第5話 玉藻
玄関を開けると。
彼女が、黒ずくめ女がいた。なにかの冗談だと思いたい。
説明のために、少し時間を遡ろう。
店を出て大体二十分くらい。我が家に到着した。丘の上にある日本家屋。詳しい敷地面積は知らないが結構広い。現在、母が不在なので余計にそれを感じる。
敷地内に車を停めて、エンジンを切った。そして、助手席に置いたトートバッグを肩に掛ける。
車から降りて、玄関へ。キーケースから鍵を出して、引き戸を開錠する。
そこまではいつも通りだった。
「おかえりなさいませ。お風呂にします? ご飯にします? それとも、わ・た・し――なんちゃって、いやん!」
引き戸を開ける瞬間までは。
で、ここで冒頭に戻る。
「……え? な、な、なんで!?」
正座に三つ指を立てた黒ずくめの女。
眼球がこぼれ落ちそうなくらい見開き、私は驚く。
だって。二十分以上前、彼女を店に置いていったはずだ。もし、例え近道を使っても、私より早く到着なんて不可能。あの後、すぐに追いかけて来たとしても。
それに施錠もしていたのに。
「なんで? と、申されましても……それは、ヒ・ミ・ツです」
きゃあ、とはしゃぐ女。
もう、なにがなんだか。訳がわからない。
「あ、そうそう。お母さまから文を預かっているんでした」
と、女は谷間から封筒を取り出す。
……って、どこから出してんの。普通そんな所に所持するか? どこかの漫画やアニメじゃあるまいし。
彼女から封筒を受け取る。それは、なんの変哲もない茶封筒だ。大きさは、一般的な長形三号である。封筒の頭は折られているだけで、糊付けされていなかった。中には、三つ折りのA四サイズの紙が一枚だけ。
広げると、見覚えのある字。これは間違いなく母の字だ。そして、書面にはこう綴っていた。
親愛なるバカ娘へ
嫁と仲良くしろよ。
そろそろ孫の顔も見たいからヨロシク。
なんじゃこれ。
もう一度言う。なんじゃこれ。
まず、ひとつ。バカはいらないだろ。
ふたつ。
「嫁、って……」
紙から顔を上げる。
と。
黒ずくめの女は、頭を下げていた。
「不束者ですが、宜しくお願い致します」
ゆっくりと。そして、優雅に起き上がる。
穏やかな微笑みを描いて。
「……冗談でしょ?」
「本当です」
ずるり、とバックが肩からずり落ちた。
……神よ。
本当に存在しているのなら、教えてください。
これから私は、一体どうなるのですか?
結婚? 夫婦?
確かにこのご時世、同性の婚姻はできる。だが、一部の国と地域のみで、だ。私の住んでいる地域では受理されない。それに、子供なんてできるか。女同士で、どうやって交配するんだよ。まあ、例え相手が異性でも無理だけどね。どんなに愛してくれていても、私の方に自信も勇気もないから。
でも、それ以前に。
「お断りします。得体の知れない相手と、普通に考えられないでしょ」
そう。私は、まだ彼女の名前や職業などの一切を知らない。三回も顔を合わせたのにね。
女は、手を合わせ「ああ」と反応する。
「やだ、私ったら。ごめんなさい、ハニー。肝心なことを忘れてたわ」
そう言って女は、再び谷間に手を入れた。いや、だから。どうして谷間なの? もっと他にあるでしょ。鞄とかポケットとかさ。
直接本人にツッコミたい。が、そんな親しい間柄でないので、大人しく飲み込んだ。
次に、女が出してきたのは。
「私、環境省特殊生物保護および特殊自然災害対策室の玉藻と申します。以後、よしなにお願い致します」
名刺だった。
彼女――改め、玉藻さんが言った職業が記載されている。
にしても、長い。私の好きな医療系ドラマにも長い肩書きのキャラがいたな。確か、厚生労働省医療過誤死関連中立的第三者機関設置推進準備室室長……だったかな。この作品は今でも気に入っている。肩書きを暗記するくらいに。主役の二人の会話がとても面白くてとくに好きだ。あと「ゴキブリ厚労省」と、呼ばれるシーンも。
――と、話が逸れた。
とりあえず名刺を貰い「はあ」と、返事だけはする。理解できていないことは内緒だ。
「その、環境省の玉藻さんは、なんで私なんかを? もっと相応しい相手がいるでしょうが」
「そんなことはありません。ハニーは充分に魅力的ですよ。ただ、それを表現できていないだけです。でも、ハニーから醸し出される愛らしさと美しさに玉藻はメロメロですよ」
玉藻はやんわりと否定した。
化粧ひとつしていない色気ゼロな枯れた女である私を、彼女は「魅力がある」と言うではないか。これはきっと女性特有のお世辞だな。例えるならば、太っている人に「太ってないよ」や「ぽっちゃりなだけだよ」と返すあれだ。残念だが、私にはそれは通用しない。なんせひねくれ者でマイナス思考の人間だからね。最後のは聞き流そう。
靴を揃えるように脱いで、空いているスペースに足を置く。そして、横を通り過ぎて自室へと歩いて向かう。
後ろには。
「本日もお勤めご苦労様です。お食事は好物のお蕎麦にしてみました。時間的にも身体にも優しいのが良いと思いまして」
どこかの良妻よろしく、の玉藻さん。
本当に、なんで私なのだろう。
でも、それよりも。
「……着替えたいのですが」
「私のことはお気になさらず。あ、もしよろしければ、お手伝いいたしますよ」
部屋に入ってもベッタリ。
着替えようにもできない状態だ。
さらに、手伝う、だと?
ふざけるな。アンタみたいに長身で手足が細く、出るとこ出て、引っ込んでいるところ引っ込んでいる人に。身体を見られるなんて。
「お断りします」
玉藻さんの背中を押し、外へ押し出す。
「そんな遠慮なさらずに」
「するわ、普通に」
ピシャリ。
と、襖を閉めた。鍵はないためいつでも開けれる。
けれど。
「ああん、ハニー。そんなに冷たくしないで……でも、そんなハニーもス・テ・キ。きゃあ!」
彼女は、部屋の前で騒いでいた。
ああ。また、ハートを飛ばしてるよ。襖越しでもわかる、嫌なくらい。
……まあ、とにかく。
さっさと楽な格好になろうと、職場の制服を脱いだ。普段から寝間着にしている紳士用の半袖Tシャツと、レディースのハーフパンツの姿になる。ポニーテールにしていた髪をほどき、適当に捻り纏め上げてバンスクリップで挟んだ。
脱いだ制服をハンガリーに掛けて、と。
これでよし。布団も敷いて……
「お布団の準備万全です」
るし、この女。
ほんの一瞬。襖から目を離した隙に、玉藻さんは部屋にいた。
さらに、部屋の角に畳んでいた布団が、真ん中に綺麗に広がっているではないか。
「……いつからそこに?」
「え? さっきですよ」
「本当は?」
「…………ハニーって、着痩せするタイプなんですネ。とくに胸辺りとか」
なるほど。着替えてる最中に入室したんだな。気配を消して。こっそりと。
それに、ちゃっかり人の体型までチェックしてるし。
「……次、変な行動をしたら殴りますから」
と、警告する。
が。
「いや~ん、許してニャン」
どうやら彼女は殴られたいらしい。今すぐに。
私は無言で玉藻さん……もう、玉藻でいいや。玉藻の襟首を掴み、目の前で拳を握って見せた。
「ごめんなさい。許してください。もう二度とふざけませんから」
慌てて謝罪をする玉藻。
まったく。なんでよりによって、苦手な性格の人と一緒にならなきゃいけないんだ。どうせなら大人らしくリードしてくれる紳士的な男性、だったら良かったのに。大事なのでもう一度言う、男性だったら良かったのに。
玉藻から手を離し、私は部屋をあとにした。