一章 第七話:第三帝国
旧校舎と呼ばれるその建物は、空襲での焼失を免れたため、年数で言えばほぼ百年の時を経たものだった。
黒江峰高校においては、西側に位置する校舎だ。木製の二階建てであり、現在は戦後に建てられた新校舎にその役割を奪われ、ほとんど人も入ることのない場所である。
時には心霊スポットとして扱われることがある程に錆びれている場所だった。
全部で十ある教室のうち、現在でも使われているのはせいぜい二つか三つほどだ。それも、活動内容のはっきりしない文化部や同好会の部室として扱われているのが現実だった。
「本当に、誰もいないのね」
「まだ部活禁止は解かれてないからな」
三時間ほど時は進み、放課後。
蓮と美奈は、人目を忍んでその旧校舎に這入ったところだった。
休校令は解かれたものの、依然生徒には早期帰宅が命じられている。世間では雰囲気はともかく、正式に連続殺人は「解決」と決まったわけではない。
おそらくこの時点で、学校に残っているのは二人の他には教職員と用務員だけだ。
余談だが、美奈が大口の化物と対面した教室もこの旧校舎の中にある。
「でも本当、古臭い建物だ。建築基準法とか、年数的にも大丈夫なのかな」
「もうそろそろ一回建て直すって話なら、職員室で聞いたことあるわよ。実際ほとんど使われてないから、壊したままにするか新しく校舎を建てるかは、意見が割れてるみたい」
「実際、江峰の町も人が減る一方だもんな……新しい校舎は必要ないはずだし」
過疎化の一途を辿る黒江峰では、そもそもの話高校を必要とする子供の絶対数自体が、著しく減りつつある。
その上最近では私立受験が主流なため、江峰市外の進学校に行く高校生も着実に増えていた。
実際黒江峰は何も無い田舎町である上、将来のことを考えるなら、そういう選択は十分に理解出来る。
だが、自身が黒江峰高校に通う身としては、少なくとも蓮は複雑な思いだった。
「と……話してるうちに着いたな」
自らの足が廊下の木板を軋ませる音を聞きながら、蓮は立ち止まり、そう呟いた。
こうして校舎の奥まで来てみると、二階の教室が使われていない理由が分かる気がした。
ただ歩くだけでこれほどまでに床が軋むのだ——この上、階段を昇り降りするというのは、思った以上に勇気のいる行動と言える。増して、それを日常的に繰り返すというのならば。
校舎の入り口から真っ直ぐ歩き、最奥の突き当たり。そこに目的の"昇降"階段はあった。
「本当に下に降りる階段があったんだ……知らなかった」
「つっても、十段も降りる前に塞がれてるな」
確かに見取り図の通り、そこには下へと降りる階段が存在した。
だが、これでは現実には無いも同然だろう。段数で数えるならば、階数一つどころか踊り場にすら達しない位置で、コンクリートがその先を塞いでいる。
「それで、どうするの?またこの間みたいに、その……腕を硬くしたり?」
「いや、この程度なら——」
答えながら蓮は、なんの躊躇もなくその階段に足をかけ、コンクリートで塞がれた場所まで降り立った。
何をするつもりかと、美奈が見ていると——蓮はその右脚を上げ、力と重力に任せてコンクリートを踏み叩いたのだ。
瞬間、長らく放置されていた地下の蓋は、その圧力に耐えることなど望むべくもなく、瞬く間に崩壊する。
「…………んん」
美奈は嘆息するような声を漏らす。
大口の化物を倒した時のように、身体が破壊に向いた形に変化したわけでも無い。古いとはいえそれ相応の厚さであろうコンクリートを破壊したのは、単なる地力と言うほか無かった。
それを見て、美奈は一瞬思考を放棄したものの、次には正確な思考力を取り戻し、慌てて蓮の方へ駆け寄った。
「ちょっと、そんなに派手にやっちゃって大丈夫なの⁉︎」
「だ、大丈夫だって。人はいないし、オッサンにも後始末は頼んだし……」
そう言いながらも、彼にとっても響いた轟音は予想外に大きかったのだろう。蓮の顔には、若干の冷や汗が見えた。
「これもしバレたら停学処分とか……初めての経験なんだけど」
「あのな、忘れてないとは思うけど、付いて来たいって言ったのは委員長だからな……?」
嘆くように言う美奈に、蓮は呆れたようにそう溢すしかなかった。
「ていうか、領場くんって素の状態でこんなに力あるの……?じゃあ体育の時は手を抜いてるってこと?私もみんなも、貴方のことは運動苦手なんだと思ってたのに。ちょくちょく見学もしてるじゃない」
「あ、まあ……見ての通り吸血鬼の怪力っていうやつだよ。体育の時は、僕の正体を隠すって意味もあるけど、それ以前に、ほら、体育でやることはつまらないし……面倒臭いし」
「…………」
学級委員長としてクラスをまとめる立場にある美奈にとって、学業というものを舐め腐った蓮の発言は決して看過できるものではないものの、それを言うべきは今では無いことが理解出来る程度には、美奈は冷静だった。
この件は後で問い詰めようと心に決めつつ、美奈は目の前のことに話題を戻す。
「……それで、道は開けたわけだけど……」
崩れたコンクリートの先、まだ階段は伸びているが——公的には百年放置された地下空間に電気が通っているはずも無く、案の定、見る先は真っ暗だった。
「委員長、携帯持ってる?」
「え?いや、私は学校には持って来てないけど……」
「じゃあ僕のを使って」
蓮はポケットから自分のスマートフォンを取り出し、それから画面を操作し、ライト機能をオンにした。
「やっぱり先は真っ暗だ。進むなら明かりがいる」
「でも、それじゃあ領場くんはどうするの?」
蓮は自分の目を指差した。
「吸血鬼の目は闇がよく見える。全く光のない空間ならそれも駄目だけど、君が近くで懐中電灯を使うなら問題ない」
上級の吸血鬼が持つ感覚機能は、もはや生物のそれを逸脱した機能を持つことさえある。一級の吸血鬼である蓮は、余すことなくその恩恵を受けることが可能だ。
嗅覚も然り、視覚、聴覚——それは夜を生きる吸血鬼の、根底に備わった機能だった。
「よし、這入ろう」
破壊されコンクリートの破片を避けるようにして階段を下ると、いとも容易く目の前は真っ暗に様変わりする。
予想した通り、電気など通っているはずもなく、太陽光が入るような場所も一切存在しない。そこは完全なる、闇の空間だった。
「委員長服引っ張んないで」
「いや……そのだって、怖いじゃない」
「…………」
だったら最初から付いて来るなとも思ったが、それは口に出さずにおいた。
漆黒の闇。
明かりがあったとしても、スマートフォンのライト機能でカバーできる範囲は、せいぜい視界の半分程度だ。それでは、精神上の頼りが少なすぎた。
美奈は格好がつかない思いではあったものの、恥を偲び、蓮の袖元を指で掴みながら彼に同伴することにした。
ホラー映画は別に苦手ではないが……これはリアルだ。
二人は階段を降りると、一旦周りをぐるりと見回した。
天井の高さは五メートルほど。時間の経過によるものか、あたりには塵や埃が溜まっており、二人の足が床についた衝撃で一度あたりに舞い上がった。蓮はそれを直に吸い、何度か咳き込む。
「酷いなこれ。少なくとも今は誰も居ないのか。全く手入れされてない」
ぼやきながら、蓮は美奈の方を振り返った。
「とりあえず真っ直ぐ進もう。あまり色々な方向に行くと戻れなくなる」
「うん。私は前を照らしてれば良いの?」
美奈の言葉に、蓮は頷きを返した。
二人はそうして、地下空間の探索を開始した。
地下は、奇妙なほどに静かだった。聞こえるのは二人の足音が反響する音と、時たま床に落ちている石や破片などを蹴り、転がる音のみ。
「百年も前からあるとは思えないな……」
地下空間の中は、そのあらゆる場所がコンクリートで舗装されていた。百年前の、しかも途中で破棄されたはずの空間ではあり得ないことだ。
そこには明らかに、人の手の痕跡がある。
「何かが居たってことだ、つまり」
「何か、って……」
「今回の黒幕——『謎の化物集団』、ってところだと思う」
すでに蓮は吸血鬼の感覚機能に神経を集中させ、その全てを最大限活用している。が、今のところ二人の他に何かがある気配は察知できない。
いるのはネズミや虫など、気持ちが悪いものの、さして害のない物ばかりだった。
しかし、少なくとも百年前に廃棄されたまま放置が続いたわけではないのだろう。
そもそも、都心近くならまだしも、こんな田舎町に百年も前に作られた空間が全面コンクリート舗装などされているはずがない。
この場所には、少なくとも戦後以降の技術の跡が見て取れた。
蓮の推理通り、やはりこの地下空間は廃棄された施設らしい。
今は使われていなくとも——過去には、何者かがここに居たのだ。
「……ねえ、領場くん。ここ、広すぎない?」
十分ほど歩いた頃、美奈が蓮にそう声をかける。蓮は言葉こそ返さなかったが、首肯を返した。
この空間は広すぎる。
仮に商業施設として作られたのであれば、その広さはせいぜいが学校の面積にすら及ばないはずだ。しかし、今まで歩いた距離を考えれば、既に二人のいる位置は学校の敷地などとっくの昔に超えていることになる。
方角を考えると、あと五分も歩けば中江峰に差し掛かる。
「元々あったところから、さらに増築されてるってことか……?」
だとすれば、敵の規模は蓮が想像したよりもはるかに大きいことになる。
地下を拡張する技術。それを町民誰一人に悟らせず遂行する秘匿力。さらには、こんな大空洞が百年もの間人の目に触れて居ないというのも、なんらかの隠蔽工作を疑うべきだろう。
明らかにそれは、単なる「集団」ごときに可能なことではない。
敵は「組織」だ。それも高度な統率の取れた、例えるならば、軍隊のような——。
そうしているうちに、二人はさらに深部へと足を踏み入れる。
風も通らぬ地面の下でありながら、「そのエリア」に入った瞬間に、二人はひやりとした何かを感じた。
「————」
蓮は、この感覚が"死の匂い"なのだと気付いた。
暴力、血、拷問——あらゆる「死」に繋がる概念が、混じり合い作り出している空気が、今感じているモノなのだと。
美奈も漠然とではあるが、その感覚を感じる。つい最近まで平和な人間の世を過ごした彼女にとって、その匂いは生物としての本能のみで嗅ぎ取ったに他ならなかった。
ひた、というどこかで水が落ちる音。
それと、時たま響く石ころを蹴飛ばす音——、
「……ねえ、石多くない?」
「なに?」
「ここ、何年も使われてない地下でしょ?どうしてこんなに石を蹴るの?」
美奈の言う通りだった。それこそ百年前から一度として手をつけられていないのならまだしも、ここまで舗装のされている場所では、石片は少ないはずだ。
あるとしても、壁際などだろうが——二人が歩いているのは終始、入り口から真っ直ぐ真ん中だけである。
「……確かにちょっとおかしいな」
蓮はそう言いながら、足元にあった一つの石片を拾い上げた。
その石片は白く、掌ほどの大きさのものだった。僅かに表面は荒れているが——少なくともコンクリートではない。
「……ッ!」
蓮はその正体に一瞬で気が付いた。そして気付いたと同時に、一度はその手に触れた石片を反射的に投げ捨てる。その挙動は、暗闇の中自分が握っているのか動物の糞であること気付いたような、明らかな不快感によるものだった。
カラン、と軽い音が響いた。その蓮の様子に、美奈は焦りを覚えながら尋ねた。
「何?なんなの?」
「骨だ」
蓮は不快感に表情を歪めながら、そう答える。
「人間の骨だ。今拾ったのだけじゃない、周りに落ちてるの全部!」
美奈はその答えを聞くなり、顔を青くしてライトを周りに向けた。
二人の周辺には、大量の白い石片が転がっていた。大きさも姿形も様々で、その内のいくつかに目を向けるうち——美奈は発見してしまった。
丸みを帯びた纏まった物体。真ん中には二つの大きな穴と、少し下に細長い穴。そしてその下には、無数の細かく分かれた、歯が並び。
それはあからさまなほどに分かりやすい。
転がっていたのは、ほとんど形を失っていない、人間の頭蓋骨に他ならなかった。
「ひっ——!」
美奈は悲鳴をあげ、咄嗟に蓮に身を預けるように抱きついた。
その感触に蓮は一瞬だけ、どぎまぎとした感覚を覚えたものの、しかし身を包む不快感はすぐさまに彼の脳を平静へと振り戻す。
「ど……どういうことなの?あれ本物?」
「本物だ。間違いない——くそ、尋常じゃないぞ」
蓮は吸血鬼だ。
それは人間と深く関わることにより生を繋ぎ、人間によって生まれ落ちた彼だからこそ分かることだった。それが紛うことなき本物の人骨であると——判別など容易い。
「見える?委員長」
「え……?」
「右に明かりを向けて」
美奈はまだ混乱していたが、しかし蓮の言う通りに、スマホを持つ手を右方向へ向けた。
それは、前ばかり照らして進んでいた彼女には気付きようも無いことだったが——二人はすでに異常な空間に居たのだ。
どこから始まっていたのか。
蓮と美奈が歩いてきた道の、その左右。壁があるべきその位置にあったのは——鉄格子だった。
「何これ——」
美奈は当惑の声をあげる。
二人が歩く地下道は、無数の牢屋に挟まれていたのだ。五メートルほどの長さおきに柱が挟まり、また次の牢が続く。
さながらそこは、監獄のようだった。鉄格子の中にはすでに何者も存在しないが、しかし少なくとも、過去に何者かが囚われていたことは疑いようもない。
よく目を凝らせば、あたりに転がっているのは骨だけでなく、鎖なども含まれていた。それらの多くは錆びれているが、しかし形は保っている以上、そこまで昔のものでは無いのだろう。
無数の牢屋。そして、無造作に転がる人骨。
もはや明確だった。
この場所には化物がいた。
軍団という規模の、化物の集団が存在したのだ。
一体何の用途で使われたのか、また、一体何が囚われていたのかも分からないが——牢。
そして、あたりに転がる大量の白骨。さらには、蓮の嗅覚が嗅ぎ取った錆び古された腐臭。
それはこの場で行われたであろう、残虐な行為の証明でもある。
蓮には、この場所がどのような役割を担う施設だったのか、薄々だが分かりつつあった。
「実験場か、拷問場か——あるいはその両方か……?」
「それが……この場所の意義だって言うの?」
美奈は不安を極めた声音で、そう尋ねた。
蓮にも確かなことは言えない。だが、この地下空間の様相と、今なお色濃く残る化物の気配を鑑みると、妥当なのはそのあたりだ。
——いかにここが現代日本の田舎町であっても、ここまで揃えば、多少突飛な考え方をするしかない。
「でも、じゃあ、私達こんなところにいて大丈夫なの……?」
「少なくとも今は周りに化物の気配はしないよ。やっぱりここは既に捨てられてるんだと思う」
残念ながらそれを聞いて、しかし「なら良かった」となるような状況では無かった。
ともかく二人は、また足を進めるしかなかった。
この場所が過去のものだと分かった以上、ならば成果が必要だ。おそらくはこの町の別の場所に潜んでいるであろう「化物達」に関して、何らかの情報を掴まなくては。
幸か不幸か——空間にはまだ先があった。
ひたりと、水音と足音。そして床に落ちる骨を蹴飛ばす音。響くのはそれらの周囲の音だけであって、二人は一言も喋らない。
美奈はもはや、大口の化物と対面した時以上の恐怖に身を包まれていた。
頼れるのはいつ充電が切れるやも知れないスマートフォンのライトの光と、右手の先から伝わる蓮の温もりのみ。
それは、理屈の上では十分な安らぎたり得るのかも知れないが——しかし理屈と感情はまるで離れて動くものだ。
蓮には恐怖心こそ存在しない。吸血鬼の並外れた感覚機能によって、彼の周りは闇ではなくなっている。
しかし、その代わりに不快な感覚は倍増されて感じられた。
——ひたりと、足音が響く。
二人が歩いた時間は、既に半刻を超えていた。それでもなお道は続く——位置を考えるならば、江峰市の中心部すら通り過ぎているはずだ。
迷う危険性を回避するために、無視した横道は十や二十では済まない。この地下空間はもはや、江峰全体に渡る巨大な地下迷宮とすら言えるだろう。
——そして。
二人は、決定的なものを目にすることになる。
唐突に"それ"は、二人の目の前に出現した。あるはずのない空間を真っ直ぐ歩き続け、ようやく行き止まりへと突き当たった時だった。
ずっと前に開けていた空間に、ようやく終わりが訪れたのだ。広大な空間の端に、二人は辿り着いた。
しかし、行き当たったその壁は、ただコンクリートで舗装されただけのものではなく——塗装がされていた。
「————」
普段そのマークを見たなら、趣味道楽の類の装飾としてなんら驚きには値しなかったかも知れない。
だが、この時この場所だ——血と死の残り香が立ち込める、この空間でそれを発見してしまっては、真実味を認めざるを得ない。
「——マジか?」
蓮は、呟いた。美奈も声は出さなかったが、同じことを思っていた。
それの呼び方は様々だ。
鉤十字。ハーケンクロイツ。正式な名称としてはこれらだが——分かりやすく言うならば、ナチスマーク。
壁に記されていたのは七十年前に暴挙の限りを尽くした「最悪の軍隊」——"ナチスドイツ"を示すマークだった。