一章 第八話:鎖の吸血鬼
突き詰めれば、蓮も美奈もその真実など知らぬ世代だ。
平和な時代に生を受けている——化物であれ人間であれその事実は変わらない。
二度の大戦を経て、世界は争いを忌み放棄した。それであっても紛争という形の争いは続いているが——しかし、だが、概ね、現在世界は平和である。
七十年間。その時の重さというものは、やはり七十年以上の時を生きた者にしか分からない。
それほどの時間、世界は平和だった。さらに言えば二人が生きたのはそんな時代が続いたうち、ほんの五分の一程度の時間だ。
だが七十年の時を隔てて遡れば、そこは戦乱の時代である。
血が流れた。兵士は泥煙に塗れ、そこには地獄が展開された。世界という「全体」が、地獄と化していたのだ。
その地獄の中、ドイツという国家は狂気の軍団を生み出した。史上最悪の独裁者の下、彼らは敵とした者たちに対し、暴虐と陵辱の限りを尽くし——そして戦争終結とともに滅びた。
ヒトラー・ナチス。
ドイツ第三帝国。
かつて千年王国の栄光を目指し進行した軍団。彼らを象徴する、現代では忌避されるシンボルこそが、ハーケンクロイツ——鉤十字だった。
それが、今二人の目の前にある。
化物の腐臭が残り香として漂う、この地下に。
「……南米のジャングルにナチスの残党が潜んでいて、世界転覆を狙ってるっていうのはよくあるゴシップだけど——」
蓮は今までになくその表情を、不快感にまみれたものにしながら言った。
「——こりゃあ笑えない」
「……本物……なの?これ。ただのお飾りってことじゃなくて?」
美奈は、その目を壁の鉤十字に釘付けにしながら、そう尋ねる。
鉤十字というのは(ドイツ本国は冗談にならないが)実のところ、現代では割合目にすることも多い存在だ。
ナチスドイツを題材にした映画やアニメは多く存在するし、そこらの暴走族がメガホンに書き込んでいることもある。それらは総じて、俗的なナチスマークの模倣模様に過ぎない。
目の前の壁に描かれたこれも、その類だと切り捨てることは、確かに出来るだろう。
「……そりゃあ、本物かどうかは分からないけど」
蓮は辺りを見回しながら、それでも冷静に答える。
「ここは過去に化物が巣食っていた場所だ。そいつらの正体が、七十年前の亡霊兵だっていうのは、一笑に付すほど現実味が無いとは言えない」
ナチスの残党——言葉だけ聞けば虚言妄言の類であり、安いゴシップになるかならないかのレベルだ。
だが、"ここ"は違う。この地下施設は少し前まで大量の化物が巣食っていた場所だ。化物に縁のある場所ならば、非現実的な虚言であっても——いや、非現実的であるほど、現実味が増すことになる。
「でも……ナチスって、七十年前でしょ?生き残りがいたとしても、寿命スレスレのお爺ちゃんばかりなんじゃないの?」
「相手が吸血鬼なら、人間の常識で考えられる寿命なんて概念は存在しないよ。殺されない限り死にやしない。六級は別だけど」
吸血鬼は不死身の化物だ。それゆえ彼らは不死者の王なのである。
下級の吸血鬼は寿命を持つが、それでも何百年という単位だ。七十年など、それが吸血鬼ならば簡単に飛び越えてみせる時間に過ぎない。
第二次世界大戦当時、ドイツと日本は同盟国だった。その伝手を辿い、ナチスの生き残りが日本へと渡り、最終的にこの黒江峰に行き着いた——と考えれば、一応大雑把に辻褄は合う。
だがこの辻褄合わせが事実だとすれば——ただの平和な片田舎である黒江峰は、一転して、途端に最悪の脅威が潜む町ということになってしまう。
それは、考えるだに寒気のする想像だった。。
しかし、疑問も多々残る想像だ。
例えば"臭い"。それだけの数の化物がこの町にいるのであれば、蓮が育った十四年間で気づかないはずはない。この町にはホルムウッドも居るのだ。
それに、それだけ多くの吸血鬼が居るのなら、必要な血液も半端ではないはずだ。
いわば彼らの餌は生きた人間である。ナチスドイツの兵士が、まさか平穏な一般人を犠牲にすることに、躊躇など抱くまい。
本当に大量の吸血鬼が存在するのなら、町の行方不明者の数は他の十倍では済まないはずだ。
しかし、蓮の知る限りそんな事実は無い。
(……情報不足だな)
吹き抜ける風の音だけが耳に届く中、蓮は考えた。
元からこの地下にやってきたのは、姿が見えない敵の情報を収集するためだ。
今まで目にしてきたものは、朽ち果てた牢獄や白骨など、漠然と「物騒」なモノだけだった。その上で、このマークは敵の輪郭を表すくらいの情報ではあるだろう。
しかし、それでも足りない。見えるのが輪郭だけでは、敵の脅威の度合いなど判別することは望めない。
敵を「勢力」と仮定するならば、情報は重要だ。
例えどんなに数が多かったとしても、級の低い有象無象のみならば問題はない。だが逆に言えば、仮に二級一級の吸血鬼が敵の中に存在するならば、事前にそれなりの策を弄する必要がある。その度合いが事前に分かるのと分からないとでは、前々からしておけることの量と質が段違いになる。
その数秒の中で様々な思案を行なった末、蓮は目を開き、結論を口にした。
「委員長、一旦戻ろう」
「……え?」
真剣な面持ちで投げかけられた予想外の言葉を聞き、美奈は思わず訊き返した。
「僕らは真っ直ぐにしか歩いて来なかった。けど、どうも情報不足らしい。これから僕は、今まで見逃した脇道横道も全部探索するつもりでいる」
「……じゃあ」
「僕はいざとなれば、この上の岩盤を殴り壊して脱出したりも出来るけど——君は迷ったら終わりだ。今、外に出た方がいい」
蓮が言ったことに関しては、美奈は納得するしかなかった。
今まではただ真っ直ぐ歩いてきただけだから良かったが、曲がりくねってまで進むとなれば、いくら蓮と一緒でも離れる可能性は高くなる。
彼の言う通り、美奈は「迷ったら終わり」だ。ここで戻るのが懸命というものだろう。
だが——、
「戻る前に——そこだけ、もう少し真っ直ぐ進まない?」
美奈は、正面から少し左にずれた方向を指差してそう言った。蓮はその方向に目をやる。
——そこには、小さな通路があった。
蓮は鉤十字に視線を奪われ、その通路の存在に気付かなかった。そのため、「真っ直ぐ」は目の前の壁で終わったものだと思っていたが——実際のところは、あとほんの少しだけ続くようだ。
「まだ『真っ直ぐ』は終わりじゃ無い……そこまでは私、付いて行ってもいいでしょ?」
「んん……」
蓮は迷った。確かに、未だ真っ直ぐに進む道であれば迷うことは無いだろう。だが、さらに深部へと足を進めれば、今までには無かった危険が存在しないとも限らない。
しかし——「遺された者の義務」。
「……良いよ。でもその通路で最後」
「分かってる。本当に……我儘言ってごめんなさい」
美奈はそうして謝罪の言葉を口にしながらも、その目は真っ直ぐと決意に満ちたままだった。
彼女はやはり、何かを欲している。おそらく、失った両親の存在に少しでも代わることが出来る可能性があるものを——今現在、「それ」は非現実の、化物という存在なのだろうと、蓮は納得した。
通路は先ほどまでの大きな道とは違い、本当にこじんまりとした、まさしく地下道というものだった。
ところどころを通るパイプと、所々で響く水音のみがその場の恐怖感を演出する。
少し進むと、二人は下に降りる階段に差し掛かった。その他に道はない。
「まだ降りるのか……?」
太陽の光が届かないこの地下ならば、確かに吸血鬼が潜むには最高の条件と言える。蓮が考えれば考えるほど、ゾッとしない想像に真実味が加わっていくだけだった。
階段を降りるうち、辺りの空気が冷えていくのを二人は感じていた。
季節は春先でありながら、この空間は数ヶ月とかが巻き戻ったかのようだった。夏服に変わったばかりの制服では、肌寒さを禁じ得ない。美奈はライトで前方を照らしながらも、その二の腕をさすっていた。
「————ァ」
「……?」
風の音に紛れて、ふと何かの声が聞こえたような気がした。何の音かも分からない——しかし蓮は、何故だかそれを「声」だと悟った。
「————ァ——ウウ——」
「……!」
二度目はよりはっきりとしていた。これを聞いて、蓮は何の音でもなく「声」なのだと確信する。
この先に何かがいるらしい。が——蓮の鼻はその存在を違和感と共に伝えていた。
何かがいるというのは良い。しかし、臭いがしない。
感覚機能に神経を集中した今であれば、蓮の鼻は化物の臭いなど絶対に嗅ぎ逃すことはない。しかし、この階段を降りた先にあるのは錆びた金属の臭いのみだ。
化物という異物の気配が、あまりにも微小だった。
この先にあるのは、むしろ動物の気配に近しい。獣という意味ではなく、なんというか、近所の野良猫のような——。
三分ほどすると、ようやく階段が終わり、二人は地下の最深部へと降り立った。
そこは冷たく、底冷えのするような雰囲気に包まれた場所だった。
今までの真っ暗闇とは違い、明かりなしでも辺りの様子を視認することが出来る。感覚機能に優れた蓮だけではない、それはただの人間である美奈も同じだった。
どうやらこの場所はコンクリートの舗装が十分ではないらしく、所々で外部の鉱石が露出している。そこにあるのが光を放つ性質を持つ特殊な天然石なのか——あるいは、長い間化物の瘴気に当てられた事によって変質したのかは知れないが。
そして何より、二人の目に映る光景は今までにも増して異様なものだった。
「何、これ……」
ぼんやりとした光に辺りが照らされる中、浮かび上がったのは大量の「鎖」だった。
今まであたりに転がっていた錆びついた小さなものとは違う。正方形の形をした空間の中、の四隅から、太さが十センチはあろうかという極太の鎖が、空間の中心に向かって伸びている。
四本が重なるその一点には——何か、黒い塊のようなものがそれぞれの鎖にがんじがらめにされて、固定されていた。
「この鎖は一体何だ……?」
四本ある極太の鎖のうち、すぐそばの一本に蓮は近づいた。
多少薄汚れてはいるものの、光沢も残っている。綺麗な金属だった。青白い光を反射させ、この空間中を照らしているのはどうやら四本の鎖らしい。
蓮は近付いた一本に右手を伸ばし、触れようとした——しかし、その指先が鎖の表面部に触れた途端、激痛が走り、そこには火花のようなものが散る。
「痛ッ!」
咄嗟に蓮は右手を引っ込め、顔をしかめる。美奈はそれを見て、「な、何⁉︎」と素っ頓狂な声を上げた。
「だ、大丈夫なの?領場くん」
「いや……これはすぐ治るけど」
蓮は火傷の跡のように爛れた自分の右手を見ながら、答えた。
「この鎖、どうやら純銀で出来てるらしい。確かに銀は吸血鬼の弱点の一つなんだけど——」
「……けど?」
「——僕の体がこんだけダメージを負うってことは、この鎖、どこか高名な教会の十字架か何かを溶かして作られてる。サンピエトロ大聖堂とかの」
純銀という物質であれば、不死身の吸血鬼に死を与えられる武器として有効ではある。実際吸血鬼というものは、銀のくいを心臓に打ち込まれて死ぬのが様式美だ。
しかし、蓮は第一級の吸血鬼である。たかが銀程度、その体に通じはしない——通じるのであれば、それは長年の信仰と祈りによって清められた銀だ。
「えっと、つまり——銀で出来たこの鎖は、吸血鬼に対する封印装置、ってこと?」
「うん。そして、そんな物を四本も使って縛られているアレは——」
蓮は空間の中央へと視線を戻した。
そこにあるのは、四本の極太の鎖によって固められた真っ黒の物体。
しかしよくよく見ればその形は——頭部があり、折りたたまれた四肢が存在する、紛れも無い人型だった。
「——吸血鬼、だろう」
——その吸血鬼は、うずくまった姿勢のまま「封印」されていた。
目を伏せ、頭も下に向けたままのため、顔を確認することは出来ない。白色の髪は伸び放題で、その一部は鎖に絡まっていた。
女か男かも分からないような酷い様相は、たとえそれが化物だと知らなくても、目を覆いたくなるだろう。
「い……生きてるの?」
「こんな鎖に何年も縛られたままなら、流石に生きてはいないと思うけど……どうだろう、さっき変な声も聞こえたしな。まあ、仮にまだ命があっても、二度と意識が戻らないような状態のはずだよ」
何しろ、この鎖はおそらく対吸血鬼の武器としては完全に最高峰の性能を誇るモノだ。そんな物に少なくとも数年縛られておいて、正気を保てる吸血鬼はいない。
蓮は警戒は怠らないものの、割合普段通りの歩き方でその吸血鬼に近付いた。美奈も恐る恐るだが、その後ろに追従する。
近くから見るとますます、この吸血鬼は死んでいるとしか思えない。
肌はどす黒く、白髪は埃や塵を被り荒れ放題。もしこれが生きていたのなら、アフターケアには苦労するだろうなどと、蓮は呑気なことを考えていた。
「それ、どうするの……?」
「……面倒だけど運び出すよ。オッサンに連絡して手伝ってもらう。情報源としては、これ以上無い素体だからな」
そう答えながら、蓮は鎖で縛られたままの「それ」の、頭部にぽんと手を置いた。
長い間放置されていたのだろう、その頭部は酷くざらついていた。運び出したとして、安置場所はあの地下牢になるだろう。はっきり言って、美醜という観点だけで見れば、この吸血鬼は自分の家に置いておきたいとは思えなかった。
——と。
「ァ——」
「……なに?」
目下、すぐ下で声がした。明らかに自分が手を乗せているこの吸血鬼からだ。
蓮は手を離し、下に向いたままの顔面を覗こうとして——次の瞬間だった。
「——アアァァァァァァァ————————ッ!!!!」
それは、轟音と表現するほか無かった。声とはもはや呼ばないだろうというレベルだ。その吸血鬼から発せられた巨大な「音」は、物理的な圧力すら携えて二人を襲ったのだ。
美奈はその風圧と呼ぶべき巨大な力に抗う術を持たなかった。その足は簡単に重力の支配下から外れ、その身体ごと後方の壁へと叩きつけられる。
あえなく、彼女はその意識を手放した。
蓮はその様子を始終目にしていながらも、心配の言葉すら発することは出来なかった。
美奈のように吹っ飛ばされたわけではないが、それでも鎖の吸血鬼が発した圧は凄まじい。顔を両腕で庇うようにしながらも、後ずさることを余儀なくされていたのだ。
そして同時に、その吸血鬼は小刻みに体を動かし始めていた。形容するならば、「震えている」——枷を破ろうと、その身体に力を込めているのだ。
「——どういうことだ……⁉︎生きているだけならまだしも、動けるわけがない!」
蓮はやっとのことで驚嘆の声を上げた。しかし、その最中にも鎖の吸血鬼は、さらに信じられないような行動に出る。
いつの間にか、うずくまった姿勢で封印されていたはずの吸血鬼が立ち上がっていた。その両腕に万力をはるかに超えた力を賭し、身を縛る四本の鎖を解かんと、獰猛に唸る。
「アゥゥゥゥゥ——ゥゥゥゥゥ————ッ!!」
その力を前にして、たかが鎖など錆びた鉄牢も良いところだった。銀の効力によりその身が焼けるのも意に介さず、吸血鬼は腕に込める力をさらに増大させていく。
——そして、あっさりと臨界点は突破された。
派手な金属音——もはや鉄骨でも落下したのかというほどの大音声だった——を立て、四本の鎖が砕け散る。
空間の四隅に繋がれていた鉄の蛇は中心の固定を失い、重力や遠心力に翻弄されるまま、ほんの数秒だが這い暴れた。
それと同時に——封印されていた吸血鬼の相貌が完全に露わになる。
「————」
それは、褐色肌の女だった。
おおよそ十代後半から二十代前後だろうか。身長が高く、目線の位置は蓮よりも上だった。
体つきも完全に成熟しており、その肢体は相応の丸みを帯びている。乱れた白髪は臀部付近にまで伸び、荒れ放題だ。
当然と言うべきか、衣服などは一着も身に纏っていない。生まれたままのその身体は、何物にも阻まれることなく外気に触れていた。
——だが、その姿に劣情を催す者など一人としていないだろう。
両腕、両足全て。腹部、へその下あたりまで。胸部は乳房のそれぞれ端あたり。首から上は、鼻より下全て。
それらの部分が、黒く蠢く異形の外殻に包まれていた。
結果的に褐色の肌が見えるのは、目元と胸部腹部の中央くらいのものだ。
その装甲と言うべきその外殻は、脈を打つように刻々と形を変えている。彼女の体の半分以上を包む鎧だが——脈打つその様を見ると、まるで外殻が彼女自身を咀嚼しているようにすら見える。
黒い外殻に四肢を包まれた、褐色肌の女吸血鬼——それが、この場所にただ一人存在した者の正体だった。
「……あり得ない」
蓮はその彼女を見て、溜息を零すように呟いた。
純銀の、それも蓮に傷を負わせるレベルの鎖四本で封じられて、動ける吸血鬼などあるわけがない。
仮に身動ぎくらいは出来たとしても——まさか自力で、その枷を破るなど。
出来るとすれば、それは規格外だ。
少なくとも二級、ともすれば蓮と同じ一級以上の——。
「——ッ、委員長!」
不意に、同伴者の存在を思い出し蓮は後ろを振り返った。
美奈は壁に叩きつけられた際の衝撃で気絶しているものの、流血も無く、大事は無いように思える。蓮は胸を撫で下ろす思いだった。
蓮は決して油断などしていない。美奈への心配と、その結果の安堵はあった。しかし全神経を鎖の——今は解き放たれたが——吸血鬼に向けている。外したのは視線だけだ。
だが——それだけであり、しかしそれだからこそ不味かった。
「——ッ、がぁっ……!」
視線を外しただけ。それだけであり、決して油断はしていない。
吸血鬼の感覚機能は視覚無くして「油断していない」と言えるほどに鋭い。とどのつまり、気を詰めた状態の蓮であってもその攻撃は避けられなかったのだ。
その一撃は、数日前、大口の化物に腕を噛み千切られた時と比べ、何倍もの衝撃を伴っていた。
ただの掌底。
突き詰めれば、蓮を襲ったのはその一点のみである。
ただし、鎖の吸血鬼の腕は異形の外殻によって包まれている。その外殻は恐ろしく硬く強い——未知の物質か、あるいは生物的な何かで構成されていたらしい。
蓮の腹部は、その内部にもはや原型を残さず破壊された。人間であれば即死という傷を負いながら、蓮は天井付近にまで打ち上げられ、奇しくも美奈と同じく後方の壁へと叩きつけられた。
「ウウウウウ——アアァァァァァァァ————ッ!!!!」
鎖の吸血鬼の叫んだそれは、勝鬨の声に近かった。
彼女に、やはり理性は無い。おそらくは同種の臭いに反応したのか、目に付いた生き物を本能に従って攻撃したのか。
ともかく、純銀の鎖で縛られながら立ち上がり、攻撃行動に出るだけで驚きではあるが——流石に正気は失われていたようだった。
「……ああ、クソったれ……」
蓮は口から大量の血を吐きながらも、はっきりとした意識のまま毒づいた。
「——ぶっ殺す」
蓮のその面持ちには、殺意と呼べる感情が満ち満ちていた。体からは怒気が溢れ、未だふらつく足で立ち上がりながら、目線をしっかりと鎖の吸血鬼へと向ける。
——その身体に、異変が起こっていた。
ワイシャツに包まれていたはずの上半身が、その輪郭を瞬く間に変化させ、いつの間にかはだけていた。今の蓮は上半身裸だ。もっとも、高校生ではあり得ないほどに筋骨隆々とした鋼の肉体ではあるが。
それだけでなく、両腕が筋肉という範疇を超えて変質していた。
赤黒い血管が表に浮き出ていて、上腕二頭筋は皮膚を突き破り硬質化する。大口の化物との戦いで見せた、「化物の腕」だ。
更に、それでは止まらない。
下半身が融解するように形を変え、制服のズボンは消えて、代わりに漆黒の肌へと変化し、形を変えていた。その内実は若干の肥大化と硬質化のみで、脚には腕ほどの変化は見られない。
その顔は、風など吹いていないというのに前髪が跳ね上がり、全ての頭髪が後ろへと流れたオールバック姿になっている。
それは紛れもなく、蓮にとって定型の「戦闘形態」だった。
肉体変化能力を持つ吸血鬼が戦闘を行う際、衣服という概念はただの邪魔ものでしか無い。究極、「全裸」というのが蓮にとっての最適解と言える。最低限の四肢の強化くらいはするが——それだけである。
——鎖の吸血鬼は、声も立てずに蓮の瞳を凝視していた。感情は伝わってこない。ただ敵意を向けていた、としか言いようがない。
対して蓮も、その目を見て離さない。そこにあるのは、紛れも無い怒りとそこからくる殺意という感情だ。
闇の中——極限まで肉体として強化された、合計八本の四肢が唸る。
二人が動いたのは示し合わせたわけでも無いというのに、全く同時のタイミングだった。
それぞれ、変化により強化された両の腕を振り上げ。
次の瞬間——火花を散らすほどの勢いで、二人の右腕同士は激突し、戦闘を開始した。