第8話 母、降臨
皆さま、おはようございます。久多良木いろはです。本日も天気は……まあ、ぼちぼちな感じで。気温も少々肌寒いですかね。仕事が終わり、用意してくれた食事も済ませて就寝したのです。お風呂は起床した時に、と睡眠を選びました。汚い、とか言わないで。心身ともにヘトヘトな私に、追い討ちをかけるようなことはやめて。意外にも私、繊細だから。母親の前では使えないけどね。口に出した瞬間、絶対に「え? あんたが? 繊細? ウケる」となるだろう。一頻り笑ってから「寝言は寝てから言え」と、真顔でとどめをさされる。それで反論したら、母親お得意のアイアンクローで黙らされるのだ。たまに、チョップだったりもする。
――と、話が脱線した。
とにかく、眠りについたのだ。んで、現在、起きました。
すると、視界いっぱいに広がる白い肌。しかも、乳だ。滑らかで、ハリのある。揉み心地良さそうな……って、なにをほざいてるんだ私は。危ない危ない。目の前の誘惑に乗ってとんでもないことをしようとした。例えるなら胸を揉む、とか。すり寄る、とか。寝ぼけてアホな考えしか浮かばない脳内を一掃し、改めて現状を冷静に見つめる。多分だが、私の安眠中に潜り込んだのだろう。布団に侵入したことは今は置いておき、問題は……
「なんで真っ裸なんですかね……この人は」
そう。私を抱えて熟睡している彼女、玉藻はなにも身に付けていない。生まれたままの姿。ありえない。同性でも、これはありえない。
布団を捲ってはいないのに、なぜ全裸だとわかるの、って? わかるんだな、これが。なぜなら、彼女の生足が、絡み付いているからだ。
寝巻き越しから伝わる玉藻の温もり。頭上からは寝息が聞こえる。
……あれ? おかしいな。なんでだろう、心臓の脈が速いぞ。それに身体も妙に緊張している、というか、その変に反応しているし。ヤバイ。どうにかしてこの状況を正常値に戻さねば。でも、どうやって。
いや、答えは簡単だ。私が布団から出たらいいんだよ。
なので、のそりと這い出る。被っていた布団を忘れずに直す。玉藻の肌が露出しないように、肩まできっちりと。
にしても。
「……意識ないせいか、すんなり脱出できた」
あんなに絡まっていた脚が、するり、と解けた。力を込めていなかったし、当然ではあるが。ちょっと拍子抜け、みたいな。
ま、とりあえず、お風呂場に向かおうではないか。玉藻が寝ているうちに。
そう思い、こっそり部屋から退出した。
固まった身体を背伸びで解す。
もうすぐ冬が来る。その影響で、ひんやりとする廊下。
そろそろ長袖、長ズボンか。一年過ぎるの早いなあ、と今年を振り返りながら、脱衣場の引き戸を開けた。
外観は所々に年季を感じさせる日本家屋。だが、中身は一般家庭と同じ。昔のような五右衛門風呂ではない。けれど、最新のオール電化式でもない。ボイラー炊きである。もしかしたら古い方になるのかな? とりあえず、そこまで新しくも古くもないはず。多分……。
話を変わるが、脱衣場に入って左側の壁には鏡と洗面台。その隣に、洗濯機を置いてある。反対側には、ステンレスの棚。下の段に洗濯籠を。真ん中の段に大判、小判のタオル類が。そして一番上は洗剤や入浴グッズ、という順に置いてある。
寝巻きと下着を脱ぎ、籠へ放り込む。
いざ、浴室へ。
小判のタオル一枚を手にして、タイルの上を歩く。タイルの冷たさが全身に伝わってくる。廊下と同じくここも冷えているようだ。
これが真冬になったら寒いのなんの。近年では床暖房システムやらで暖かい状態で入浴できるようだ。が、残念なことに、我が家はそんな文明的なものを取り入れてない。是非とも、とお願いしたのだけれども、大黒柱の母は首を縦にふらなかった。理由は「必要性を感じない」とのこと。いや、あるから。何度も説得を試みたが惨敗。母の「どうしても、って言うのなら自身の資金でしろ」の言葉を最後に、私は諦めた。一万や二万だったら母に頼まず、私のポケットマネーから出すよ。でも、十万以上のお金を一括には無理だ。車の維持費に保険料、携帯代さらに光熱費などの生活費。老後の貯金も考え、車の買い替えのお金も貯めて、と遣り繰りしているのに。就職してから一銭も貰った記憶はない。たまに取られることはあるけど……思い出すときりがない。
鏡の前にある風呂椅子に座り、シャワーヘッドを手に取る。
蛇口を捻ると、ちょっと熱いくらいのお湯が出てきた。それを身体に浴びる。
冷えきった皮膚には熱すぎるのか、ビリビリとして痛い。が、次第にじんわり、と血が巡る感じがして心地良くなる。
首にうなじ。
肩から背中。
胸や足へ。
そして、髪と頭皮に。
一通りお湯をかけ、付着していた埃や汚れを落とす。それをした後、一度シャワーを止める。
流れてきた水滴を拭い、シャンプーボトルへ手を伸ばしたら。
戸が開く音がした。
今、この家にいるのは私と玉藻の二人だけ。だから、ここにいてはおかしい。だって、まだ仕事のはずなのに。
なんで。
「……なんで帰ってきてんの?」
背後にいる人に話をかける。
さっきまでなかった煙草の匂いが漂う。
身内で吸う人は一人だけ。
紫煙を燻らせ、その人――我が母親は答えた。
「愛車で」
至極当然そうな表情で。
確かに。ごもっともな回答だが、私が求めるものとは違うんだな。
「いや、そうじゃなく」「仕事が思ったより早く片付いたから我が家に帰ったんだが、なにか文句があるのかバカ娘」
「人が喋ってるのに被せて話すな! あと、バカ娘は余計だ!」
「バカ娘をバカ娘と言ってなにが悪い」
「だから!」
「親の言うこと聞かず、遊び呆けて。進級しようにも単位が足りず大学中退した奴が、バカでない理由を作文用紙3枚以上で述べよ」
それを話題にされると非常に困る。
反論できず、目を逸らす。
すると、鼻で笑われた。
「さっさと済ませて居間に来いよ。食事にするぞ」
バカ娘。
と、言い残し去っていった。
「最後のを言いに、わざわざ風呂場まで来たんかい!」
ありがたい。けど、なんか嬉しくないぞ母上よ。
私の母で、この家の主――久多良木十和子。
私より背が高く、スレンダー。五十一歳なのに生気に溢れ、若々しい。そして、態度がデカイ。まあ、生みの親だし。お世話になってるし。この家を建てた人だし。だけど、態度がデカイ。逆立ちしても勝てる気がしない。頭が上がらない人である。でも、態度がデカイ。しかし、どんなに態度がデカくても、あの人がいなかったら私は存在しないのだ。イラつくこともムカつくこともあるけれど、感謝はしている。それに、楽しかった思い出もあるし。それら全てを引っ括めて、台無しにする人でもあるけどね。間違ってはいない。正論を口にしている。認める。けど……うん。やめよう。
さっと入浴を終わらせよう。そして、ご飯を食べよう。お腹も空いてきたし。それに、待たせちゃ悪いし。
途中で止めていた手を、私は再び動かした。
髪、顔、身体の順に洗い流して、浴室から退場する。
脱衣場で水分を拭き取っている時。
「あ。しまった、着替え……」
着替えを忘れていたことに気づいた。
仕方ない。髪を乾かしてから部屋で着よう。
そう思ったら。
「おい」
また母親が登場。
今度は顔を向けると、物が飛んできた。顔面にめがけて。
固くない。柔らかいけど、衝撃で地味に痛い。
「忘れ物だ、バカ娘」
そう言って、私の下着と衣類を投げてきた。
「だからって、顔狙いはないだろ!」
私の訴えなんてどこ吹く風。
渡し……いや、ぶつけた後、いなくなっていた。あのクソババア。
大声で発したい。だが、リスクが高すぎる。もし耳に入ったら大変なことになる。逆海老反り。もしくは、コブラツイストか。だから、私は心の中で叫ぶ。怒りを込めて。
さて、深呼吸をしよう。いつまでも怒っていてはいけない。冷静に。短気は損気だ。
息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。これを3回繰り返した。
よし。ちゃちゃと済ませて、ご飯を食べよう。
愛用の化粧水、乳液と顔に塗ったくり保湿する。
髪もドライヤーで乾燥完了。
下着と服を着て準備はオーケー。
濡れたタオルを籠にイン。
「よし。居間に行こう」
脱衣場から居間へ移動する。
アラームで設定した時間は午後二時。私の平均入浴時間は大体一時間前後。なので、多分時刻は午後三時くらいであろう。出勤時間は午後八時なので余裕で食事ができる。今日一日の予定を考えながら、居間の引き戸に手をかけようとする。
が、先に開いた。