第五章 今夜走っているかもしれない私たちは
「言っちゃ悪いが、強欲は善だ」
(Greed, for lack of a better word, is good.)
─映画『ウォール街(Wall Street)』より
噂をすればではないが、連絡はその夜のうちに済ませられた。白井との話を済ませた千秋に届いた一通の電話。画面には『シナさん』の文字。あまりにも絶妙なタイミングを訝しげながらも、結局は出る千秋だった。
「もしもし……千秋だけど……」
『あ、千秋クン?』
応じた声は、シナさんとは明らかに別人だった。咄嗟に千秋はケータイを離し、画面の文字を確認したが、やはりそこには『シナさん』の文字が映っている。
『驚かせてたらゴメンね……ボクは時任っていうんだけど、分かるかな?パーティで少し喋った……』
「あぁ、はい……」
と千秋。ごく平淡な物言いで。
『今、訳あって仁科クンのから電話させてもらってる……その、言いにくいことなんだけど……落ち着いて聞いて欲しい』
千秋は黙っていた。状況が理解できていないながら、その表情からは、彼の感じる嫌な予感が伺える。
『率直に言うね……仁科クンが殺された。三日前に』
千秋は何も言わなかった。ただ、ケータイを握る右手に力が入る。
『詳しい話もある……これからの君にも関係のある話だ……悪いんだけど、二、三日中に君の家まで行こうと思う。だから、住所を教えてもらいたい』
「待って……ください」
と切り出した千秋は、そのまま続けて、
「とりあえず、死体の確認を……させてもらえますか?」
と尋ねた。時任は一呼吸挟んで、
『……少し、待ってもらえるか?』
と返した。両者の間に数分ばかりの静寂が訪れる。千秋はまたスマートフォンを耳から離している。画面の端に見える『終話』の文字に視点を合わせ始めた頃、それは届けられた。
『今、送ったんだけど……届いてるかな?』
事実、彼の下には一通のメールが届いていた。社交辞令的な文章を読み飛ばし、下へ下へと進めていけば、そこには……
『……彼の遺体の写真が添付してある』
胸より上を写した男の遺体。確かに時任の言った通り、もう死んで何日か経ったのだろう、顔からは血の気が引き、暗い褐色の死斑も首の後ろや肩に現れている。こうなってみるともう生前の面影は然程伺えないが、それでも千秋にはそれが仁科その人だったものだと理解できた。
『……千秋クン?』
「あぁ、はい……」
ケータイをゆっくり耳元へと戻した。
『……明日、かけ直すよ。また』
「あっ……はい」
通話はそこで終わった。ゆっくりソファーへと腰を下ろして千秋は、少しの間、ぼうっとしていた。それがどれくらい続いた後でか、彼はまたケータイを取り、同じメールを開いて、同じ写真を見た……
ここいらで、別の話に移ろう。
「……用件を言ってみろ」
との平生氏の弁に、比良坂は机上に置いた両の拳を握りしめながら、またあるいは前傾姿勢になりながら、話を始めるのである。
「明日の朝・四時頃にが襲撃を起こるとの情報が……」
平生氏はお冷やに一口つけると、
「……誰からの情報だ」
「水島さんです、水島玻璃さん」
と答える比良坂に、
「あの女の情報なら信用していいだろう」
と平生氏も納得した様子。
「で……誰がやるんだ?」
「……望月大倭です」
「望月ィ~?…………誰だ、ソイツは」
と鼻で笑う平生氏に、比良坂が、
「先日のパーティにもいた……酔っ払いの男で……」
と応じれば、
「ああ……アイツか……」
平生氏は吐き捨てるように言うのである。ついで比良坂が是近の方へ向き直り、
「是近さんは先日のパーティにいらしていなかったので……ご存じないと思いますが」
と告げると、平生氏が続けて、
「奥都城のヤツの仕事は元々コイツの仕事でなぁ……千秋をけしかけるよう言ってはおいたが……パーティをぶち壊すようなマネをしやがったから、私自ら制裁を加えてやったんだよ……」
と言うのである。なお、是近の返事はまたしても、
「はぁ……」
とでもいうような曖昧な反応であった。
「あれだけ恥をかかされれば、大人しくすると思ったんだがなぁ。まさか……俺のジャマをしようなんてバカだったとは……」
首を左右に振り、件の男を嘲笑する平生氏。
「だから言ったろうが是近……こういうヤツがいるから、私も油断ならないんだよ」
そう言う平生氏は自身の薄い右眉を左手で軽く掻いていた。
「それで……そのバカはどこを襲撃する気だ?……本社ビルか?」
「……水島さんの自宅とのことです」
それを聞いた平生氏は、明らかに聞こえる大きさで舌打ちをした。
「バカだと思っていたが……コイツは案外タチの悪いヤツかもしれんな」
平生氏の一言。ところで是近は、話についていけていないのか、目で平生氏と比良坂の両者の顔を交互に確認している。
「……友井はどうするつもりだ?」
「今夜のうちに集められるだけ人数を集めて……水島さんを護送するつもり……だそうです」
「どこへ移す?」
「それが……」
一度うつ向いた比良坂。それから顔を上げて、
「情報漏洩を避ける為にと、教えていただけなくて……現時点では友井さんだけしか知らないと、思います……」
「……そうか」
左手をポケットに入れる平生氏。それからしばらく押し黙った後で、
「……誰が来れそうだ?」
「友井さんの他は、生天目さんと、奥都城さん……それから、雁谷さんも来てくれるとのことです……勿論、自分も……微力ですが」
平生氏は唇を噛みしめつつ、右斜め上辺りを見ている。またしばらくの沈黙を経、
「皆原はまだしも、小山がいないのは痛いが……やむを得ねぇなぁ……」
首を下げる平生氏。続けて、
「護送が終わったら、生天目にゾンビどもを引き連れて水島宅に引き返し、その望月って野郎を迎え撃つよう言っておけ。あっ、いや……」
と言う。右へと目を一瞬逸らした後で、更に続けて、
「……友井と雁谷がいるなら、大丈夫か……奥都城ってのは信用なるかわからんが……生天目には護送に加わらず、水島宅で待機するよう……私にケンカを売った以上、生きては返すな」
と言った。
「あの……平生さん?」
ここで口を開く是近。思わず比良坂が彼の方へと向き直る。
「……自分も護送について行っていいですか?」
「もちろ……」
と言いかけたが比良坂だったが、最後まで言わせてはもらえなかった。平生氏が遮っってこう言った。
「オマエは……生天目と共に望月と戦え」
「……ですけど」
聞き返したのは比良坂の方だった。しかし平生氏はその比良坂の方には目もくれず、
「是近、いいか?……俺はオマエの忠誠心を試したい」
と告げるのである。唾を飲む是近。
「ゾンビどもに倣って……生天目の援護をしろ。いいな?」
是近は、静かに頷く他なかった……
時任の書斎にドアから廊下へと抜ける側に二つのソファー椅子、その向かい側に一つのソファーベッド、その間に挟まれるテーブルを含めてそれらが横幅がほぼ同じになるように配置されていた。このときは、横に棚が置かれ、位置的に奥となる右側の椅子に時任自身が腰を下ろし、そしてソファーベッドの方に難波が座っている。丁度通話を終えて、時任がケータイを置いたところだった。
まず時任は体を左斜め辺りに向けつつ、
「まずは難波さん……お疲れさまでした」
と頭を垂れた。
「別に俺は何もしてねぇけどな」
と笑ったのは難波。
「……ただ、死体を確認しただけでよぉ~」
「いえ……難波さんには運転していただきましたし、場合によっては仁科クンと一戦交えていたかもしれなかった危険な役目でしたし……」
頭を上げた時任がそう微笑みかける。
「しかし……緑川の暗殺を見逃しておきながら、可能なら助けろっては……どういう魂胆だよ?一体……」
唇を軽く噛み、唸る時任。目線はどこか下の方へ。次に、
「まあ、その……信頼関係の問題ですよ」
と応じたのは数十秒後。
「すみません……失礼な話ですが、話していいか悩んでいたもので……」
掠れるような声で、時任は上目遣いで相手の表情を伺いつつ、時間をかけてその一言を捻出するように発した。
「……実は、事前に音川さんとの間に協定があって……ですね」
「協定?」
「ええ……後々のことを考え、彼とは仲良くしておきたかったので……」
難波は目を細め、話に耳を傾ける。
「ご存知だと思いますが……音川さんは仁科クンを嫌っている」
「ああ。前のパーティでゴタゴタあったもんなぁ……」
難波は若干笑いがちに話に乗る。
「あんときは白井とかいうヤツも一緒だったっけか」
「でしたね……」
そう言ったときこそ目を閉じ微笑んだ時任であるが、すぐに表情を変え、
「ですから、音川さんとしては仁科クンを始末したかった……その刺客だったのが緑川さんで……」
時任は再び唸り始めた。もっとも今回は短く、数秒しないうちに、
「情報を持ってきてくれたのは波頭さんでした……そこから、彼を介して音川さんに協力する旨を伝え、今日を迎えました……」
「そんで?」
「協力するというのは……緑川さんを殺して欲しいということです。ボクの手の者なら仮に失敗したとしても緑川さんから音川さんに疑いの目がいかないように、と……その代わりに、緑川さんが仁科クンの殺害に失敗した場合は、ボクの方で保護してもいいという内容でした……」
難波は怪訝な表情を浮かべた。
「言ってる意味がわかんねぇ……音川が緑川の恨みを買わないようにってのは、まあ理解できなくはねぇが……仁科を助けてもいいってんなら、本末転倒じゃねぇか」
時任は静かに頷き、
「その通りです……ボクも同じことを音川さんに尋ねましたが……ちゃんと理由がありました」
と言う。更に続けて、
「ひとつは仁科クンを味方に引き入れるチャンスをつくることで、こちらに貸しをつくらない為だと……そしてもうひとつは、友好関係にあるボクたちの下に身を置くとすれば、もう仁科クンは音川さんに歯向かうことは出来なくなるからだと……」
だと。それでも難波は、
「んなもん、アンタが音川を裏切っちまえば終いじゃねぇか?」
と食い下がらなかったが、
「音川さんとしては……元々ボクらと組むメリットはない」
と時任が応じた為に、彼も黙るしかなかった。
「裏切れないんですよ……ボクたちは。協力を願い出た時点で、音川さんにはこちらの足下が見えている。平生さんの勢力に対抗するのに、ボクたちだけでは到底無理である以上、音川さんの協力を仰ぐ必要があると…現時点で平生さんと一定の地位協定が出来上がっている音川さんには、無意味に彼を敵に回す必要性がない。余程……例えばボクたちが平生さんを倒す秘策でもない限りは……」
「……千秋はその為か?」
「ええ……」
と軽く頭を下げる時任。
「申し訳ないが……今、最も不利な立場にあるのはボクたちです……ただ、音川さんの下に千秋クンの能力または千秋クンと仁科クンの関係は知られていないようだったのが幸いで、こうして彼とコンタクトが取れた」
「千秋が……オマエを信用すると思うか?……友人を見殺しにした男だぞ?」
「……努力はしますよ」
フンと鼻で笑うと、立ち上がり、
「そろそろ……帰らせてもらうぞ?」
と言うと、ドアの方へと歩き出した。だが彼の座る椅子の横に差し掛かったタイミングでもって、
「難波クン」
と呼び止められた。横を向く難波に、時任は横にある棚のある段を右手で触り、
「この棚、何が入っているかご存知ですか?」
と尋ねた。
「さぁね……」
と難波が答えると、時任は、
「そうでしたか……前に、お話したかと思ったんですが……」
と返す。
「……何か大事なもんでも入ってるのか?」
と質問を返す難波に、時任は棚を開けることで答えを提示した。
「……何も入ってねぇじゃねぇか」
「あったんですよ……昨日の夜の時点では、確かにここに」
「……盗難か?」
「ええ」
サッと棚を元に戻す時任。
「警官から盗もうなんて……大したヤツだな、そりゃあ」
「……同時に、とても情けない話ですよ」
と苦笑する時任。
「……で、何が入ってたんだ?」
「時計です……腕時計」
「へー」
と応えた難波の声のトーンは最初だけ若干だが高かった。
「スイスのブライトリング社が出してるナビタイマーというモデルでして……『銀河鉄道999』の松本零士さんも愛用していたという逸品ですよ……」
「そりゃ残念だったな……鍵はかけてなかったのか?」
と難波が尋ねると、時任は真顔でただじっとその顔を見つめ返してきた。難波が
「何だよ?」
とまた聞けば、
「あ、いや……よく鍵のある棚だと分かったなぁ、と……思いまして」
と答える時任。対して難波は、
「直観。別に深い意味はねぇ……んで、結局、鍵は閉まってたのか?どうなんだ?」
と次の質問を投げかけた。
「閉めてましたよ……もっとも、リビングのキーボックスに鍵がかけてあると知ってる人間なら、誰にでも出来る犯行です」
「……だとしたら、特定まで一苦労だな」
「全くです……」
と言ったところで話が終わり、難波はドアへと一歩を踏み出す。ただそこで、
「『シンプルは人間の創造力を奪う』だったかな……」
と呟く時任。振り返った難波が、
「……なんだそりゃ?」
と問えば、
「キャッチコピーですよ……ブライトリング社の」
時任は笑っていた……
時任宅の門の先、
「お疲れさまでした」
と一礼する時任の側で、難波の車は動き出した。
しばらく走り、やがて赤信号で止まった隙に、助手席に置いてあったカバンへの左手を突っ込んだ。右手はハンドルの上に。また顔、あるいは目は信号を見たままで。ただ、そのうちに信号は変わってしまい、
「チッ」
と舌打ちし、車を出した。それからはいくらかの信号を抜けたが、遂にどれにも引っかからなかった。
余程気になったのだろう、終いにはローソンの駐車場で停車し、改めてカバンの中を確認した。そのあとになって、
「何が時計だよ……かまかけやがって」
と言い、カバンを助手席の方にぞんざいに投げ棄てた……
ここからは水島宅での話になる。なお今、数名の男たちの姿がこの家のリビングにあった。この数名とは、中央のソファーに陣取る友井、廊下へと通じるドアの左右には比良坂と是近、壁に軽く凭れる奥都城の四人。そのうちに、一人の女性が廊下側からドアを開け、部屋へと入ってきた。比良坂と是近はドアの開閉の邪魔にはならない場所にいたものの、きもちそれぞれの方向に一歩ずつばかり動いた。
彼女は部屋を軽く見渡し、
「これで……全員?」
と尋ねた。最終的にその視線は友井の方へ。
「ああ……」
という短い言葉で応じた友井は、彼女の方を向いてはいなかった。
「……えっ」
なんて漏らすのは比良坂。例の女性、それから是近が比良坂の方に顔を向け、奥都城も目はそちらに向いていた。
「生天目さんも……来るって聞いたんですが……ボクは……あの、友井さんから」
そう言われて、最初に動いたのは奥都城だった。ベランダ側に歩み寄り、部屋のカーテンを開けると、下を見て間もなく、
「……アイツの車はない」
と言った。続けて女性が、
「それとさ……玻璃ちゃんもまだ見てないんだけど……私だけ?」
と言えば、顔を向けられた比良坂、是近が首を横に振り、奥都城も、
「見てない」
と答えた。すると友井が、
「そりゃ、そうだ……もう、ここにはいねぇんだから」
と笑いながら一言。そしてやっと女性の方を向いたかと思うと、
「出し抜いて悪かったな。もうわかると思うが、生天目に任せたよ」
と言うのである。
「……はぁ?」
と聞き返したのは、当の女性。
「えっ、じゃあ……何の為にわざわざここまで……」
「それは……」
と口を開いたのは比良坂。
「平生さんが……ここで望月を叩けと、お命じになりまして、その……」
比良坂は更に続けて、
「平生さんは、生天目さんにさせたかったみたいですけど……」
と伏し目がちに言った。
「戦うの?このメンツで?」
女性がそう一言。
「いや、えっと……」
と言いかける比良坂から目を離し、彼女は友井を睨みながら、
「相手は望月でしょ?……もう、何で生天目に任せるとかするかねぇ」
と言った。
「そりゃあ、オマエ……この中で一番信用できるのがアイツだから決まってるだろ?」
そう言った友井は笑っていた。対して女性は、もう一度、
「……はぁ?」
と聞き返すのである。
「何それ」
と嘲笑するみたく笑う女に、今度は奥都城が、
「生天目肇は平生さんと金銭的な契約をしている……自ら違約するとは考えにくい」
と淡々とした口調で告げた。
「わかんないでしょ?そんなの……」
とまた人をバカにしたように笑う女性に対し、
「少なくとも……オマエよりは信用できる」
と言い捨てた友井。
「……あぁ?……なんてった?今ァ」
そう声を荒らげる女性を他所に、突然、是近が、
「……あのぅ」
と口を開いた。友井以外の全員が彼の方に向き直る。
「トイレ……どこっすか?」
声を殺して笑っている友井を含め、沈黙する一同。すぐに是近は、
「あ、いや……なんか、悪いなぁとは思うんですけど……ねぇ?」
と釈明する。例の女性が友井の方に向けたのと同じぐらいな目付きで見つめる中、何故か奥都城が、
「向こうだ」
と彼の後ろにあったものとは別のドアを指差した。
「ああ、ありがとう」
とそそくさとそちらへと歩いていく是近。奥都城の側まで来て、軽く一礼した。
そこで一旦会話が途切れた。次に口を開いたのは友井で、腕時計を確認の後、
「まあ、ともかく……」
と周囲を見渡し、
「ヤツの襲撃は四時頃になる。あと約一時間ある訳だ……とりあえず落ち着こうか」
「……誰のせいだと思ってるんだか」
女の一言。
「……雁谷さん」
比良坂がなだめるか止めるようにそう呼ぶが、見向きもされない。
「大体何でアンタが仕切って……」
と女が言っている最中だったが、突然誰かのケータイが鳴り出した。出たのは友井である。なおこれは余談になるが、この着信音、アメリカのバンドであるフージーズが出した『レディー・オア・ノット』という曲のインストゥルメンタルである。
「……もしもし、友井ですが」
『あ、もしもし……友井さん?いつも御世話になってます……一文字です。お時間よろしいでしょうか?』
「ええ……勿論です」
水の流れる音がした。ドアが開き、是近が出てくる。是近はリビングへと向かおうとしていたが……
突如として背後から腕が延びたかと思うと、その左手が彼の口を抑え、右手はハンドガン─自衛隊で採用されている9m拳銃というタイプ─を握り、その銃口をこめかみに押し当てている。そして彼の背後、ごく小さな声で、
「……何でオマエがおんねん」
と聞こえた……