第四章 慣れ
「俺に用か?」
(You talkin' to me?)
─映画『タクシードライバー(Taxi Driver)』より
まずは、千秋の話から。
この日の夜、仕事から帰った彼は、何度か『シナさん』をコールしていた。
「流石に……何日も連絡取れないって……おかしいよな」
なんて呟き、ネクタイこそ外していたが、スーツ姿のままソファーに横になった。しばらくぼんやりと天井を眺めていたが、そのうち、
「……聞くだけ聞いてみるか」
と、ある人物に連絡をかけた。スマートフォンの画面に浮かぶ『シロ』の文字。
「もしもし……白井さぁん?あ、俺さ、千秋なんだけど……」
『んー?』
低い男の声でそう返ってきた。それから、数秒ばかりの沈黙。
『……千秋クン、どうした?』
と口を開いたのは、電話の相手から。千秋の方は、
「あっ、ああ……」
と困惑している様子である。
「いや、その……最近、シナさんと連絡取れてなくてさ……何か知らないかな、って」
『いやーーー?』
「……そうか」
二度目の沈黙は必然的に訪れる。数秒後、
「ありがとう。えっと……」
と話を切り上げにかかった千秋に、
『まあ、心当たりがない訳じゃあないが』
と応じる白井。
『そうだな。アイツのストーカーを知ってるが…………まあ、堅実なところだと、時任に話を聞いてみるのが、はやいんじゃあないかな?』
「……時任さんかぁ~」
女が部屋を去った後、時任は書斎にいた。
『……let you murder it』
曲が間もなく終わるらしく、その手はもう停止ボタンの上に置かれいたが、それを待つ数十秒という時間は焦れったかったのか、彼はその下の棚へと手を移した。その棚は本来鍵がかかっていた筈が、棚は簡単に空いた。慌てて彼が一気に棚を引き抜くと、中には何も入っていない。思わず時任は立ち上がってしまった。
『You can't push it underground……』
そんなワンフレーズが耳に入る。曲はまだ続いていたが、もう時任は停止ボタンを押した。時任はしばらく右手の甲を鼻に当てたまま立ち尽くしていたが、そのうちに手を除け、
「平生か、それとも……」
と漏らすように言った……
平生氏の話になる。
この日、彼がいたのはカフェ・カンタンテ『ボルボン』という店。向かいには彼が是近と呼んだ一人の青年が座っていた。平生氏は今、ひび割れた小さなサイコロをひとつ、左の掌の下に敷いて車輪のように机上を転がしている。何度か、手からこぼれながらも。
なおカフェ・カンタンテとは、フラメンコ・ショーの上演される飲食店を指す言葉である。
そのうちにウェイトレスが彼らの腰かけるテーブルの側までやってきて、
「ファバーダのお客様?」
と尋ねた。応じたのは平生氏の方だった。
「……私だ」
平生氏が左手を机から下ろし、サイコロはスラックスの左のポケットに仕舞うと、ウェイトレスは彼の前に皿を置いた。
ウェイトレスが去った後で、左手でスプーンを取り、平生氏は、
「……ファバーダって、何か知ってるか?」
と問う。
「いえ……」
スープをかき混ぜる平生氏。
「ファバーダってのは……スペインの伝統料理で、要するにインゲン豆のスープだ。ソーセージが入ってる場合もあるが……」
そこで間を置いて平生氏は、スープの中からひと切れの肉片を引っ張り出すと、
「コイツは珍しい……」
と漏らした。そこからスプーンを少しばかり持ち方をかえて、それを是近にも見えるようにすると、
「……何かわかるか?」
と聞いた。
「えっとぉ……」
スプーンを注視する是近だったが、平生氏は少しするとスプーンを是近の方に近付けたり、離したり、また揺らしたり。そして終いには、食べてしまった。
「……あっ」
と是近が呟く。
「時間切れぇ……答えは豚の耳だ」
「……はぁ」
是近は若干斜めに首を下げた。
「食え、食え……料理が冷める」
「……はぁ」
曖昧な返事を返し、是近は目前の料理に手をつけた。
彼が注文した料理は、固いパンを刻んで水で湿らせ、ニンニクとオリーブオイルで炒めたもの。上には目玉焼きが乗っている。
是近がそそくさとそれを口に運んでいると、
「……音川は元気か?」
と平生氏が尋ねた。是近のスプーンを持つ手が止まった。
「最近……通いつめてるらしいじゃないか……」
平生氏はあの裂けたかのような大きな口で笑いかけている。
「あ……いえ……その……」
ただでさえそう大きくない是近の声がなお小さくなる。
「……是近ァ~、いいか?」
前傾姿勢となる平生氏。手元に目をやれば、右手には今は一丁のマスケット銃が握られているらしい。その銃倉部分がテーブルクロスの下から顔を出している。
「俺に逆らえば、どうなるかはわかってるよな?」
平生氏は、この一言に合わせ、言い方はおろか顔の表情さえも大きく変容させた。
「もう……オマエの代わりはいないぞ?」
「……勿論です」
顔を下げる是近。
「警告はしたぞ?……いいな?」
「はい」
是近の返事を聞いたところで、平生氏はまた顔に笑みを浮かべ、
「……分かればいい。分かれば」
と答えた。その手に握られていた銃も、もうなくなっていた。
両者の間に数分の沈黙が生まれ、その間に机上の皿もいくらか片付いた状態となる。
「もう……ご心配になることもないのでは?」
そう口を開いたのは、是近の方だった。
「そりゃ……実力者は何人も残ってますけど……平生さんの地位を揺るがす程では……」
「……ダメなんだなぁ、それじゃあ」
と平生氏も口を開く。
「脅威が知れているということは、逆に言えば手の内が相手に知られているということだ。オマエが言うその何人かのせいで……私は枕を高くして眠れない」
そう言うと、左手をフォークに持ち換え、スープの中へと刺した。容器のもう三分の一も残っていないかというスープを軽くかき混ぜながら、話を続ける。
「今、奥都城とかいったか……ソイツに千秋って男の威力偵察を任せていた。ついでにソイツ自身の身の上についても調べさせていたが……これも全て、私の為だ」
スープから抜いたフォークを、是近の方へ見せびらかすように掲げた。
「私が全てを牛耳っておかないとねぇ……」
そう言いフォークを口元に近付けたとき、急に平生氏は鼻で笑ったかと思うと、
「まあ、コイツは豚の耳だがね」
と呟いた……
背中に黒い蝶の載った青白いパーカーを来た男が店に入ってきたのは、それから何分と経たない内だった。
「……比良坂」
その名前を呼んだのは是近の方だった。
「比良坂です……あれ……」
と是近が指差すと、平生氏もその顔を確認し、左手で手招きをした。ただ、肝心の比良坂は店員に呼び止められ、
「ああ……その……」
と困った様子である。慌てて平生氏はその場に歩み寄り、
「私の友人だ……」
と弁明。それから店員と二言三言の言葉を交わし、平生氏は比良坂を自身の座るテーブルへと案内した。是近の横に座る比良坂。
「……そんなに慌ててどうした?」
とは平生氏の弁。
「いえ、その…………お伝えしたいことが……」
─暗い夜道をひた走る一台の車。車種は銀色の日産・ティーダ。運転席に腰を下ろす男は、生天目兄妹の兄。助手席にはその妹。バックミラーで時折妹の様子を伺う兄に対し、妹はどこか下の方を見ていた。
この車内において、二人の間にずっと会話はなかったが、車が橋を過ぎた辺りで、
「最近……何かやってるよね?」
と妹から口を開いた。顔は下の方を向いているが、彼女もまたバックミラーで兄の顔を確認するのである。
「……何だ?」
と聞き返す兄。
「聞き込み、とか……色々……」
「……それがどうした?」
首を兄の方に一度向けたが、すぐに窓の方へと向き直った妹。少しばかりの静寂を挟み、
「まあ……口止めされたわけじゃないし……」
またバックミラー越しに兄の顔を見た妹。もっとも、窓の方に体を向けたままではあったが。
「……聞くか?」
妹はゆっくりと一回首を縦に下ろした……
─俺が調べていたのは、奥都城倫敦という男だ。精肉店で働いている。
父親は鉄道員をやっていたが、皮肉にも酔って駅のホームから転落し、そのまま列車に轢かれて死んだ。
母親は水商売をしていた。もっとも、性格の悪さから評判はいいとは言えず、年齢的なこともあり、客引きにかなり難儀していたらしかった。
……そんな母親にとって、息子は丁度いい不満の捌け口だったんだろうな。意味もなく暴力を振るわれたり、タバコを押し当てられたり。また相手の証言によれば、幼い息子の目の前で客との行為に及んでいたこともあったようだ。
もっと酷い話もある。
奥都城が小学校に上がる頃に、本人の希望で一匹の犬を飼うことになった。イングリッシュ・フォックスハウンドのメスで、メアリーと名付けられた。友人と呼べる友人がいなかった彼にとって、メアリーは無二の親友といえ、寝食さえ忘れ可愛がったそうだが……
ある夜のことだ。その日は母親の機嫌が悪かった。客が取れなかったのだ。
そうして家に帰ってみれば、愛犬と楽しげに戯れる息子がいる。それが気に入らなかったのだろう、母親は異常な行動に出た。
……包丁を持ち出し、我が子から愛犬を強奪すると、愛犬の喉を掻き切って殺した。
それから、こう言ったそうだ。
「『オマエは一生、私の奴隷だ』」
妹は何も言わず、ただその目を伏せた。そんな様子を横目に見た兄は、
「……話さない方がよかったな」
と呟いた。
車があるアパートの前に停まったのは、それから数分後のことだった。
「……それじゃあ」
と兄が言いかけたとき、妹は兄の方を向いていた。
「その……お母さんというのは、どうなったの?」
尋ねる妹に、兄はこう返した。
「……もう、死んでる」
妹は顔を歪めた。
「……病死だ。客からうつされたらしい」
「あー」
そう言った妹の表情はごく自然なものへと戻っていた。
それから一呼吸挟んだのち、車から降りる妹に兄は、
「………奥都城には前科がある」
と話しかけた。一瞬背を向けた妹が振り返り、兄の顔を見た。もっとも、肝心の兄の方は正面を向いたままだったが。
「相手は水商売をしていた女で、薬を多量に服用したことが原因で意識不明の重体になり、そのうち死んだそうだ。あの男はそれまでに何度も同様の行為に及んだことが確認されていて、警察はそういう趣味の男だということで片付けたが、投与された量には個人差が見られた……つまりアイツは、試していた可能性がある訳だ。人間はどの程度の投薬で死ぬのか、を」
兄が車を出したのは、そう言ってからすぐのことだった……
その後、自宅へと走っていた生天目・兄の車だったが、突然の着信があり、近くのファミリーマートに停車。急遽かけ直す。
「……もしもし。はい……わかりました。すぐに向かいます」
ほんの数秒の電話を経て次に車が動き出したとき、生天目・兄は来た道を引き返す形となった……
─これも同じ日の話。時間帯も同じくらいだったろう。
古びた一棟のアパートの前に停まった一代の車。車種は黄色のアウディ・S1。運転席に腰を下ろす男は、髪型はショートボブで、黒いポロシャツにカーキ色のチノパン着用。色白で柔和な顔立ちはまるで女性のようだが、
「うわ…………クモの巣張ってんだけど……」
などと漏らすその声は、不釣り合いな男のガラガラ声である。
「ムシ、ヘーキ?」
と彼が後方へと目をやれば、後部座席に女性。赤いフチの眼鏡をかけた女性である。
「……えっ?」
うつ向いていた彼女は顔こそ上げたものの、その目は男の方を見てはいなかった。一瞬ぐらいは目が合ったかもしれない。しかし、彼女の両目は自身でも制御できていないらしかった。
「ああ……ええと……」
女は両手の指を合わせている。その目線は依然泳いだまま。
「……あっ、そう」
と嘲笑するように吐き棄てると、男はまた正面へと向き直った。それから彼は一度若干肩を上げて首を伸ばすと、広げた右の掌を手首がアゴを、小指が鼻の穴を覆うようにして当ててつつ、首を左へと傾ける。そのままぼんやりとアパートの入り口を見つめていれば、一人の女が出てきた。黒っぽいスキニーに、上は大きな緑の眼がペイントされたTシャツを着ている。緑川瞳、その人である。
「……来たぞ?」
振り返りもせずに、そう一言。
間もなく、緑川は助手席へと駆け寄った。
「遅かったな……」
助手席へ腰を下ろす緑川。後部座席の女が動いたのは、それからすぐだった。
緑川の首へと巻きついたロープ。女は助手席の背もたれの裏側に背を合わせ、体育座りのようにして助手席と後部座席の間の狭い空間へと身を押し込む。緑川は、声を上げる暇もなかった。首元へと伸ばした両手は、肝心のロープに触れることもできないままに、助手席の両脇へと落ちた。呆気ない幕切れであったが、それでもこれが彼女の最期だった。
「……早かったな」
と呟く男。
車の中には、小刻みに震える女の荒い息遣いだけでしばらく満たされていた。ただそのうちに男が、
「……部屋の様子は確認したのか?」
と口を開いた。女が横顔が見える程度に振り返って頷くと、
「んで?……アイツはどうなってる?」
と質問を続けた。女は今度は顔を逸らして、
「血を流して、仰向けに倒れたまま、でした……」
と答えた。
「死んでるか、生きてるかは……分かるか?」
女は首を横に振った。すると男は舌打ちをしたかと思えば、ベルトを外し、肘でドアを開けた。ドアの開く音に合わせて女が首を向け、
「難波さん?」
と言って呼び止めるも、男の方は、
「……確認してくる」
と言い残し、ドアを閉めた。
難波が部屋に入ってきたのは、それから間もなくのこと。
部屋にはキッチンをドタドタという進む荒っぽい足音が聞こえてくる。やがてキッチンからリビングへと抜ける戸の隙間にその姿が見えた。それは相手も同じで、拳銃─スイスのシグ社が出してるP230JPという種類─片手に近付いてきて、
「おはよう」
と言い、部屋を見渡した後で、
「……は、おかしいか?」
と笑いかけた……