第9話 慌ただしい出勤
「ハニー!」
と、玉藻が飛び付いてきた。うっすらと目尻に涙を溜めて。
なにも身構えていない私。そのまま後ろへ倒れ、後頭部を壁に強かに打った。
母はそれを見て「生きてるか?」と訊ねてきた。ので、勝手に殺すな、と目で答える。というか、助ける気ないのかよ。薄情者め。
「どこに行ってたんですか!? 起きたら隣は空っぽ! さらに、十和子さんに頭を蹴られるし! ついでとばかりの逆海老反りまでされて! それで、飯の仕度をしろと命令されるし! まさに傍若無人の女王さまの如く! さっきから文句ばかり! ハニーがいなきゃこんな屋敷出て行ってやるのに!」
泣きながらヒステリック気味に喚く玉藻。そして、肩を掴まれて乱暴に揺すられる。
揺れる。
世界が。
私の頭が。
がくんがくん、と前後に。
……気持ち悪い。吐き気が。喉の半分まで登ってきている。どうにか玉藻を落ち着かせないと。
煙草の煙をまき散らかし、悠然と眺める母が。
「どうでも良いが玉藻」
「……なんですの」
玉藻を呼んだことにより、揺さぶりが止まった。
呼ばれた玉藻は凄く、物凄く嫌そうな顔で振り向く。こんな表情もできるんだ、へー。
それより、脳がおかしい。それに気分も優れない。さっきの影響が残っているのだろう。母と玉藻の会話が耳に入らないくらい、私の身体は異常を告げている。
胃の中から突き上げるられる感覚。口内に広がる独特の酸っぱさ。
……ダメだ。
そう思った時、口元を押さえてトイレへ駆けていた。後ろで「ハニー!?」と叫ぶ玉藻。今はそれどころではない。一分一秒でも惜しい。
でないと……!
便座を上げ、顔を突っ込んだ。口を大きく開けるが、出てくる物はない。だけど、胃から込み上がってくる。何度も嘔吐いても口からは胃液と唾液のみ。まだ喉の辺りに違和感がある。一層のこと喉に指を突っ込むか。右手の人差し指と中指を見つめ、迷う。
「ハニー……大丈夫?」
心配そうに声をかけてくれる玉藻。
斜め後ろの位置にしゃがみ、背中を擦ってくれる。
「……ごめんなさい。私ったら感情に任せてハニーにあんなことして……本当に、ごめんなさい」
悲しそうに項垂れる玉藻。耳と尻尾までも力なく伏せている。
耳と尻尾……ん?
「……耳と尻尾?!」
突然の大声に、玉藻はビックリする。
ありえない。人類で動物と同じ耳と尻尾を生やしているなんて。しかも、かなり毛並みが良かったぞ。ツヤツヤ、ふわふわして、触ったらずっと離せないくらい。自信を持って言える。あれは、最高級の毛だ。
しばらく理解できていなかった玉藻。だが、私の視線の先に気づき、はっとする。
「やだ……あの、そのこれは……」
顔を真っ青にして、どう話そうか困っている。もしかして、昨日……っか、今朝にポロっと言ってた「あの仕打ち」と関係あるのでは、と勝手に推察。
言葉が出てこず、玉藻は黙ってしまった。瞼を伏せて。
この状況はよろしくないな。そう判断し、気になったことを訊ねてみることにした。
「……それは、犬ですか?」
「聞くとこそこか」
ボケたつもりはないのだが。母からツッコミをいただいた。
あれ、この人、一体いつからいたんだろう? みたいな表情をする。それにたいして、母は「今さっき」とだけ答えた。
母の右手にはガラスコップが握られている。中身は透明なので恐らく水であろう。口を漱ぐのに必要だから持ってきてくれたのだろうか。とても気の利く母だ、と感動していたら。
あろうことか母は、ガラスコップに口を付けた。
「おい。ちょっと待て、そこの母親よ」
「あ? なんだ?」
「ゲロってる娘のために持ってきたんじゃないのか、それ」
「は?」
なに言ってんの、おまえ。的な反応をされた。めっちゃ眉間にシワを寄せて。そんな怖い顔しなくても……いや、この人、元からだった。
母は私からコップに目をやり、また私へと戻す。
「……今日、仕事は休みか?」
「? いや、仕事だけど」
コップを差し出され、それを受けとる。
急に仕事の有無を訊くなんて珍しい。普段、この話題に触れないのに。
不思議に思いながら、唇に縁を付けた。
その時、強い匂いが鼻腔へと香った。
これは、まさか。
「まあ、水みたいなものだから平気だろう。それにスラヴ語で『水』と言う意味だしな、ウォッカは」
「優しい飲み物じゃない!」
「ちなみにストレートだ。口内の消毒に丁度良いな」
「丁度良くないわ! どこの世界に太陽が沈む前からストレートを飲む奴がおるか!」
「ここにいる」
「アホかあ!」
危なく一口飲みかけた。アルコールが飲めない私にとって危険な代物だ。一発で酔う。絶対。いや、それどころか喉をやられるな。
人が怒ってるのに、母親はやはり顔色を変えていない。平然としている。
それどころか。
「キィキィと喧しい。吐き気が止まったなら早く飯を食え。時間がないぞ」
軽く煽ってくる。喧嘩売ってるのかな、この親は。
しかし、最後が引っ掛かった。
「……今、何時?」
「午後六時四十五分」
「それ早く言えよクソババア!」
しまった。余計な時間を費やした。優雅かつ落ち着いて食事にありつこうと思ったのに、失敗だ。母親が帰宅した時点で全てが狂った。狂わされた。
落ち込んでいる玉藻には悪いが、先に居間へと走る。
テーブルに並べられたご飯。
玉藻が作ってくれたんだっけ。母に叩き起こされて。ごめんよ、ありがとう。そして、ご馳走になります。
正座をして、手を合わせる。
「いただきます」
お約束の言葉を言って、箸を動かす。
ホウレン草ともやしの野菜炒め。その上にはサイコロ状の小さなステーキ。
ドレッシングがかかった海藻サラダに、とろろ昆布。
ご飯と、なめこのお味噌汁。
野菜を多目に、と考えて調理したのだろう。勿論、味は美味しい。
ガツガツ、とろくに味わうことなく次々に胃へと入れる。
ゆっくり咀嚼せず、丸呑み状態なので。
「うぐっ」
案の定、喉を詰まらせてしまった。
慌てて胸を叩いて嚥下を促す。が、なかなか落ちてくれない。そんな私に、玉藻はお茶を注いでくれた。
一気に飲み干し、食物塊を押し流す。
「……ありがとう」
「いえ……その、そんなに慌てて食べなくても」
「出勤まで時間がないんだ。ごめん」
ご飯を掻き込み、お味噌汁も飲み干す。
急いで茶碗とお椀、そして取り皿を重ねて雑な「ごちそうさま」をする。時間にゆとりがあればこんな慌ただしい食事はしないのに。
食器をシンクに置く。本当なら洗うのだが、時間が迫っている。申し訳ないが食器をそのままにして、仕事着に着替えるべく自室へと急いだ。
いろはが去った後。
居間に残った二人の女。
一人は、黙々とウォッカを飲み。
一人は、いろはが出ていった戸襖を見つめている。
はあ、と重い溜め息を玉藻はこぼす。
耳と尻尾を見られた。自身が人間でないことがバレてしまった。できれば彼女の死期まで隠し通したかった。しかし、それまでの間に気づかれるだろう。いつか来るその日が、まさか今日とは。
「……玉藻、一生の不覚」
「いつもの詰の甘さが出ただけだろ、ドジが」
と、十和子から鋭い指摘をされる。
彼女の言葉に気分を悪くしたが、それも一瞬。十和子と向き合う玉藻の顔には笑みがある。
「ドジっ娘は萌えヒロイン属性では一般的でお馴染み。つまり、色んな方に愛されやすい性格。よって私はハニーに愛されること間違いなし!」
玉藻の言う通り。短所は考え方によっては長所となる。例えるならばナルシスト。これを言い換えれば、自分を磨く努力をしている。または、自分のアピール方法を知っている――などとなる。いろはに愛されるかは別の問題ではあるが。
この言い分に、十和子は「はいはい。良かったねーおめでとー」と返事をするだけ。投げやりな感じが癪に触ったのか、玉藻の笑顔が微かに引きつる。が、崩さずに耐えた。
コトリ、とグラスを卓上に置く。
と、十和子の纏う雰囲気が変わった。
先程までの緩さが引き締まり、真剣な面持ちだ。
そんな十和子に触発され、玉藻も表情を固くする。
「……ところで、例の話だが知っているか?」
「ええ。もう七件目らしいですよ。しかも、かなり近付いてきてますね」
「有馬は、なにか言っていたか?」
「いえ、とくに。ですが、なんらかの手は打つべきかと。これ以上の被害を出さないために」
「ふむ……それで、あの馬鹿はなにをしている。いつもならすでに飛び付いているだろ」
「それがつい数日前に、協会とかなり揉めたようで……しばらくは謹慎らしいですよ」
「なにをやっているんだ、あの馬鹿は……」
呆れる十和子。
玉藻もなにも発せず笑って誤魔化す。
そんな時。
廊下から忙しない足音が近づいて、通り過ぎていった。
いろはだ。
靴を履き、玄関を出て閉めようとした。
視界に、慌てて居間から来た玉藻が映る。
玉藻は笑顔で。
「いってらっしゃい、ハニー」
と、見送る。
たいしたことのない言葉だ。普通の家庭ではよくある光景。当たり前のやりとり。だが、いろはには酷く懐かしく感じた。
小学生の頃からだったか、母の十和子が仕事で留守をするようになったのは。今時、親が共働きで鍵っ子が珍しいわけではない。だが、十和子のように長期間も家を離れている親はいないだろう。いつ戻って来るかわからない母親。同じ働きに出ていても、皆の親は決まった時間に帰ってくる。当時のいろはは、周囲の子たちが純粋に羨ましかった。家に誰かがいる生活が。
いってきます。
いってらっしゃい。
ただいま。
おかえりなさい。
鍵を渡されてから徐々になくなった。家に自分しかいないから。いたとしても擦れ違ってばかり。 小学生になるまでは一緒だったのに。よく会話して、いっぱい笑った記憶はある。卒業式。入学式。家庭訪問。三者面談。参観日。どれも十和子の姿はなかった。仕方がない。母さんは忙しいのだから。そう言い聞かせ、寂しい学生時代を過ごしていた。
だからなのだろうか。久し振りに耳にしたせいか、一気にいろはの中で色んな感情が溢れる。涙がじわりと滲み出そうになった。しかし、それを堪える。帰宅した時は言えなかった。なら、今は……今なら素直に口にできる。
「――いってきます!」
元気よく。笑って。
いろはは出勤した。
一方、玉藻は。
「……なに、あれ。すっっっっごく! 可愛すぎるんですけどぉ!」
顔が真っ赤になっていた。いや、正確には、いろはのデレにノックアウトしているのだ。
そんな玉藻に興味などない十和子は。
「アホか」
と、呟いて雪駄に足を通す。
耳の良い玉藻が反応した時、既に居間にはおらず庭に立っていた。
「ちょっと十和子さん! アホとはなんですか……って、なにしてますの?」
空を見上げる十和子に、訝しそうな表情で訊ねる。が、答えが返ってくる様子はない。
眺めている彼女につられて、玉藻も視線を向ける。
どんよりとした暗い雲。
「降りそうですね」
「ああ」
右手を胸のポケットに入れて、煙草を取り出す。青のパッケージで、白字で『hi-lite』と書かれている。
口にくわえ、火を点す。
煙を吐いてからしばらくして十和子は、玉藻へと振り向く。
「喜べ、玉藻。仕事だ」