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フリークス:オリジン  作者: オセロット
一章 レンフィールドの憂楽
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一章 第五話:吸血鬼

 淡々と時間だけが流れる空間。その澱んだ黒々とした空間の中から浮上するように、美奈の意識は覚醒した。


 目を開け、自分の意識の存在を確かめるとともに、美奈は勢いよく身体を起こす。すると、身体にかけられていた掛け布団がベッドの上からずり落ちた。


 どうやら自分はベッドの上に寝かされていたようで、しかもかなり人への気遣いというものが感じられる寝かせ方だという事が分かるくらいには、美奈の頭は冷静だった。


「……ここは……?」


 ずり落ちた掛け布団を拾いながら、美奈はベッドから降りて自分の足で立った。寝起きという状態にあるため、目が霞んで周囲がよく見えない。自分の状況をとりあえず確認するために、美奈は目を擦った。


 すると——突然目の前に、ピエロの顔が現れる。


「っ……⁉︎」


 それは無機質な、道化師を模った仮面だった。シンプルなデザインである事が、逆に無生物の不気味さを際立たせている。


 美奈は驚きの声を上げ、数歩後ずさった。

 そうして見てみると、ピエロの仮面は部屋の壁に掛けられた装飾品なのだと分かる。この部屋にはその仮面一点以外に装飾品の無かったので、ピエロは一際異彩を放っていた。


「起きたね」


 視界と意識の外から投げかけられた声に、美奈はびくりと肩を震わせ、振り返った。


「領場くん……?」


 視線の先には、木製の椅子に座ってこちらを見る蓮がいた。


 が——、


「何、これ」


 蓮との間には三メートルほどの距離がある。二、三歩足を進めれば彼に抱きつくことも可能な距離のはずが、しかし、現実には一メートル進むのも不可能だ。


 冷たく二人の間を隔てる何本もの鉄棒が、そこにはあった。


「鉄格子……?何なのよ、これ」


「一つ弁明しておくと、そこに君を入れることを考えたのは僕じゃないからな。それとそんな部屋が家にあるのも、僕の趣味じゃない。設計したのも作ったのも別のやつだ」


「いや、そうじゃなくて……ここ、領場くんの家?」


 辺りを見回しながら、美奈はそう尋ねた。

 鉄格子という異質な要素こそあるものの、そこは白い壁紙に囲まれた普通の部屋だった。家具はベッド一つのみに、装飾の類も壁に掛けられたピエロの面だけだが。


「私が気絶してる間に、運び込まれたってこと……?ていうか、私、どうして気を失ってたの?」


「その、僕の知り合いが後ろからガツンと……その件に関しては本当にごめん」


「知り合い?」


「後で紹介するよ」


 言いながら、蓮はいつのまに取り出したのか、鉄格子越しに美奈にコップを差し出して来た。


「……(ぬる)いわ」


「……人並みに出された茶の感想くらい言えるのな。案外元気そうで何よりだよ」

 

 そう言われて、美奈は乾いた笑みを漏らした。実際元気というのは間違っていない。あまりにあり得ない出来事に遭遇したからなのか、それとも一度眠ったからなのか、頭は驚くほど冷静だった。

 ともかく、美奈は受け取ったコップを口につけ、中身を一気に飲み干した。事実、体が水分を欲しているのは確かだった。


 蓮にコップを返しながら、美奈は考える。


 疑問が多すぎた。

 訊きたい事が多すぎる——何から質問すればいいのか、残念ながら吟味できるような余裕のある量ではない。


 半ば仕方なしという風に、美奈は最初に思い当たった疑問を口にした。


「なんで私は、こんな牢屋に閉じ込められてるの?」


「君に逃げられずに話を聞いてもらうためだ。僕はここまでする必要があるとは思えないけど、念には念をってことで……心配しなくても、話さえ終わればきちんと帰すよ」


「話って、どういうこと?」


「僕について……僕と、あの化物について。君にきちんと知ってもらう必要がある。じゃなきゃ、本当に困ったことになるんだ」


 ともすれば、こうして化物(、、)について話すことは美奈の傷を抉り返すような真似なのかも知れない。


 彼女はあの大口の化物に両親を殺されている。その元凶が死に絶える様は、彼女自身の目でも確かに見ていたものだったが、広義において、あの光景はトラウマと呼ばれることになりかねないものだ。


 その蓮の逡巡を察したのだろう、美奈ははっきりと言った。


「大丈夫よ」


 美奈は蓮が思うよりも、遥かに気丈だった。あるいはその気丈さが、既に狂気の具象である可能性も否定は出来ないが。


「私は大丈夫。きちんと聞けるから」


「……じゃあ、分かった。話すけど、君の方から質問してくれるかな。そっちの方がやりやすい」


 美奈は少しの間言葉を選び、それから口を開いた。


「あの化物は——何なの?あれは、夢じゃ無いのよね?」


「……あの大口の化物は、ただの屍肉喰らい——吸血鬼もどきだよ。僕はあの化物とはかけ離れてる。れっきとした吸血鬼だ」


「……吸血鬼」


 それはこの場において最も簡潔で、かつ単一な事実だった。

 しかしそれでも美奈は、若干に目を伏せながら、遠慮がちに苦笑いのような笑みを浮かべる。


「それは……私はまだ、正直に言って信じられてないんだけど——あの光景を見ても、まだ」


「……そうか。そりゃ、まあそうだよな。確たる証拠を見せられたくらいじゃ到底信じられない、荒唐無稽な話だ」


 蓮はそう言いながら、椅子から立ち上がったかと思うと、おもむろに鉄格子を一本掴んだ。すると鉄棒に絡まった五本の指のうち、人差し指が輪郭を崩し——たちまちに、そこから蝙蝠のような羽が出現した。


 美奈してみれば、当然理解を超えた光景だ。


「僕は人間じゃ無い。吸血鬼だ」


「……吸血鬼って、太陽が苦手なあのバンパイアのことで良いのよね。御伽噺の、化物」


「その認識は正しいけど正しく無い——僕は確かにここにいる。僕等は実在する。多種多様な——この世には化物が実在するんだよ」


 「化物」と、そう呼ばれる者たち。

 人間の世界であっても、異物は存在する。


「そもそも化物ってのは——まあ、何だろうな。人間の別種って言うのか。大なり小なり、人間と違う部分を持つ、人間のような存在」


 多種多様な、人間に似通った別種。

 いわばこの地球上の知られざる知的生命の多様性である。


「……しっかし、人間が化物に関わり合いになるってだけで相当可哀想な事案だけど、最初に巻き込まれるのが吸血鬼とか。不幸極まってるな」


「不幸——って、領場くんから見て、私が?」


「不穏かな、どっちかと言うと。化物なんて本来、知るようなもんじゃない。増して吸血鬼だ。自分で言うのも何だけど、化物の王様だよ——知名度的にも、単純な力で考えても」


 蓮は鉄格子から二、三歩後ろに下がり、おもむろに左手で自分の口元を覆い隠した。それと同時に、右の手を真っ直ぐに伸ばし、美奈の方へと向ける。


「……っ!」


 示された手のひらに存在する怪異を目の当たりにし、美奈は息を呑む。

 蓮の右手には、左手で隠された場所にあるはずの、「口」が存在していたのだ。そこにはびっしりと——鋭い牙が生えている。


「吸血鬼は化物の王様だ。化物の中にだって、僕らに敵う種族は存在しない」


 「口」が動き、言葉を吐き出す。


「一概には言えないけど、化物と関わって幸せになったヤツなんて聞いたことはない。こればっかりはご愁傷様としか言えないね」


「……その話し方(、、、)、やめて。凄くその、気が散るわ」


 言われると、蓮は素直に右手を引っ込めた。気が散ると言う表現でも、どうやら美奈は随分と気を使ったのだろう。気まずさと気色悪さが、その表情にはありありと見て取れた。


「……多種多様って言ったけど、具体的にどこからどこまで吸血鬼なの?」


 蓮の格好が、少なくとも格好だけは人間の形に戻ったところで、美奈は話を無理矢理に戻した。


「定義としての吸血鬼の特色なら、ある程度の不死性ってところかな」


「不死性?」

 

「僕なんか、腕を千切られても元に戻ったろ。あんな感じで、死ぬ要素が他より遥かに少ないんだ。死っていう概念を、人間と一緒に考えない方が良い」


 吸血鬼は不死身の化物である——というのは、現代でバンパイア伝説を語るのには欠かせない情報だ。

 不死性、という言葉は的を射ていると、美奈は感じた。


「……他は?」


「生きるために他の生き物の血が必要なこととか……あとは力が強いとか。別に太陽に弱いことが絶対条件ってわけじゃない。まあ、ほとんどの吸血鬼は日に当たると死ぬけど」


「それじゃあ、領場くんは上級な吸血鬼ってことなの?」


 こと蓮に関して言えば、太陽に当たったからと言って、死ぬことはない。それは今までの学校生活が証明している。

 逆にその事実が、領場蓮という個人を吸血鬼のイメージから遠ざけているのだが。


「まあ——それなりには。太陽の下で死ぬってことは無いし」


 と、曖昧に言葉を濁し、蓮は説明を続ける。


 吸血鬼は、その内側ですらあまりに特徴が多様であるため、一から六級の六つ、暫定的なランク分けが存在する。


 第一級の吸血鬼は名実ともに最上位の化物だ。主に「殺せるか」「殺せないか」の視野で考える場合、この世のあらゆる生物は彼らに太刀打ちできない。

 逆に六級は、人間に多少の不死性と力強さが足された程度であり、場合によってはライオンやゴリラなどの猛獣に負けかねないレベルだ。


「太陽が平気なのは二級と一級、それから六級だな。それ以外はみんな、日光を浴びると体が燃えて朽ち果てる」


「一級二級の二つは、上級って事らしいし理屈としては分かるけど……最下位の六級はどうして太陽が平気なの?」


「単純な話、六級はそもそも、『太陽に弱いという特徴』すら無い出来損ないなんだよ……吸血鬼もどき(、、、、、、)なんだ」


 吸血鬼に変化する途中の、化物でも人間でも無い不完全な存在。なんらかの形で——例えば血を吸われるなどして——人間が半端に吸血鬼に姿を変えた、出来損ないだ。


「六級のあの大口の化物に関しては、だから元々の戸籍——顔と名前があるはずなんだ。僕は結局、本来の顔を見ることはなかったけど……」


安藤貴和(あんどうきわ)


「……え?」


 唐突に聞き馴染みのない個人名を出され、蓮は鼻白み訊き返した。


「そいつの名前は……安藤貴和。高校の用務員で、私のちょっとした知り合いだった」


「…………」


 美奈と「犯人」の思いもよらぬ繋がりに蓮は素直に驚いたものの、その人間関係の詳細を問うことはしなかった。必要のない情報である上——今、美奈は感情を必死に押し留めて喋っていることが明らかだったからだ。


「……その、委員長はどうやって『犯人』——その安藤って女に辿り着いたんだ?僕は道で君に会ったとき、ただの人間の君に犯人が分かるはずが無いって思って放置したんだけど」


「付け爪よ」


「付け爪?」


「彼女が使っていた付け爪が、両親の寝室に落ちていた。珍しい種類だったから、覚えてたのよ——」


 たった一枚の付け爪が警察の捜査を逃れた理由の一つは、美奈の両親が彼女の家の庭で殺されていたことだろう。そこが事件の発覚場所でもある。

 しかし美奈は、その夜も自分の両親がいつも通り、寝室で眠っていたことを知っていた。


 警察は、その日の夜に被害者の二人が寝室で寝ていたことは知らない。

 というのも、美奈は警察の質問にに一言たりとも答えていないからだ。警察は警察で、ショックによるものだと同情し、強引に聴取を行うことはしなかった。


 二つ目の理由は、落ちていた付け爪が、美奈の母親が使っていたものと全く同じだったことだ。


 仮に警察が寝室で付け爪を見つけていたとしても、母親の部屋に同じ型の付け爪があることが分かれば、無視されていただろう。


「でも、付け爪が落ちてるのはおかしいのよ。お母さん、一年前に手を怪我してから、面倒臭がって一度も付け爪付けてないんだもん」


「……ってことは、使用済みのが落ちてるなら別の誰かのものってことか」


「そう。それで思い出したの。用務員の安藤さんも、同じ付け爪を使ってたこと」


 その全くの偶然から犯人を特定してしまった美奈は、いてもたってもいられずに家を飛び出したのだろう。あの時すでに、彼女は犯人探しではなく、犯人を問い詰めに行くつもりだったのだ。


 それに用務員なら、蓮が学校にいた間は臭いが感じ取れなかったことにも説明がつく。


 校内の清掃を担当する用務員は、午後から仕事をする。四時間目の授業が終わった時点で学校を出ていた蓮は、犯人とすれ違いもしていなかったということだ。


「……で、領場くんの方はどうやって安藤さ……『犯人』を探したの?」


「ん——いや、同種の吸血鬼には独特の臭いってものがあるんだ。それを辿ったってだけで、探偵みたいなことはこれっぽっちも」


 この事件の犯人が人間ではなく「化物」であるということを、蓮はほとんど最初から分かっていた。


 日本の警察の捜査能力は世界最高水準にある。あれだけ大きな痕跡を残せば、しかもそんなことを数度も繰り返せば、犯人はさっさと逮捕されているはずだ。

 そうなっていないということは、「犯人」はただの人間では無い事を意味する。 であれば自然、化物が関わっていると考える。


 そして化物の中でも、あからさまに「喰らう」などという方法で人間を害するのは、吸血鬼くらいのものだ。


「……六級は、吸血鬼の中でも五パーセントいるかいないかなんだ。そもそも太陽を弱点としない一、二、六級は、三つ合わせて全体の一割くらいしかいない。だから今回の犯人も、普通に太陽を避けてるものだと思ってたんだが……」


「そうじゃ無かったから、私はあんな危険に身を晒すことになったってことね。それを、領場くんが助けてくれた……」


 美奈はそう言うと、改めて蓮の目をしっかりと見据え、そして頭を下げた。


「お礼をちゃんと言ってなかったわよね。——私を助けてくれてありがとう」


「い……や」


 素直な感謝というものは、どんな場合においてもそれをされる人間に照れを生むものだ。蓮もその例には漏れず、言葉に詰まることとなった。


「僕は……その、あいつを始末するのは僕の義務だったんだ。吸血鬼を相手取ることが出来るのは、同じ吸血鬼くらいのものだから」


「……同じ吸血鬼って、吸血鬼とは別にもこの町には、その『化物』がいるの?」


「ああ、うん。僕が知る限りでは五人くらいかな……狼男とか、そういうのだよ。みんな上手く隠れて、平和に暮らしてる」


「隠れて——るの?」


 美奈の疑問は、ある意味当然だ。


 聞いていた限りでは、化物という存在は人間の上位に立つことはあっても格下ということはないらしい。その彼らが、この世界で広く認知されていない理由として、「人間から隠れている」というのはいささか予想外のものだった。


「……誰が何と言おうと、この世界は人間の世界だよ」


 蓮は答える。


「化物と呼ばれる連中は数で考えれば人類の一割も存在しない」


「一割……」


「要するに、結局化物は人間になんて敵わないんだ。もし化物という存在が世界に露呈して、『みんなで化物を世界から排除しましょう』ということになったら、それで化物は絶滅してしまう」


「化物と人間が……仮に、戦争をしたら、人間が勝つってこと?」


「昔ならいざ知らず、だけどな。今は科学技術が発展してるから。結局のところ、核爆弾に勝てる化物なんて一人たりとも居ないってことだよ」


 そもそも、人間よりも完全に優秀な化物というのも吸血鬼、それも上級の者くらいだ。他は弱点を突かれれば負ける。太陽に弱い吸血鬼が昼間は屋根の下に引きこもっているならば、その家屋ごとプラスチック爆弾でも持ってきて壊してしまえば済む話だ。


 それに加え、今の時代、ネットやSNSなどで簡単に情報が拡散する。

 化物は今まで以上にボロを出すわけにはいかなくなっていた。


「あの大口の化物はそこを完全にはき違えていた。吸血鬼の万能感——それだけに酔いしれて、この世界の現実を知ろうともしてなかったんだ」


 いくら六級の糞畜生とは言え、吸血鬼の末端である以上、人間と比較すればその力は凄まじい。それ故に、あの化物の胸中は傲慢な万能感で埋め尽くされていたのだろう。

 もう少し長く生きれば、いやでも自分の身の丈を知ったのだろうが——その前に看過できない狼藉を繰り返した挙句、他の吸血鬼と対峙したことは、不幸としか言えなかった。


 『人間は吸血鬼の餌だ』。

 しかして、この世界は人間の世界(、、、、、、、、、、)である(、、、)。それを理解しない化物は必ず身を滅ぼすことになる。


「……そういえば、領場くんは何級の吸血鬼なの?」


「え?」


 唐突な質問に、蓮は思わず訊き返した。


「だから、明確なランク分けがあるんでしょ?領場くんはどれくらいに位置するの?」


「えっ、と……僕は」


 一見なんでもないような質問に、しかし蓮は答えたくなさそうに言い澱むばかりだった。 その様子に、美奈は違和感を覚える。


「一級だ」


 答えを表したその声は、しかし明らかに蓮のものでは無かった。

 声変わりもすでに終えている彼の声ではなく、もっと年老いた、それでいて渋いような男声だ——その声は美奈のすぐ隣、つまりは鉄格子の内側から聞こえていた。


「その小僧は一級の吸血鬼だと言っている」


 声はなおも続ける。しかし、目を見張ったところでそこには誰一人いなかった——否。


 ——その声は、壁に掛けられたピエロの仮面から出ている。

 スピーカのような機械質の声でもなく、明らかな肉声だった。


「なっ、何……?」


 有り得ざるその怪奇を目の当たりにし、美奈は反射的にそのピエロから遠ざかるように足を動かした。そこには、下手をすれば大口の化物と対面した時以上の怯えがある。


 だが蓮の反応は、丸っ切り美奈とは違うものだった。


「……そこで何してるんだ?オッサン」


 馴染みのご近所にでも話しかけるようなその口調を耳にして、美奈は蓮にも懐疑の視線を向けた。

 だが、その視線はすぐに壁のピエロに戻された。そしてそのまま釘付けになる。


 ——壁が盛り上がっていた。


 真白い壁紙に突如、墨のような黒い部分が現れ始める。それを合図のように、黒く変色した部分が歪み、平面から立体へと変化を始めたのだ。


 押し出されるように白い壁から現れた「黒」。

 それは瞬く間に、壁から切り離され床に落ちた。


 全てはピエロの面を中心に起こったことだった。


「いや何の演出だよ……」


 呆れたような蓮の言葉を横耳に、美奈の視線は壁からこぼれ落ちた「黒」に向いたままだ。


 直径一メートルほどだった歪なそれは、またも輪郭を変え始めていた。

 左右に二本ずつ突起のようなものが現れる。かと思うと、合計四本のそれはすぐさま形と大きさを変えて——"人間の手足"となった。

 

 五本の指、整った形。

 四肢が揃ったその「黒」は、次にはその足で立ち上がり——見る間に、人間の形が出来上がっていた。


「————」


 美奈は絶句する。

 元は壁にかかったただの装飾品だったはずのそれは、今やピエロの仮面を被った黒装束の人間へと早変わりしていた。


「……あー、紹介するよ委員長。そのオッサンは——」


「ホルムウッド」


 蓮の言葉を遮りながら、そのピエロは言った。


「俺はホルムウッド。一応はこの小僧の——親だ」


「……親」


 美奈を見下ろすその仮面の奥——二つの穴からは、確かに人間のものと思われる双眸が覗いていた。


 その男は、蓮とは違いかなり飄々とした雰囲気を醸している。口調からは概ね真面目な感触というものが一切感じられず、美奈はただただ、これまでの緊張感のある会話と雰囲気とのギャップに戸惑うばかりだった。


「えっと、だな……そのオッサンが、一応君を気絶させた張本人で。その件に関しては身内のやったことだし、謝罪をさせて欲しいんだけれど」


「この人が……?」


 美奈は、目の前の男の姿を見回した。

 足元から頭まですっぽりと黒装束に覆われ、肌や頭髪は一切が見えていない。ただ一点、顔面部のピエロの仮面だけが異質だった。


「えっと……この人も吸血鬼ってこと?」


「まあ、うん」


 ホルムウッドと名乗ったそのピエロは、蓮は言わずもがな、あの大口の化物すら凌駕するほどの異物感に包まれていた。

 どこから着るのか分からない、全身を覆う黒装束。足元はその裾で隠れ、唯一見えるはずの手も黒の手袋で覆われていた。


「つーか、あんたは何やってたんだよ。いざ説得始めようとしたら居なくなりやがって」


 美奈が何を言うべきかと惑っていると、蓮が溜息交じりにそう言った。


「俺は俺で、お前の説得がきちんと出来てるか見張らなきゃだろう。それが失敗すれば俺どころか、この町全体に飛び火するんだからな」


「……まあ、それはそうだけど」


「……あの……えっと、待って、説得って何のこと?」


 ようやく、躊躇いがちに美奈は再び蓮に声をかける。


「私は、今までのことを教えてもらえるつもりで聞いてたんだけど……」


「いやそれで合ってるんだけどさ……一つだけこっちから、お願いを聞いてもらわなきゃ困るんだよ」


 そう言った蓮の顔は、さも億劫という風だった。彼の親を名乗るホルムウッドの登場によるものなのか、それとも他の理由のためなのかは美奈には分からないが。


 美奈はひとまず、乱入者の存在をさて置き、蓮との話に集中することを決めた。


「お願いって……何なの?」


「僕らのこと——僕のことだけじゃない、この世に化物が実在するという事実を口外しないでほしい」


 いつになく真摯な瞳で、蓮は続けた。


「さっき話したように、世界に化物が存在すると知れ渡ると困るんだ。本物の魔女狩りが始まりかねない」


 化物の存在を知る人間は、世界にごく少数存在する。それは政治機関の上層部や教会の人間など、一握りでしかない。

 彼らの中には、化物の存続など望まない人間も少なくないが——それでも、化物の実在を世界に広めようとはしない。


 もし世界に事が知れれば、被害を被るのは化物だけではないからだ。

 当然のことながら一般市民は疑心暗鬼のパニックに陥るだろうし、政治家や民間企業には化物を利用しようという者も必ず現れ始める。


 化物が居ないことにされているのは、即ち、この世界そのものの秩序のためなのだ。


「僕が人間じゃ無いということはもちろん——化物が実在すること。このことを、決して口外しないと誓ってほしい」


「口外無用の……約束ってことね」


「ああ。大袈裟な事を言えば、世界のバランスのために——身近なら、僕の安穏な生活のために」


「分かった」


 迷う余地などない。美奈はすぐに首を縦に振った。


「絶対に誰にも言わない。……両親に誓うわ」


 それは間違いなく本心からの誓いだった。偽りの余地など無い。そもそも、例え化物の存在が世に知れ渡ったとして、美奈に得と呼べるものなど無い以上、言われるまでも無いことだ。


 その誓いの固さは、疑いようも無い——それは美奈の主観からも、そして客観からも、かなり確かだった。


 蓮は安堵の息を漏らす。

 この場面で緊張に囚われていたのは蓮にしても同じ事だ。美奈も薄々察していたが、この交渉、説得が上手く行かなければ、彼は最悪の場合、クラスメイトをその手にかける判断すら迫られていた。それほどに重大な、これは約束だった。


 一方——ホルムウッドは、用は終わったとばかりに美奈の側から離れる。そのまま鉄格子の方へ歩き——そのままに、鉄格子にその身体全体を押し付け、するりと牢屋の外へと脱出した。


「……⁉︎」


 すり抜けた(、、、、、)、としか言いようがない。その体を阻むはずの鉄格子は、なんら役割を果たさずに、ホルムウッドの身体はするりと牢の外へと抜けたのだ。


 短時間にあまりに多くの怪異に触れ、感覚が麻痺していた美奈だが、流石にこれには目を見張る。絶対であるはずの物理的な法則を完全に無視した光景が、そこにはあった。


「ど、どういうこと……⁉︎」


 美奈はホルムウッドを指差しながら、蓮の方を向いて尋ねた。


「考えない方が良いよ、僕以上に常識から外れた人だから……。それより、これで僕の方から話したいことは終わったんだけど、委員長の方は?まだ解決してない疑問とか、ある?」


「えっ……と、大方のことは納得というか、頭では——理解出来たわ。心の奥底まで納得出来たなんてことは、私自身保証できないけど……」


「それは、そうだと思うよ。信じられなくても良い。僕としては、『お願い』さえ守ってくれればそれで」


 この牢の中から外の時刻は分からない。だが、経過した時間の感覚と、あたりを取り巻く終息の雰囲気が、蓮からの話はこれで終わりだと言うことを知らせていた。


 美奈はともかく、一息をつく。

 思えばこの身を取り巻く異常な状況の数々は、一週間前から始まっていた。その七日分の、肉体精神を問わない疲労が一気に表面化したのを感じ、美奈はもう一度深く息を吐いた。


「えっと……話は終わったのよね。だったら、この鉄格子の鍵を開けてくれるの?」


 美奈は、外界と自分の身を隔てる鉄格子に備え付けられた扉を見ながら、そう尋ねた。すると蓮は、肩をすくめて答える。


「最初から鍵なんてかかってないよ。出たければ普通に出れる。……この状況で鍵まで閉めてたら、本当に僕がやばいやつだからな」


 言われた通り、鉄格子の扉は取っ手を掴んで押すと、何ら抵抗もなく開いた。拍子抜けしたような気分になり、美奈はため息をつく。


「今更だけど、無理矢理連れこむような形で悪かった」


「そんなのは今更良いけど……外に出るにはどうすれば良いの?」


「そこを左に曲がると階段があるから、登れば……いや、送るよ。外はもう暗いし」


 言いながら蓮は、立ち上がった。


「……学校、休みになったって言ってたわよね」


「ん?ああ……とりあえず三日間。事件は解決したし、今後変わったことがなければ、すぐ再開されると思うけど、どうせすぐにゴールデンウィークだからな」


「三日後には私、学校に行く」


 美奈は蓮の方を振り返って、そう言った。


「私を助けてくれてありがとう、領場くん。これから——仲良くしてくれると、嬉しいわ」





「——夜道を送るってのは、正しい判断だ」


 美奈を彼女の家にまで送り届け、蓮が自宅の玄関をくぐった時だった。

 見上げると、そこにはピエロの仮面を付けた黒衣の男が、天井に張り付く形で二人を見下ろしていた。

 ホルムウッドだ。


「済んだと思うなよ。お前らが無理矢理に解決したあの殺人事件も、まだ不可解な所は残るだろう」


「……オッサン?」


「十中八九、続き(、、)がある。六級のゴミを一人片付けたくらいで終わったつもりになるな」


 ホルムウッドは重力の存在を無視したままに、ピクリとも動かずに続ける。


「あの大口は、殺人事件の実行犯ではあるんだろう。だが計画したのは別の奴だ。俺も裏から事件を調べてはいたが、不自然な点が多すぎる」


「不自然、って……」


「色々とな。一つ分かりやすいので言えば——吸血鬼の万能感に酔っただけの馬鹿が、毎日きっかり午前零時に食事を繰り返すなんて事をするか?」


 大口の化物の食事という概念については、理知的な人間というより食欲に支配された獣と考えた方が正確だ。腹が減れば食う。そこに計画性など、本来介在しない筈だ。


 にも関わらず、今回の殺人事件は人為的に時間が設定されていた節がある。ならばこの一週間散々に繰り返された「食事」は、「腹を満たす」以外にも、何らかの思索を持って行われたのだと考えるのが自然だった。


「まだ見ぬ糸を引いた黒幕——だ。油断をするな」

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