第6話 抱擁
※Wikipediaさまに載ってある抱擁の説明を引用させていただきました
あー……無駄なエネルギー使ってしまった。おかげで胃が空腹を訴えているよ。そういえば、玉藻が蕎麦を作ってくれてるとか……。
けど。
「さっきの今だしなあ……」
数分前、いや、会ってからずっと冷たい態度とっている。その事もあって、食事を頂こうなんて都合が良すぎるのではないか。だか、彼女は私のために、と拵えてくれたのだ。手間隙かけてくれた料理を食べないなんて、調理してくれた彼女に失礼ではないか。いや、しかし。
廊下を歩きながら悶々と考える。
食べるべきか否か、と迷っていたら。
「……」
いつの間にか居間の前にいた。
正直、気まずい。だから、踵を返して部屋に戻ろうとした。
が。
「あら。お食事はよろしいのですか?」
玉藻が立っていた。
「……あー、その。なんていうか……」
「?」
「えーと、ですね……」
言葉が出てこない。彼女になんて言えばいいのか。素直に説明すればいいのだろうけど、私の中のなにかが邪魔をする。なにかが、なんてカッコイイ言い方をしたけど、本当は大したことのない安っぽいプライドなんですけどね。
言い淀んでいたら。
「もしかして、先程の事を気にしていらっしゃるとか?」
ズバリ的中させられた。しかも、小首を傾げて。可愛い仕草だな、ちくしょう。
開きかけた口を閉じて、視線を反らす。もし私なら「どの面さげて言うとんのじゃわれ」となるだろう。
なのに。
「ハニーったら……可愛いっ!」
玉藻は抱きしめてきた。
抱擁。
私の記憶が正しければ、一人または数人の他人を腕で抱え込む、または、その周りに腕を回すこと。非言語コミュニケーションの一種で、キスをしながら行われることもある。幼児語で言うなら「だっこ」または「ぎゅう」だ。親密さ、愛情、友情を表し、それらを伝える手段として使われている。
抱きつかれるのは別にいい。問題はない。
けど。
「っ! 胸! 押し付けんな! 息が……!」
そう。私の顔は、彼女の胸に埋まっているのだ。これでもか、という力で。
必死に逃れようと抵抗するのだが、全く微動だにしない。だから、玉藻の腕をバシバシと叩いてみる。少しでも早く気付いて欲しいために。
やっと我に戻った玉藻は、腕の力を緩めた。
「やだ、私ったら……ごめんなさい、ハニー。大丈夫?」
「死ぬかと思った……」
冗談抜きで。あと数分遅かったら、三途の川を渡る羽目になっていただろう。死因が女性の胸での窒息死、だなんて笑えない。間抜けすぎる。
息を整え、玉藻と向き合う。頭ひとつ分くらい高い位置にある顔は微笑み、私の言葉を待っている。
陶磁器のように滑らかそうな肌。透明感があり、肌荒れや毛穴のひとつもない。世の女性が憧れ、羨むほどに彼女の肌は完璧だ。薔薇色の唇も乾燥してなく潤っている。キスしたら、さぞ柔らかいであろう。左右対称の切れ長な金色の瞳に、すっと通った鼻梁。化粧をしてるだろうけど、全然派手ではない。知的で品を感じさせる。
同じ人間で、女性なのに。私とは月と鼈。目尻からしょっぱいのが流れそうだ。実際には出ないけど。
「……気分、悪くないの?」
「んー……別に、ですかね。ハニーの反応は世間一般の反応、だと思いますよ。いたって普通の。だから、気にしないでください」
そう答えて、玉藻は私の頭を撫でた。子供をあやすような、優しい手つきで。
よく母がしてくれたな、と懐かしんでいると。
玉藻は悲しげに目を伏せて、ぽつりと呟いた。
「――あの仕打ちと比べたら……」
あの仕打ち?
一体彼女はどんな過去を背負っているのだろうか?
訊ねるのは簡単だ。しかし、昨日今日会った人間に……正確には一週間前だが……答えたくはないだろう。私だったら親しくない人には喋りたくないな。うん。だから、聞き流した。
顔を俯けると、視界には玉藻の谷間。
少し空間を開けて、腕から出ようとする。
が。
ガッチリ。
そんな効果音が似合うくらいに、玉藻は離そうとする気がない。っか、本当に女のわりに力強いな。
「……玉藻さん」
「嫌です」
解放するように頼もうと呼んだ。のだが、スッパリと断られた。
さらに、玉藻は続けて言葉をこぼす。
「だって、抱き心地が良いんですもの」
「へー……抱き心地、ねえ。それは、私に贅肉があるからですね。大量に。そうですね。そうですよね。あはははは…………よし。殴るぞ?」
「いえ、そんなこと……いたっ!」
殴ろうにも体勢的に無理なので、玉藻の左脇腹を指の先で突く。強めに突いたので結構痛いはず。
案の定。玉藻は両手で左脇腹を押さえている。まだすっきりとしない。が、仕方ない。これ以上、女性である彼女を痛めつけるのはよろしくない。
けれど。
「……たい」
玉藻がなにか喋っている。
聞き取りづらかったので、耳をそば立てた。
そして、後悔する。
「……ハニーの、愛が痛い」
耳を澄ました行為を。
それと、前言撤回しよう。
この女には、手加減は必要ないようだ。
身動きがとれる状態となった私は、玉藻の頭を殴った。勿論、力いっぱいにだ。