう一方——オールバックの、四肢のみを異形に変質させた人間。
姿は変わっているものの、その顔を見違えはしない。鬼気迫るほどの形相で、人外の戦いに身を投じているのは、領場蓮だ。
自分が気絶してから何分も時間は経っていないことを、美奈は悟った。
二人の吸血鬼が繰り広げるのは、実のところこの世の道理をそれほど逸脱することはない肉弾戦だ。口から火を噴くことも無ければ、突然空を飛んだりもしない。
だが、ただ肉体同士のぶつかり合いという状況でありながら、その様は驚くほどに人外だった。
鎖の吸血鬼が、美奈の目ではもはや捉えられないほどの速度で、硬質化したその拳で蓮の顔を攻撃する。しかし蓮は、それを片手で軽く受け流し、続きざまにもう片方の手で相手を攻撃する。
二人は拳の応酬を、常識外の速度と威力で展開していた。
敵の拳が自分の顔面へと迫れば、体を反り、捻り、場合によっては空中へ小さく跳び、その身体を回転させながら躱していく。
お互いの拳がぶつかり合うことも稀にある。その時には、火花すら散るのだから恐ろしい。
「……人間業じゃ、ない」
互いの動きは、美奈から見れば完全に化物のそれである。世界最高峰の格闘家が揃っても、これほどまでの試合は再現できまい。
しかしそれを、戦いの張本人である二人は難なく継続しているのだ。そのうち片方は、ほんの数日前まで「ただのクラスメイト」だった男だ。
「え……領場く——」
美奈が口を開き、ふらつく足取りでその戦いの場に近付こうとまでしたのは、ひとえにこの状況への不理解によるものだった。
目の前で繰り広げられるのは、非現実、「吸血鬼」の戦い。
その光景は結局のところ、美奈の理解も常識も遥かに超えていた。
領場蓮は吸血鬼である。
その事実を耳で聞き、頭で理解はしていた。だが美奈は、その全身全霊では理解出来ていなかったのだ。目の前の状況は、美奈にとって「理解不能」だった。
理解出来ない現実を目の当たりにした人間は、同じく理解出来ない行動をとる。
閃光舞う吸血鬼の戦場に、美奈がふらふらと近寄ろうとしたのは、いわばそういうことだった。
しかし結果として、美奈はその危険地帯に足を踏み入れることはしなかった——制止を受けたからだ。
「両親が死んで後を追いたいってんなら別だが、死にたくないなら、動くなよ」
意識の完全に外から投げかけられた声。それは当然蓮のものではなかった。
美奈はそれと同時に、自分の口元が別の誰かの手で塞がれていることに気付く。ひやりとした不気味な感触があった。
視線を斜め上に動かし、その手の正体を探る。幸いと言うか、簡単にその顔を拝むことは出来た。
美奈の顔から、少し左上。そこに——闇に白く浮かぶ、ピエロの面が存在した。
「あ……貴方は」
「おい、動くなと言ったろ」
そう言われて、意識外からの声に足を動かしそうになっていたことに気付き、美奈はびくりと身を硬直させた。
「あれはT−レックスと同じだ。今は積極的に動く小僧を攻撃しに行ってるが、お前が奴の視界内でチラチラと動けば、いつ反応して突進してくるやも知れん」
「……ホルムウッド……さん」
その男の忠告はとりあえず聞き入れながらも、美奈は口で答えを返すことはなく、代わりにその名を呼んだ。
美奈を制止し口を塞いだのは、あの家で、蓮の親を名乗ったピエロ男だった。
「ど……どうやってここに来たんですか?」
差し当たりない疑問を選び、口にする。実際真っ直ぐ進んだだけとはいえ、地下の入り口とこの場所とは結構な距離で隔てられているはずだ。尾行でもされて居ない限り、蓮と美奈が"ここ"にいるとは分からないはずだった。
しかし、ホルムウッドは仮面の中で「ふん」と鼻を鳴らし、
「お前が聞きたいのはそんなことじゃあ無いだろう」
「……どういうことですか?」
「当たり障りない質問を選ぶな、どうでも良いことを聞くな。訊きたいことを訊けよ、面倒臭い」
なんというか、「読まれている」という不愉快な感覚に、美奈は眉をひそめた。この男は、ただ当然のようにその雰囲気空気から、美奈の思うことを「読んでいる」。
視線すら寄こさずに、他人の内面を見透かすこの男を、やはり美奈は苦手だと思った。
しかしそれはそれとして、この場で色々と誰かに尋ねたい疑問があることも事実である。
「……領場くんは……勝てるんですか?あの、吸血鬼に」
口を出たのは、まず間違い無く、この場で最も尋ねたい疑問だった。
今更あれは何だとか蓮はどうなってるだとか、根本的なことは良い。全身全霊では無理でも、少なくとも頭では理解している。
だから今現在気にすべきは、吸血鬼や化物ではなく、同級生としての領場蓮の安否だ。
現在進行形で、吸血鬼との激烈な戦いに身を投じる彼は、無事で済むのか。
それを判別できるのは、ここにいるホルムウッドだけだ。
「勝つとも」
ホルムウッドは、憚りなく即答した。そこに美奈を安心させようだとかいう配慮などは無いということは、殊更保証する必要もないだろう。
「勝たないわけがない、あの小僧は一級の吸血鬼だ」
「一級……って、一番上って聞きましたけど、領場くんがそれなんですよね」
そのランク分けは前に聞いた。その中で、蓮が最上位にいるということも。
だが美奈にとっては、そのランク分けに絶対の信頼や確信があるわけではない。定義を聞かされただけであり、実際にその「一級」という二つ名が、どれだけ強力に信用出来るものなのか、美奈には分からないのだ。
事実、その「最上位」であるはずの蓮は、鎖の吸血鬼と拮抗した戦いを続けているではないか。
蓮のその身を案じるが故、何も出来ず傍観するしかない歯痒さに、美奈は歯を噛みしめる。
しかしそんな様を見て、ホルムウッドはさもおかしそうにせせら嗤った。
「小娘お前、小僧からほとんど何も聞いてないらしいな。必要なこと以外喋らなかったのか、あの阿呆めが」
「……どういう意味ですか?」
「小僧の心配などするだけ無駄だ。お前は一級というものがどういう存在なのか知らないのさ——その本質を正しく理解すれば、あいつの身を案じることなどするものか」
ホルムウッドは依然、何者も寄せ付けない不気味な雰囲気を携えている。その風貌はもちろんのこと、喋り方、立ち姿、その全てかどこか現代とかけ離れているのだ。
そしてその言葉には、含蓄がある。もしかして百年生きているのではないかというほどの、何か積み上げられたものが、言葉の一つ一つにすら含まれている。
ただの人間の美奈にとって、そのあらゆる要素は、ただの威圧でしかなかった。
「『吸血鬼ドラキュラ』は読んだか?」
「……名前と大筋くらいは、知ってますけど……有名ですから」
吸血鬼ドラキュラ。
1897年に発行された、イギリスの作家ブラム・ストーカーの小説だ。現代における「吸血鬼」の、原型を生み出した作品と言える。
その内容は、簡単に言えばトランシルバニアに居を構える「ドラキュラ伯爵」を男達が倒すというものだ。
ジョナサン・ハーカー。
アーサー・ホルムウッド。
キンシー・モリス。
ジャック・セワード。
そしてエイブラハム・ヴァン・ヘルシング。
「でも……それが何だって言うんですか?あれはお話……フィクションでしょう?」
「フィクションじゃない。あれは実話だ。いや、正確に言うなら、実話を大幅に改変して作られたフィクションと言ったところか——ドラキュラ伯爵は五百年前、確かに実在したんだよ」
その声から、事の真偽を計ることなど美奈には出来ない。だがホルムウッドの言葉は確かに、真に迫ってはいる。
「吸血鬼という言葉は、そもそもあの伯爵のみを指す言葉だ。今の世に蔓延る連中は血が薄まり劣化した紛い物でな。『本物の吸血鬼』はもう、この世には存在しない」
「……本物はいない、って……それじゃあ、その『本物の吸血鬼』に一番近いのが、『一級の吸血鬼』ってことですか?」
「認識としちゃそういうことだ。『ドラキュラ伯爵に最も近い吸血鬼』。果たしてこの世界に何人いると思う?」
「……えっと……」
美奈は取り敢えず、きちんと計算することにした。
蓮から聞いた話では、「化物」の人口はこの世界の総人口の一割ほど。仮に吸血鬼という一種族の数を、さらにその一割と仮定しよう。
すると、吸血鬼はこの世界にざっと七千万人という計算になる。
その中から、六分の一だが——その中で最上級となると、かなり少なめに見積もるべきだろう。蓮は確か、「太陽が平気な吸血鬼は一割しかいない」とも言っていた。
「……一万人くらいですか?」
「二人だ」
少しとは言え頭をひねって叩き出した答えを、ホルムウッドは聞いているのかいないのか分からないような軽さで否定した。
「二人……だけ?」
「一級と呼べる吸血鬼はこの世に二人のみ。あの小僧はその片割れだ」
その言葉を聞いて、脳内で噛み締め理解し、美奈は今度こそ、ただのクラスメイトだったはずの少年に対して目を見開いた。
ホルムウッドの提示した「二人」という数字が真実なら、領場蓮という存在の意味合いは、今までとはまるで違ってくる。
実際のところ、この世界に存在する吸血鬼の正確な数は分からない。仮定では七千万人としたが、実際は百万人も居ないかもしれない。
だがそれでも百万人に二人。五十万人に一人。確率で言えば——宝くじが当たるだろう。
美奈は、その事実を正しく理解できるだけの賢しさを持ち合わせる人間だった。だからこその驚嘆である。これから美奈が蓮を見る目は、今まで通りとは行かないはずだ。
特別、なのだ。
あの同級生は正しい意味で、特別な——「化物」。
「……ふん。しかしまあ、あの女も相当に上級な吸血鬼らしい。多少の怪我はするかもな」
ホルムウッドは、呑気にそんなことを呟いた。それを聞いて、美奈は顔を上げ視線を戦いの場へと戻す。
激戦極まれり、という状態だった。
戦いな最中にいる二人は、最初に戦闘が始まった位置から大して移動もしていない。同じような場所で、同じような拳の当て合い躱し合いを繰り返している。
要は、戦闘自体が停滞しているのだ。今現在、二人の実力はほとんど拮抗していると言える。
だが、ろくに打撃が入ることもない戦闘でありながら、その様相は熾烈を極めていた。
目が慣れた今になってその戦闘を観察すると、ただ攻撃が掠り、受け流されていても、大量の血液が消費されていることが分かる。
爪先がほんの少し相手の首元を掠めればそれだけで、首の太さからして半分以上の切れ込みが入る。かと思えば、爆ぜた細胞は一瞬にしてその動きを巻き戻し、元のままの体に再生する。
破壊と再生。
欠損と治癒。
互いにそれを繰り返すという、鮮血なしには成り立たないモノ。それが吸血鬼同士が戦うということなのだと、美奈は理解した。
「……随分と異形だが、アレも吸血鬼には違いない。あの姿は惰性の肉体変化の成れの果てか?」
「っ……!う、腕が!」
美奈は呑気に考察を口にするホルムウッドの横で、悲鳴を上げた。丁度その視線の先では、蓮が左腕をボロ雑巾にされていた。鎖の吸血鬼の足蹴りをもろに受け、その骨までもが破壊されたのだと、一目で分かる損傷具合だった。
「余裕ぶり過ぎだな。小僧め、粗さが出ている」
「な……何呑気なこと言ってるんですか!領場くん、腕があんな——」
「落ち着けよ。何もあいつの戦いを見るのは初めてじゃないんだろう、なら分かってるはずだ。吸血鬼ならあんなものは問題にもせん」
ホルムウッドの言った通り、次に美奈が視線を戻す頃には、その腕は元どおり(と言っても異形ではあるが)になっていた。
「いや……腕は良かったけど、全然安心じゃ無いですか、あれ。むしろ少し押されてるんじゃ……」
「だから落ち着けって。見りゃあ分かるだろ——いや人間には分からんか。あの小僧、手抜きをしてやがる」
「て、手抜き……?」
「お前、さっき『人間業じゃない』と言っていたな。冗談じゃない、あんなものは人間業さ。小僧め、まだ自分の血筋を嫌うか」
「それって……どういう」
ホルムウッドの話は先程から要領を得ない。——いや、要領を得るために最低限必要な知識が美奈には欠けているのだ。
降って湧く疑問に常々晒されながらも、美奈は思考を絶やすことはなく、この状況を把握しようとし続けていた。
そして一方——戦いの張本人である、蓮は。
*
蓮は激しい戦いに身を置きながらも、その意識ははっきりと冷静に、状況を俯瞰していた。
鎖の吸血鬼と戦闘を初めて三分ほどが経つ。
優勢劣勢という感覚は、今のところ無い。幾度となく攻撃を受け、そして攻めているが、お互いに未だ決定打は無かった。腕をボロ雑巾にされたところで、それは数秒あれば治る程度の怪我である。
蓮は一級の吸血鬼だ。
この世界に二人しか存在しない最上級の吸血鬼である——それを考えれば、この状態は苦戦とすら表現できる。
しかし仕方がない。蓮は最初から、本気を出していない——否、出せていないのである。
手抜きというホルムウッドの表現は、ある意味で的を得ていた。能動的か否かを抜きに考えるならば、だが。
(この敵——、何かやりにくいッ……!)
蓮に焦りが生じる原因は、戦闘の膠着状態ではなく、むしろそれを生み出す自分の体調にあった。
体が思うように動かない。
この敵に攻撃を加えることを、無意識に身体が拒否しているような感覚だ。こんな感覚に陥るのは初めてのことだった。
これまでも、幾度か吸血鬼と戦うことはあった。その経験で判明していることは、何も蓮は戦い自体を忌避するほど甘い性格の持ち主ではないと言うことだ。
血を流すことは別段怖くもないし、相手が「敵」である以上、流させることに抵抗もない。そのくらいの達観は既にしている。
だから、この事態は完全に異常と言えた。
必然、その戦い方は防戦という形になる。 その攻撃を避け、受け流しながら反撃を繰り出すことは出来る。しかし、心の底からその心臓を穿とうとは、どうしても出来ずにいた。
鎖の吸血鬼の瞳は、何か感情があるのかさえ分からない。ただ淡々と蓮に攻撃を加えてくるのみで、そこにまるで彼女の意思など存在しないかのようだった。
そう——言うならば、「虚ろ」。
片方は自意識というものが感じられない、狂気の吸血鬼。
片方は何故か敵を敵として攻撃することがままならない。
これではこの戦いそのものが虚ろであり、空虚なものだと言わざるを得なかった。ホルムウッドが見ていて苛立つのも分かる、「つまらない試合」というやつだ。
現に、蓮は腕を砕かれ首を裂かれかけた上で、危機感というものを十分に感じてはいない。
命懸けの勝負に身を置きながら、何故かそこには、本当に命懸けという緊張感が存在しないのだ——蓮には、この戦いで蓮が死ぬ未来も、相手の吸血鬼が死ぬ未来も、一切が見えなかった。
「……何なんだ、お前は——!」
その瞳に意思は宿らずとも、その四肢は確実に蓮の心臓を狙い撃つ。その上でなお、蓮は敵の心臓を穿たない。
何度決定打を与えようとしても、身体がそれを拒否する。お互いの体に生傷のみが増え、そして減っていく。その繰り返しだ。
美奈から伝わってくる視線は依然「心配そうな」ものだが、いつの間にこの場に現れていたホルムウッドは違う。彼は既に、蓮がその力の全てを発揮できていない事に気が付いているはずだ。
あの男は、あれで堪え性が無い。ここで蓮が負ける事は万一にも無い。それはホルムウッドも分かっているだろうが……あの見透かした男の目ならば恐らく、このままではいつ決着がつくかも分からないという事実すら、簡単に読み取っている。
ホルムウッドは見透かした男である。
だからこそ、その行動には迷いがない。つまりは、何をするか分からない男でもあるのだ。
この場で彼は、さっさと決着が着くことを望んでいるはずだ。
その上で——この膠着状態を外から打開するために、彼が取りうる行動とは、どんなものがあるだろうか。
蓮がだらだらと本気を出せない状況を打開する。
逆に言えば、蓮が本気を出さざるを得ない状況を作るということが、彼のすべき事と言える。
ホルムウッドの性格を、蓮はよく知っている。彼が策を思いついて、なお手をこまねくような人間ではない事を——彼は思いついたらすぐに実行する男だ。
「————あっ……!」
不意に、鎖の吸血鬼の動きがピタリと止まった。それと同時に、全くの意識外から声が蓮の耳に届く。
その女の声は、獣の如き鎖の吸血鬼の唸り声では勿論無い——つまりは、この場にいるもう一人の女性、葉赤美奈のものである。
そして、ほぼ同じ瞬間に蓮のすぐ後ろで「ドサリ」という音がした。
「……おいおい……!」
そこには美奈が、身を庇うような姿勢で倒れていた。何が起きたのかわからないという顔で、しかし自分が危険地帯に完全に足を踏み入れた事は理解しているらしい、今までになくその顔には不安が見えた。
勿論、彼女が自力で飛び上がってここに落ちてきた訳がない。
投げ飛ばされたのである——他に考えられない、ホルムウッドにだ。
「え……領場く……」
「何考えてんだ、オッサン!何で委員長を——⁉︎」
美奈が蓮の名前を呼ぶより先に、蓮の怒号が響いた。
それはホルムウッドに対する怒りというより——困惑だった。彼は彼で、これが現実効果的な手段である事は理解しているのだ。だから、残ったのは困惑だけだった——「マジでやるか」、という。
「これでやる気が出るだろう。さっさとしろ、血筋が泣くぞ!」
「ッ……‼︎」
咄嗟に何かを言い返そうとしたものの、蓮は結局即座にその視線を前方へと戻した。悠長に口喧嘩などしている時間はない。
突然の乱入者を前にして、これ以上無く興奮状態にある獣が黙って立ち尽くしている筈はない——事実、鎖の吸血鬼の目はとっくに蓮など見ていなかった。しかと「人間」を捉え——その目は獲物を捕捉した肉食獣と表現する他無い。
「ウゥゥゥ——アアァァァァァァァァァ————!」
鎖の吸血鬼は首を上に傾けてまでの勢いで咆哮をし、そして次の瞬間、美奈の方向へと一直線に襲撃を開始した。
吸血鬼の餌は人間である。その本質的に、人間の血液が無ければ吸血鬼は生きていけない。
上級の吸血鬼ともなれば、化物の血で命を繋ぐことも可能ではあるものの、純粋な人間の血液に勝る食料は存在しない。
距離の離れていた先ほどまでならともかく、ここまで近づけば美奈の方が先に狙われるのは道理だった。
「くそ——!」
その声に明らかな焦りと怒気を含ませながら、蓮は反射的にその右腕を変質させていた。
元より人外のモノへと姿を変えていたその腕に、浮き出た青筋がさらにくっきりと形を見せる。たちまちに周囲の筋肉はさらなる硬質化を始め、同時に蓮の右腕は、生物ではあり得ないほどの大きさに肥大化した。
コンマ一秒のことである。
いわば面の威力のみを極大に増やした、超攻撃特化形態。
そしてその腕は、人間という獲物に飛びかかる寸前——蓮の横をすり抜けようとした鎖の吸血鬼の顔面に直撃した。
その勢いと威力は想像を絶する。ただの人間の体ならば内側から破裂しようというほどの圧と力が鎖の吸血鬼を襲った。
正気と見境を失った獣がその攻撃を避けられるはずもなく——物理法則に従い、鎖の吸血鬼はピンポン球の如く空間の向こうへ吹っ飛ばされる。
その体は、岩肌の補修した壁に激突し、大きな窪みを形作る。そして、呻き声とほんの少しの吐血を漏らし、地面へとずり落ちた。
遅れて、空間内に轟音が響き渡る。
「————っ、はあっ……」
一瞬の出来事に、美奈の目では何が起きたのか全てを理解する事は不可能だったものの、その身に迫った漠然とした危機感だけは確かに感覚として残っていた。
最後に鎖の吸血鬼を穿った蓮の一撃は、今までの力を出し切れなかったものとは違う、本気の一撃である。
しかし一方で、蓮は妙にひやりとした感覚を背中に感じていた。気分は妙に落ち着いているというのに、何故かその腕にこびり付いた、鎖の吸血鬼の体を砕いた感覚が鋭く伝わってくる。
「……く、そ」
その何とも表現し難い気色の悪さに、蓮は顔をしかめたまま、ホルムウッドの方を振り返り、叫んだ。
「オッサン!何であんなことをしたんだよ⁉︎」
「お前が煮え切らずダラダラとやっているから水を差してやったんだろう。俺は間違ったことをしたのか?」
「それはっ……そうだけど、もっとやり方ってもんが……!」
「さあな、確かに他のやり方はあったかも知らん。だが一番手っ取り早いのはこれだった。それはお前も分かってる筈だろ」
蓮はその言葉に言い返すことはせず、壁に叩きつけられ地に伏している鎖の吸血鬼を見やる。
確かにホルムウッドの取った行動は最適解だった。美奈を戦場に放り投げる。それにより、敵の狙いはただの人間である彼女に向く。
いくら蓮でも、美奈の身に直接的な危機が迫れば本気で動かざるを得ない。そして、本気で動いた蓮が、美奈を守り切れないことはあり得ない。
理論で言えば、最適解である。
唯一只人である美奈の安全すらも合理的に考慮された答え。それは、ホルムウッドが積み上げた年季によって果たされる卓越した思考の結果だった。
事実結果は完璧だった。膠着した状況は打開され、鎖の吸血鬼は地に伏し、美奈も蓮も五体満足である。
しかし、歯痒いほどの、悔やみが蓮の体を苛むのは、気のせいではなかった。
それは合理に任せた行動を取るホルムウッドに対するものなのか。
ついぞ外からの干渉無しにはこの敵を殺せなかった、その原因である正体不明の感覚を無視した行動によるものなのか。
「………ウ……」
「……!」
掠れたようなその声を聞いて、蓮の意識は一気に現実へと向けられた。
見れば、壁に打ち付けられた鎖の吸血鬼がふらつく足で立ち上がっていた。
蓮の一撃は、相手をとにかく攻撃し遠ざけるということを重視した、面の威力重視だった。そのため体全体にダメージが入っても、急所には届いていなかったらしい。
「まだやるってのか……?」
蓮はその体に再び力を入れ、身構えた。
しかし、鎖の吸血鬼が取った行動は蓮の予想とは違った。ふらふらと、何とか直立姿勢をとったかと思うと、突然方向を転換し、空間の奥へと走り去る。
「っ、逃げた……?」
蓮は一瞬呆けたようにそう呟いたが、慌てて気を取り直し、その後を追った。
空間にはまだ先があった。ほんの少し狭まった通路があり、その長さはせいぜい五メートルほどで行き止まりになっている。
しかし、そこに鎖の吸血鬼の姿は無かった。
無論、煙のように消えてしまったわけではない。蓮は溜息を吐きながら上に顔を向けた。
そこには穴が開いていた。大きさにして人一人は軽々通れるほどであり、そこからは淡く太陽の光が入っている。
「こんなとこに抜け穴が……」
この穴がどこに繋がっているかは分からない。しかし、この江峰の町の中であることは間違いない。
鎖の吸血鬼が、この町に解き放たれたことを意味する。
「逃げられたか」
ふと背中から声がした。振り向くと、いつの間に移動したのか、蓮のすぐ後ろにホルムウッドが立っていた。
「……あんなのが町に放たれたって、どう考えてもまずいよな」
「そうさな、こりゃあ本腰入れて動いた方が良さそうだ……あまり騒ぎを起こすと代行者を呼び寄せてしまう」
蓮は息を整えながら、取り敢えずこの場での戦闘が終了したことを悟り、その戦闘形態から普段通りの姿へと、肉体変化による変身を行なった。
たちまちその姿はこの地下に入った時と同じ、制服姿に戻る。
「ともかくこの地下の調査は終わりだ。小僧、お前はあの小娘を連れてこの穴から外に出ろ」
「あんたは?」
「俺はもう少しこの地下を歩き回ってみよう。もしかすると、さっきみたいなのがまだいるかもな」
それはゾッとしない想像だと思い、それと同時に疲労に襲われ、蓮は肩を落とした。
外の光が入っている以上、もうスマートフォンに頼った明かりは必要ない。蓮はその場で美奈を呼んだ。
まだ青い顔をした美奈が蓮のところに到着する頃には、すでにホルムウッドは姿を消していた。