第六章 彼は兵士のままで
「ある朝、私のパジャマの中に象が入ってきたから撃ち殺した。象がどうやって入ってきたかなんて知らんがね」
(One morning I shot an elephant in my pajamas. How he got in my pajamas, I don't know.)
─映画『けだものの組合(Animal Crackers)』より
少し時間を戻すとして、道行く一台の車へと目を当てよう。銀色で車種は日産・ティーダ。もしかしなくても生天目・兄の愛車である。運転席に彼がいるのは言わずもがな。あるいは、この車に他の乗客がいたことにまで、お気付きの方もあるかもしれない。肩にかかる程の長い黒髪をもつ童顔の女性で、黒に桃色や白で並んだ花柄のワンピースの上に、ベージュのカーディガンを羽織っているが、多少着崩れていて毛先の合間に左肩の紐が見えている。その身は少し左に傾いていた。
「……あと、どれぐらいかな?」
と彼女が問えば、
「そんなにはかかりませんよ」
などと生天目・兄は曖昧な返事をする。
お世辞にも話が弾んでいたとはいえない。
「妹ちゃんは元気?」
と彼女が次の質問に移っても、生天目・兄の返事は、
「ええと……どうでしょうか」
といったやはり曖昧な反応。それでも彼女は、
「最近ちゃんと話してる?」
と意地悪そうな笑みで質問を続けた。ただ、今度に至って生天目・兄は、ついに何も答えずにミラー越しに愛想笑いで応じるばかり。
「そういうとこ」
「……はい?」
「……ハジメちゃんが結婚できない理由」
生天目・兄は愛想を笑いを浮かべつつ、
「まあ、ご縁があれば……いいんですが」
とだけ言った。
「そろそろ気にしなきゃ……ハジメちゃんもいいお歳でしょ?」
「ええ……はい」
「ご両親から何か言われたりしないの?」
と問うた彼女だったが、すぐに、
「あ、ごめん。今のは忘れて」
と訂正した。
「……いいえ」
生天目・兄は笑っていた。たとえそれが愛想笑いであったとしても。
必然的に両者には沈黙が広がる訳ではあるが、そこは彼女、数秒後には、
「ところで……」
と話題を変える。
「平生さんは?やっぱアタシん家にいるの?」
「いえ……今は……」
同じ頃の話になる。月明かりが照らすばかりの暗いビルの廊下をライト片手に歩く男の姿は、格好からして警備員らしかった。足音を殺して進む彼の前に、そのうち─恐らくは唯一の─灯りのついた部屋が現れた。ライトを消して近付きドアを開けてみれば、そこには平生氏の姿があった。テレビを見ながら、手元のテーブルでは、カフェにいたときもそうであったように、また例のひび割れたサイコロを転がしている。目が合ったところ、
「……何のようだ?」
と平生氏に問われた。
「いえ、その……」
と警備員の男が目をそらせば、
「寝込みを襲えば、殺せるとでも思ったか?」
と笑う平生氏。
「いいえ、そのようなことは……」
「残念だったな」
そう言うなり、平生氏はまたテレビへと焦点を移した。
警備員がそれを何も言わずにじっと見つめているものだから、そのうちに平生氏の方から、
「座るか?」
との問いが投げられ、それに彼は静かに首を縦へ振って応じた。
丁度部屋にはテーブルを挟む構図で二つのイスが置かれており、その片方は空いている。つまりは平生氏の向かいとなる席であるが、ここに彼は腰を下ろした。
もっとも、平生氏はテレビの方に意識が向いており、以降この警備員には見向きもしない。そんな時間がわりにしばらく続いて、やっと、
「そろそろ……おやすみになられた方が……」
と警備員から。すると平生氏はイスの背もたれにその身を預けて足を開いて座り直してから一言、
「……友井のヤツから話の顛末を聞くまでは……寝るわけにもいかんだろ」
と告げた。
「ですが、もう遅いですし……」
フンと鼻を鳴らすと平生氏は、
「……オマエが休みたいだけだろうが」
と笑いがちに言い返した。
「違いますよ」
警備員がそう平坦な口調で応じる。
「……そうか」
なんて答えたところで会話はまた中断し、平生氏は再びテレビを注視し始める。そこからの沈黙も長かった。それでもついには、
「今回の襲撃には裏があるとお思いですか?」
との一言にうち破られた。なお、警備員の台詞である。
「何だ?裏って」
平生氏は軽い調子でそう聞き返した。
「いえ、その……例えば、音川さんが裏で操っている、とか……」
「ありえん」
と一蹴。
「……というと?」
聞き返す警備員の言葉に、平生氏は多少不快そうな顔をしてから、
「音川のヤツが考えたにしては杜撰すぎる」
と応じた。
「……あんなヤツにそんな大役を任せるバカがどこにいる?」
嘲笑するような笑みを浮かべてそう一言。平生氏の言葉である。
警備員は返す言葉がなく、また少し黙ってしまったが、そのうちに、
「結構評価されてるんですね」
と口を開く。
「あ?」
聞き返すと共に、平生氏は警備員を一瞥。
「いいえ、その……深い意味はないのですが、少しだけ……音川さんを擁護するような言い方に聞こえたので」
とは警備員の弁。対して、
「まあ、認めたくないところもあるが……しかたがない」
と返した平生氏。
「つくづく恐ろしい男よ……確かに私が殺して、死体まで確認したというに、まだ生きているぐらいだ……しかも、こちらが彼是と譲歩して手打ちにしてやろうとしたに、突っぱねるようなヤツだ。今も何を考えているか、知れたもんじゃない」
言い終わると共に、平生氏は静かにため息を漏らした。
「んまあ……何を考えているかわからんヤツは、アイツだけじゃないが……」
さて、少しばかり時計の針を進めるとして、ここからは水島宅での話になる。
『ご連絡いただいた件についてですが……平生様にはいつもお世話になっており、出来ればお力になりたいとは思っておりますが……小山は仕事でして……』
それを聞いて友井はニヤリと笑い、
「それなら仕方ないですなぁ……」
と答えた。
『申し訳ありません……』
「いえいえ……彼女にはお仕事を頑張るようお伝えください」
『……ありがとうございます。それでは失礼します』
「はい」
話はそれで終わった。
なお、ここからは一文字の話になる。
彼がいたのはテレビ局の楽屋らしい。鏡の前で化粧をする女性が数名。その中に、逆に化粧を落としている女性がいた。一文字は彼女の側に行き、
「友井さんには仕事で行けないと断っておいたぞ」
と告げる。対して彼女は、
「サンキュー」
と振り返りもせず、右手を挙げて応じた。それから一文字が彼女に背を向けて歩き出そうとすれば、
「ついでにさ、家まで送ってもらえる?電車とかで声かけられるのとかダルいし……」
と言い、一文字の顔を歪ませるのである。
同じ頃、水島宅では友井が、
「小山のヤツ……平生さんをなめすぎだろ」
と苦笑しているとも知らずに……
廊下の方へと視点を移す。
「……何でおんねん。ワケをいわんかい、ワケを」
声自体はそう大きくないが、強い語調で再度そう言いつけたのは望月。
「あぁっ……あぁ……」
目の端に銃口を捉えている是近の口から漏れ出たものは到底言葉とは言えないものだった。
「聞こえてないんとは、ちゃうやろ?……ずっとそんなんしとくんやったら……撃ってまうぞ?」
是近は首を震わせながらゆっくりと前向きに振った。
「聞こえてるんやったら、さっさと答えぇや……何でおるん?ええ?……自分、一人だけや?それとも、他にもおるんか?」
震える口で是近は、
「めい……れいで……あっ……アナタから、みず……しまさ……んを…………まもるよう……いわれて……」
と応じた。
「……何でそうなんねん、クソがッ」
銃口で是近の顔を押す腕。
「ふぃぃ……」
是近は肩を上げて脇を閉め、いっそう大きく身を震わせながら、
「ひらおさんが……」
と漏らした。
「……平生?」
「いうとおりしないと……ってぇ」
「ヤツが……ここにおんのか?」
後方より聞こえる声は急激に語調を弱めた。是近が、
「……へ?」
と聞き返しつつ振り返れば、そこには男が中腰ぐらいの姿勢で立っており、
「平生や、平生……ここにおんのかって聞いてんねん」
そう語調をまた強めて言うのである。
「い……ないです」
「そうかい……そんだけ聞けりゃ十分やわ……」
銃口が彼のこめかみを離れた。ホッとして力が抜けたのか、顔から床へと倒れ込む是近。フローリングの床にはそれが意外に大きな音となって響いた。響いてしまった。
「……オマッ」
後ろの男がそう言って間もなく、
「是近さぁん?……どうしたんすか?」
とドアの先で声がした。比良坂の声らしい。
「この……アホがァ」
などと漏らした例の男ではあるが、酔って暴れたあの夜と違って多少なりとも冷静であり、強い語調ながらボリュームは抑えられている。もっとも、その手に握った拳銃の先は倒れた是近の後頭部に押し当てられていたが。
「……是近さん?」
ドアのガラス部分に比良坂のシルエットが見えた。逆も然りで、比良坂からも男の姿が見えたのか、
「あれ?」
と一言。
「なにぃ?」
と部屋の方から別の声がする。女の声だ。
「いや……その……」
なんて言葉と共に、シルエットが横を向いたタイミングだった。腕を上げた男の銃口が火を吹き、シルエットの肩の辺りを撃ち抜いたのは。それから一秒もすれば、シルエットは下方向にスライドするように消えていくのである。また数秒もすれば、部屋の方で悲鳴が上がる。ただ男の耳に残ったのは、横で床に接吻する是近の、
「あぁ……ああっ……」
というような呻き声の方だった。男は改めて銃口を是近の方へと向けてみたものの、その次に彼が、
「か……なっ……」
と言ったものだから、
「何いうてんねん……ソイツなら、オマエのせいで死んだんやんけ……」
と漏らした後、銃を彼から離した。
それからドアのガラス部分に三発ばかり撃ち込むと、拳銃は腰の右に下げた皮のホルスターへと仕舞おうとしたが、一度手元まで戻し、底からマガジンを抜いて残った弾の数を確認する。残りは五発である。
「……まだ、取り換えんでええかな」
マガジンを戻すと、今度こそホルスターへと戻した。それから一応、ベルトについた袋を二つ開けて、それぞれに一つずつマガジンが入っているのも確認した。
その頃ともなれば、部屋でも悲鳴は止んでいた。ドアの前では体の上やら周りやらにガラス片の巻き散った状態で、
「ふぅ……ふぅ……」
と息を漏らす比良坂の姿がある。今彼は右肩に開いた一センチばかりの穴を押さえている。その数メートル先で呆然とそれを見つめる雁谷。かと思えば奥都城はドアの側へと近寄っていく。向こうから見えないようにか屈んでドアの前を通り過ぎると、ドアのノブの横で立ち止まった。手にはナイフを握って。
……そんな中だ。
「出てこい、ゾンビども」
などと呟く友井の声を聞いた者がいたろうか……
部屋から煙が上がり始めたのは、それから間もなくのことだった。どうやら白い粉らしい。
煙は割れたドアの隙間から廊下まで広がっていく。
ドアを背にして望月は、口を左手で覆ってみたものの、多少吸い込んでしまったらしい。いくらか咳き込みながら、
「……クソが」
と漏らした。
そのうち、二本の腕が部屋の方を見つめていた彼の後方より伸びて、その首を締め上げ始めた。
「……ガアッ」
とでもいうようなうめき声を出した望月。足元に目をやれば、煙に覆われた場所ながらも、辛うじて是近の姿は確認できた。
左手で片腕だけでも引き剥がそうとするが、到底離せない。だから彼は右手を動かした。握っていた拳銃を上下持ち変え、銃口を後方に向けて一発。爆音と共に、相手の体は後ろ向きに突き飛ばされた。依然離れようとしない両腕が望月の体も巻き込まんとしたが、多少望月の体が反った辺りで軽く振りほどかれた。
「……アァッ」
無理な姿勢での発砲が堪えたのか、右肩を擦る彼の左手。ただ、いつまでもそうしてはいられず、後ろで倒れたらしい対象が起き上がってくる音が望月の耳へと届けられた。
「なんや、ワレェェ!」
部屋に通じるドアに背を預け、二度目の発砲。白い煙に紛れてよくは見えないが、今度も命中はしたようだ。けれども、今度は壁にもたれるように倒れただけで、すぐにこちらへとまた歩み始めた。
「……なんや……そういうクチか」
望月は動いた。隣の壁に向かって思いきり体当たりしたのである。
─本来ならば、その身が壁へとぶち当たるところだが、そうはならなかった。その理由は、奇妙な話になるが、その体が壁に接した瞬間に消えてしまったから。それはまるで壁に吸い込まれていくように……
室内へと視点を移す。二度の銃声の末、ドアの側にいた雁谷は両耳を押さえ、首を引っ込め、脇を閉め、立ち尽くしていた。数秒ばかりの静寂を経て、友井が、
「……奥都城、ドアを開けろ」
と口を開いた。彼が何の反応も示さないで、更に、
「大丈夫だよ……多分」
と続ける。
それでも一瞬は躊躇した奥都城であったが、数秒後にはノブを引いてすぐに手を離す程度という最小限の動作ではあるとはいえ、ドアを開けた。しかも奥都城はしばらく壁にもたれたまま動かなかったのだが。
「……ほぉら見ろ」
そうして室内の誰もが廊下へと目をくれる中で、それは起こった。新たな銃声、それも逆方向の玄関から。奥都城や雁谷だけでなく、地に伏す比良坂でさえも玄関の方へと向き直った。ただ、友井だけは動かなかった。
「流石は元・自衛官……」
若干だが時間を戻すとして、次に消えた望月の姿を追えば、当然玄関だった。もっとも、この場所でさえもう例の煙にまかれていたが。
しかし移動の直後には、前後左右あるいは上からも下からも、無数の腕が彼の周囲よりその身へと伸びた。腕も足も押さえられた。
「なんやコラァ」
右手に握った拳銃の口が火を吹いた。無理な姿勢での発砲による反動が彼の右肩を苦しめ、その顔に苦悶の色を浮かべさせたが、銃撃に伴い生まれた隙を見逃す望月ではなかった。右腕にまとわりつく何本もの腕を振り払うと、体の右半分をさっきと同じ方法で壁の方へと消した。左半身はいまだ握られていたが、その横より顔を出した銃口の更なる一撃の元にそれは解決された。
「まあ、こちらも相応の準備がある訳で……さあて」
白い煙にただただ覆い尽くされた部屋の中にあって、そう呟いたのは友井である。
それから何秒と経たぬ間に、部屋へ一発の銃弾が撃ち込まれた。
「そら、きた」
苦笑と共にそう言う友井。 しかし、それから数秒の静寂が生まれ、ついには友井が、
「なんだアイツ、早漏かよ」
と冗談っぽく笑い出す始末。
ただし、そう言ってからすぐに銃声が繰り返された。
一発目。『何か』には命中したらしい。丁度人間が片膝をつく程度の音がした。雁谷などは、音のした方に瞬時に向き直り、その蒼白な顔で見えもしない先を見つめているのである。
二発目。今度は肉に当たるような物音はなく、またガラスを散らすのがせいぜい。
三発目。銃声の他に音はしなかった。
四発目。ここでは多少物音が増えた。銃声があって、やはり『何か』へと命中する音がして、若干の足音をたて、更に当たった『それ』が傾いて別の『何か』と接触することで起こる肉のぶつかる音が続いた。
五発目。特に何かに命中した訳ではないが、雁谷の側に着弾し、彼女は声を出しかけて慌てて口を覆った。
六発目。また『何か』に命中して、地団駄を踏む足音がした。
七発目。命中したのは友井の帽子。ただでさえ痛んだ帽子に更なる穴を明ける。ついで、帽子は彼の頭を離れ、テーブルへと落ちた。帽子の落ちる音は、ごく小さいながら、確かに響いた。
─ここにきて友井は、何故かニヤリと笑みを浮かべた。一切その場から動く様子はなく。もちろん、帽子など拾いはしない。
八発目。凶弾は確かに友井の後頭部に風穴を明けた……
煙が晴れ始めたのはそれから間もなくのことであり、同時にバタバタと人が倒れるぐらいの音が聞こえて、そうして全てが露となってみれば、部屋には先程まで舞っていた白い粉と、それにまみれて地に伏す何体もの人間の死体である。うちの数体には、拳銃で撃たれた傷も。そして何より、
「……友井さん?」
テーブルにうつ伏せたまま顔を上げる様子のない友井の姿。比良坂がそう声をかけてみたものの、返事がない。悲鳴を上げた雁谷。そんな中で唯一「あること」に気付いた奥都城だけはひどく冷静に、テーブルに伏す男の側へと近付こうとした。
そうして、奥都城が二、三歩と足を踏み出した瞬間に、拳銃を握る男の右半身が壁から現れたのである。それが誰のものであったかは、いうまでもない……