一章 第四話:その場に
美奈は今までになく混乱の最中に居た。
既に彼女はこの一週間で、これまでの日常十六年分を軽々凌駕するレベルの衝撃に襲われている。
両親を亡くし、その犯人を偶然に見つけ、それを追い詰めたかと思えばその犯人は突然化物に変貌し、さらに間一髪でクラスメイトに助けられた——本来一生でも遭遇するかしないかの怪異に、今現在彼女は晒されているのだ。
「……どういう、ことなの……?」
美奈は怯えた声ながら、辛うじて曖昧な疑問だけは口にする。
蓮はそれを聞いて、さも億劫そうに美奈の方を振り返った。
今美奈が求めているものは、明確な納得だ。
この世ならざる怪異に晒された今、言葉による説明ではもはや足らない。「納得」という確かな概念をそのまま突きつけられるくらいで無ければ、美奈の混乱は収まりがつかない。
だが、蓮は溜息をつくばかりで、その不完全な言葉の説明すら寄越そうとしなかった。
「え……領場くん」
痺れを切らした美奈は、震える声をなんとか律し、目の前で呑気に頭をかくクラスメイトの名前を呼んだ。
その声の中には、あまりに理不尽に降りかかったこの状況に対する怒気も含まれていたかもしれない。
やがて蓮は嘆息するように言葉を吐き出した。
「……何でこうなった。最悪——より二番目くらい手前の展開だ」
領場蓮というクラスメイトは教室において、とりわけ特徴もない平凡な生徒として認識されていた。そう認識していたのは、もちろん美奈も同じことだ。
だから、唐突に飛んだ彼の剣呑な言葉には、美奈は必要以上に怯え、竦んでしまう。
「————!」
——だが。
美奈がそうして蓮に対して驚いていられたのは、ほんの一瞬のことだった。
というのも、蓮の足蹴りを受けて行動を停止していた大口の化物が、再度動き始めたのだ。
その体ごとめり込んだ教室の壁から、身をよじって態勢を立て直しながら、こちらへと顔を向けたのだ。
——その、見えない目がこちらへ向けられたのを、美奈ははっきりと感じた。
「ねえ……ねえ、領場くん、あいつ起き上がってる——!」
「だから黙っててくれって言うんだよ。少なくとも君にとっちゃ、まだ危機は去ってなんかいないんだぞ」
言いながら蓮は、両の手を合わせてポキポキと指を鳴らす。
その後ろで座り込んだままの美奈は、人生最大の混乱の中に居るわけだが——その中に、一抹ほどの安堵に近い感情があることを、自身で感じていた。
たった一人、コンマ一秒の差で化物に喰い殺されるところだったさっきまでの絶望的状況とは、少しばかり今の状況は違っている。
少なくとも今は「たった一人」ではない以上、その分の安心感が、どんなに微細であっても存在することは確かだった。
そこにいるのは、はっきり言ってよく知りもしないただのクラスメイトではあったが——美奈の目に彼は、何故だが今、妙に頼れる風に映る。
そんな感覚が、自らの動悸と冷や汗を段々と引っ込めていくのを感じながら、しかし美奈は、次の瞬間その安堵が状況による仮初めでしかないことを悟った。
——目の前に。
瑣末な安堵に身を包まれたその瞬間、目の前に化物の大口が迫っていた。
「っ!ひっ——」
なまじ安心という感情がほんの少しだけ表に出ていたため、その衝撃は半端ではなかった。
そこに迫っていたのは化物ではなく、「喰われる」という確定的な映像だったと言える。その一瞬だけで、美奈は自身の生存を完全に諦めたほどだ——が。
「——馬鹿がッ‼︎」
——刹那。
その何万分の一秒という時間に、蓮は化物の動きに対応する。
美奈の鼻先一センチまでに迫った化物の巨大な頭を、蓮の拳は正確に捉えていた。
獲物を頬張ろうと最大限に開かれた化物の大口は、その頭の頂点に叩き込まれた蓮の裏拳によって無理矢理に閉じられた。挙げ句、その衝撃は化物の体を教室の床に叩き落すほどだった。
化物の巨大化した頭部の質量が、容赦なく物理法則に従う。教室の床には、めり込んだ化物の頭部を中心に八方へと伸びた巨大な亀裂が生み出されていた。
——そして遅れながらもようやく、教室中を包むような轟音が響く。
「……嘘、でしょ……」
その衝撃の中、美奈は驚愕に目を見開いたまま、掠れた声でそう呟いた。
美奈の目に映った蓮は、もはや彼女の知るただの同級生という存在とは全く異質のものだった。
二度までもその身を救われたという事実もまた、しっかりと美奈の目には映っていたが——その頭を垂れて感謝すべき事実よりも先に、数分前から始まった怪異という存在が、どうしようもなく視界を塞ぐ。
「————」
"この化物は何なの?"
"その化物を軽くあしらう貴方は何者なの?"
あまりの非現実に触れた今、その異質さが逆に美奈の頭を冷やしていた。慌てふためくべきはずのこの状況において、美奈は拍子抜けするほど冷静だ。
だからこそ、頭に浮かぶのは整理された単一の疑問である。
しかし、美奈がそれを投げかける前に、その口は反射的に呻き声を漏らした。
「痛っ……」
右肩の辺りに軽く鋭い痛みが走り、美奈は顔をしかめる。
その場所に目を落とすと、化物の牙の一本でも掠ったのか、服を破って血が滲んでいた。
それを見て、蓮は化物の頭部にめり込んだ拳を引っ張り上げながら、美奈の顔を覗き込む。
「委員長?」
「……いや……大丈夫」
痛覚はなおも美奈の脳を少しずつ甚振っていたが、そんなことは些事だ。
「……領場くん」
目の前の少年の名前を呼ぶ。
それを聞いた蓮が眉をひそめたことに、美奈は気づいた。
彼は、次に美奈が口にするのはこの場の核心を問う質問だということを、すでに分かっているようだった。
その表情を見るに、きっとこの目の前の怪異は、彼にとって知られたくも話したくもないことなのだと、美奈は理解する。
面倒だ、と蓮は言っていた。
訊かれることが、立ち入られること自体が彼にとってはこの上なく億劫なことなのだ。
となれば、実のところ美奈がすべきは、今起きたことを無かったことにして、何も訊かずこの場を去ることなのかも知れない。
真に恩人のことを慮るなら、「私は何も見てない」と告げ、全てを忘れるべきなのだろう。
だが、そんな正しさを実行できるだけの余裕など、今の美奈には一抹たりとも存在しなかった。
たとえそれを実行する余裕あったとしても、そんな「正しさ」は、美奈の沸き立つ混乱を解決することよりも遥かに無価値だ。
「これは……何なの?それに、こんな怪物を簡単にやっつける領場くんは——一体何者なの?」
「……思ったよりも冷静そうで安心したよ。ここで委員長にまで逃げられるとなんというか、僕も取りたくない手段を取らなきゃならなくなる」
「ねえお願い。答えられるなら答えて……私は本当に、多分、頭の中が限界だから」
「見ての通りの化物だよ」
憚りもなく、一切合切の躊躇もなく、蓮は吐き出すようにそう答えた。その淡々とした様子に、逆に美奈は少し面食らう。
一方で、蓮は蓮で僅かながら安堵の念を覚えたいた。
本人の弁の通り、現在彼にとって最も避けたい展開は、この場で美奈が半狂乱になり逃げ出してしまうことだった。そんな様子は無いということに、ひとまず安心した——そしてそれがまずかった。
安心は、警戒の正反対に位置する概念だ。
そして、この場は人喰いの化物が存在する危険区域だ。戦場と言い換えても障り無い。
その「戦場」で、警戒とは最も欠いてはならないものだ——仮にそれを欠いた者は、否応無くその代償を払わされることになる。
——その意味では、美奈の方が正しかった。
あまりに馴染みの欠片も無いこの状況で、恐怖心を完全に失わなかった美奈は、「代償」を支払うことはなかったのだ。
「————ッ⁉︎」
驚嘆したのは、攻撃を受けた蓮ではなく美奈の方だった。
在るはずの繋がりを切り裂かれ、体内にとどまる機能を失った何億もの細胞が、その流動性のみに従って外へと飛び散る。そのうちの数滴、ほんの数ミリリットルが、美奈の無防備に晒された皮膚に付着した。
美奈はその不快感に目を閉じかけたが、寸前で思いとどまった——不快感よりもはるかに優先的に、「目を見張るべき」光景があったからだ。
「嘘——」
蓮がその裏拳で化物を叩き伏せた時にも、美奈は同じ言葉を吐いた。だが今度はもっと短い。
——異変は蓮の右腕だった。
そこに在るべき右手がどこにも無い——どころか、蓮の右肘より下の部分が消え失せている。
食い千切られた、のだ。
蓮のその腕の欠損部分からは、本来の行き場を失った血液が止めどなくこぼれ落ちている。その血は瞬く間に床を汚し、辛うじて破損を免れた制服の袖口までもが赤に染まった。
そして——蓮の右腕を食い千切った元凶である大口の化物は、切断されたその体組織を、そのための大口だと言わんばかりに貪っていた。
「え——領場くんッ!」
美奈は咄嗟に蓮の元に駆け寄ろうとした。それは実践すべき「正しさ」の下の行動ではなく、人に備わった反射の心配だったが——結果のみを言えば、美奈が蓮の側に駆け寄ることはなかった。
というのも——右腕を切断されたはずの級友の、しかしてあまりに違和感のある表情が目に入ったからだ。
「おまえッ……‼︎」
歯を食いしばりながらそう漏らす蓮の表情は、鬼の如くと言うほか無いような、激情を表していた。
皮膚は赤らみ、目は血走り、額には青筋が立っている。
「お前は私の仲間の筈だ……!」
むしゃむしゃと、一瞬のうちに人間の腕が咀嚼され飲み込まれる不快な音を立て、それから大口の化物は口を開いた。
「お前はわたしと同じだ。なのに何故だ」
「……ッ」
むしろ、大口の化物こそ激昂していた。溢れる唾液を塞き止まるにはあまりに隙間の多いその口から、血液が混じった大量の唾を垂らしながらに、皮膚に隠された瞳で蓮を睨む。
「お前はわたしと同じ化物だろう。……それが何故人間の味方をする?」
「……馬鹿が、何も分かっちゃいないのか」
蓮は失った左腕、その傷口に手を添えながらも、はっきりとした語調で言葉を続けていた。
「逆に聞きたいんだが、お前こそ何のつもりだ?何故この町で人間を殺した?」
「私は、私達は、人間の血を啜らないと死んでしまうぞ」
「この町には小さいながらも、きちんと化物のコミュニティがある。まだまともな経緯でそうなったんなら、それを辿ることだって出来たはずだ。それさえ辿れば、血液パックでもどうにでもなった」
「……こんな非力な馬鹿共を何人殺して困ることがあるか?私たちの食料だろ」
その答えを聞いた蓮のその表情は、既に烈火の如く歪んでいた。眉をひそめ、目は充血し、口元は大きく歪んでいる。
「ロクでも無い外法で化物なんぞになろうとするから、お前みたいなのか生まれるんだ……」
最初、美奈はその顔を押し寄せる苦痛に耐えているものだと思っていた。しかし、すぐにそれが勘違いであることに気付く。
「……それにお前——何を喋ってるんだ?僕の腕噛み千切っておきながら、今さら仲間?ふざけるなよ、出来損ないが」
——それは怒りだった。
身を焦がしかねないほどの憤怒だった。その表情の全てが表していたのは、紛れも無い怒りの形相であったことを、今更ながら美奈は悟る。
「誰もお前を許さない。誰も、僕も——お前が許される余地なんてのはこれっぽっちも残っちゃいない!」
血走った目を見開き、蓮はその半分を失った右腕を動かした。当然、切断面として身体に大きく開いた穴からは、大量の血が飛び散る——、否。
(……血じゃ無い……⁉︎)
美奈はその事実を認識し、今度こそ(ようやくと言うべきか)、自分の目をはっきりと疑った。
蓮の腕の切断面からは、赤いものが乱雑に揺れながら外へと伸び出している——一見すれば血液にも間違うが、しかしよくよく見れば、それは明らかに固形のものだった。
脂肪、筋繊維、血管、血液——失った腕を構成していた全ての細胞の要素。
それらの集合体が、体細胞の糸として絡み合うように形を作っていく。
集合体は瞬く間にその長さを伸ばし——再び右腕が現れるのに二秒も要さなかった。無くなったはずの右腕は、ここにたった数秒で蘇ったのである。
そして、蓮の右腕はただ元に戻ったばかりではなかった。
通常そこにあるべき肌色の人間の腕ではなく——目視して分かるほどに皮膚が硬質化し、そもそもの大きさも肥大化し、さらには太い血管のような筋が至る所に浮き出ている。
それは奇しくも大口の化物の変質した顔周りと、全く同質の様相だった。
「————」
美奈はあまりの非現実に、声すら出せなくなっていた。
化物の腕。
蓮の身体にはあまりにもアンバランスに変化したその腕は——その指は、蓮の意思で動かされる。
大きさの対比から、蓮の身体自体はほとんど動いていないように見えるからなのだろう——その巨腕が振り下ろされる様は、さながら、腕という一個の生物が捕食活動を行っているようだった。
そして——激昂を叫びながら、蓮は振り向きざまに、化物の腹部へと掌底を叩き込んだ。
「が——ッ」
この世のものとは思えないほどに醜い悲鳴を、大口の化物は漏らした。否、そこに込められたのは声だけではない。体の内部組織が破壊されたことによる、止める術のない鮮血も、多量に含まれていた。
一方で、大口の化物をそこまでの状態に追い込んだ蓮は、全く息を切らしても居なかった。異形に変形した腕を突き出したまま、ふぅと溜息をつくように、ほんの少し呼吸を整えたのみである。
「っ——お、お前……一体何者だッ⁉︎これ、これほどの、力を……」
「お前は何も分かっちゃいない」
蓮は伸ばされた異形の腕の中、さらに人差し指をピンと大口の化物に向けた。
「お前は仲間内じゃ屑に等しい部類だ。それに知識も素人だ。誰にそうしてもらったのかは知らないが、何も教えてもらわなかったのか?僕ら化物がこの世界でどうやって生きているのか」
「ッ——待て、待て!」
化物が始めようとしたのは命乞いだった。今更に自分が置かれている窮地というものを理解したらしく、発揮されるのがあまりに遅かった生存本能は、美奈の目にすらひどく滑稽に映った。
「駄目だな。でもその代わり、さっきの質問には答えてやる——『何で人間の味方をするのか』——お前みたいな屑な味方するより万倍はましだからだ」
「ひッ——!」
瞬間——。
蓮の異形となった腕は、自分の右腕を貪る化物の頭部へ直撃し——その掌は高密度の威力爆弾と化し、大口の化物は、その頭部を丸ごと爆散させるという結末を辿ることになった。
蓮の回答が大口の化物の耳に届いたのか、それすら分からないほど凄まじい勢いでの攻撃だ。
血と肉が何にも阻まれることなく飛び散る。それは酷く醜く、正当にグロテスクさを極めた光景だった。
「……っ、し——」
「あぁ、死んだよ」
恐る恐るの美奈の質問に先駆け答えた蓮の表情は、もう激情に駆られたものではなくなっていた。変形した右腕も元の形に戻っていて、あの異形は見る影もない。
「こ、の教室……どうするの?」
眉をひそめながら、取り用によってはひどく呑気な心配を美奈は口にした。
教室には化物の多肉が飛び散り、息をするのも嫌になるほどの悪臭が立ち込め始めている。確かに気を揉むべき事柄ではあったが、普通に考えて少なくとも優先順位的に、今言うことでは無いだろう。
蓮はその場にそぐわない冷静さを奇妙に感じながらも、とりあえずは頷いた。
「……後始末が先だ。委員長、悪いんだけどそこで待ってて——」
美奈はその先の言葉を聞き取れなかった。
蓮の言葉を聞きながら、後頭部に鈍痛が走ったことを認識する。そしてその衝撃のまま、意識が暗澹に沈みゆく感覚を、静かに感じていた。
意識を失う直前、蓮の顔が見えた。なんというか——人が人を思い切り殴った瞬間を目の当たりにしたような、「痛そう……」という眉のひそめ方だ。
それと同時に、背後に誰かが立っているような気配を感じながら——美奈の意識は、ここで途切れる。