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冷笑(旧)  作者: 仁科学
ヴィクトリア朝の亡霊
3/11

第二章 灯りのない町で

「これがご挨拶だ!」

(Say 'hello' to my little friend!)

─映画『スカーフェイス(Scarface)』より

電話口に立つ俺は、内心では不快に思いつつも、緑川の立場を考慮して、

「ひとまず……話は聞くけど……」

と言った。

『お友達の千秋クンについて、だよ。彼の身が心配だ』

そう時任が口にしたとき、俺は思わず受話器を強く握った。

「……アンタに何の関係がある?」

そんな言葉が口をついて出る。呟くように、漏らすように。

『……その通りだ』

時任はゆったりとそう返した。

『パーティの間に二言三言話をさせてもらったが……まあ、あってないようなものだ』

「なら……どうして?」

電話越しにアイツの息遣いが聞こえ、それから二秒とか三秒のごく短い静寂を経て、

『いい加減、やめにしないか?……このバカげたいさかいを』

と一言。先程までと違い、落ち着きながらもいくらか強い口調で。

『こちらからの提案は、千秋クンへボクの下に来るよう口添えしてもらいたい……ということなんだよ』

この一言になると、また物言いは穏やかで優しげなものへと戻っていた。

「……俺がアンタを信用できると思うか?」

『確かに、約束はできないかもしれないが…………考えてみて欲しい。君たち二人だけでは……無理ではないにしろ、困難を極めることになるだろう……ボク以外に寄神さんや徳国とくぐにさんもいる……他にも何人か声をかけていて、まあ、どこまで信用に足るかは分からないが……君らに味方する人間が増えるんだ。悪い話ではないと思うんだけど……』

俺はそう言われ、なんとなくだが緑川の顔色を伺ってみた。この時の緑川はほとんど真顔だったが、俺と目を合わせたときに、目を細めて首を前に振った。意図することは容易に想像できた。話に集中しろ、と。そんなところだろう。

『現に……もう襲撃のひとつも、あったんじゃないかい?』

……悔しいが、事実だった。


─男はゆっくりと受話器を置いた。

「……友井ともいさん?」

パーカー姿の青年は彼の方をじっと見ている。

「……仕事が入ったんでよぉ……少し出てくる」

そう応じた男が今青年に見せているのは、自身の背中である。それから男は、ドアノブをサッと回すと、山高帽を押さえつつ首を曲げて、部屋の外へ。

「暇ならマスでもかいて待ってな」

ドアを開けたままに部屋を出る男。後には男の高笑いが廊下にこだました。


同じ頃俺は例の居酒屋にいたが、それがトイレから戻ったタイミングだった。

「……短い電話だったな」

と千秋が呟いた。

「ああ……まあ、ちょっとした会社の業務連絡?みたいなのでな」

首を傾げがちにそう話す俺に、

「……そっか」

と応じた千秋は、それ以上の詮索をしなかった。

「……まだ何か注文するか?」

俺たちのテーブルの上にはもう料理の乗った皿はない。

「……俺はいい」

と千秋は言った。口には出さなかったが俺も同意見だったので、注文はしなかった。

「……結構食ったのな、二人にしちゃ」

俺は左手で摘まんだ楊枝で歯の間に挟まった肉片をつついていた。

「……お互い結構少食なのに、よぉ」

と俺が言うと、千秋は目を細めたまま、何も言わずこちらを見ている。

「……何だよ?」

聞くと、

「……高校んとき、俺の弁当まで食べてたのに」

と一言。

「オメェが食べきれねぇっていうから、もったいないんで無理してでも食べてたんですよぉ、俺はぁ!」

右の拳で机を何度も叩いた俺。そんな俺の姿が可笑しかったのか、笑い出す千秋。そして、

「でもさ……一日何本もジュース飲んでたじゃん?」

と続けた。

「ノドが渇いたんだよ!あんだろ、そんぐらい……俺は蛇口の水飲まない人だし」

俺は右手で頬杖をつく。

「大体、白井しらいのが食うだろ?俺より」

「……だっけ?」

千秋は首を傾げた。

「……正直、シロとの思い出とかないんだよねぇ。悪いけど」

と千秋は呟いた。

「……思い出」

俺は少し考えてみた。考えてはみたが、

「俺も大したことは浮かばねぇや」

というのが結論だった。

「……流石シロ」

と言った千秋の台詞は、いうまでもなく皮肉である。

「そういや、シナさんに聞いときたかったんだけど……」

千秋は若干左に体を傾けると、机上に指を組んだ両手を乗せた。

「……何さ?」

「……シロも参加者だったんだよな?……もう脱落したって聞いたけど」

「ああ……」

俺が頷くと、

「……どうだったんだ?」

と尋ねてきた。

「……どう、ねぇ」

多少ため息みたくかすれた声になった。それから俺は少し考えてみたが、はっきりとした回答は出ず、

「……まあ、一言では言えないわな」

と濁した。

「んー?」

千秋の一言は、意図してかどうかは知らないが、話題に挙がっている白井の言い方によく似ていた。

「だってさぁ……まあ、意外とスパン長いし……難しいじゃんか?」

「いやーー?」

間延びした言い方。やはり白井のマネらしかった。

「……なんか、ムカつくな」

と俺は苦笑した。

「うん、まあ……そうだなぁ」

特に意味はないが、何となく上の方に視線を移した。強いていうなら、自分の脳の中を覗こうとする所作。勿論見える訳ではないが。

「やっぱ、どうだって断言はできないかな……」

と応じた。

「でも、まあ…………」

俺は唇を噛んだ。

「……正直、何もできなかったような気が、な」

そう言うと千秋は笑いかけたが、

「……俺も含めて」

と伏し目がちに続けると、千秋も微妙な表情を見せた。

「ああ……深い意味はないんよ?」

慌てて俺は笑顔をつくったが、はたして彼の目にどう写ったのか。

「そうなのか……」


それからしばらく話を続けていたが、そのうちに、

「……そろそろお開きにしようか?」

ということになった。

代金の一の位が三で終わっていたせいで、二人で割るのに一悶着があったものの、結局は俺が二円払い、千秋が一円ということで話がついた。

「……んじゃまた」

「おう」

先に背を向けて歩き出したのは俺だったが、何歩か出たところで振り返った。千秋の背中は随分と小さくなっていた……


─翌日の夜の話に移る。

開いた窓より月光が射し込むだけの暗い部屋の中には、香の煙が漂い、家具などはなく、あるものは彼が腰を降ろすイスとテーブルと一枚の絵画だけ。そんな部屋に、奥都城倫敦の姿はあった。男の目前にあったのは、ロンドンに拠点を置いて活動したスペイン出身の画家ルイス・リカルド・ファレロが一八七八年に描いた『サバトに赴く魔女たち』の図である。目を閉じ、その体は微動だにしない……


千秋が会社からの帰路につくのも、おおよそそんな頃だった。

格好は黒いジャケットに白いシャツのスーツ姿で、黒い斑点のあるオレンジ色のネクタイを締めていた。別段アルコールを摂取した訳ではないハズだが、酔っ払いのようにフラフラ歩いている。カバンが右へ左へ揺れていた。

「……意外と遠いんだよな、駅から家まで」

ため息交じりにそう呟いた。

駅から彼の自宅までの道のりは裏路地を通る道で、そこそこ遅い時間ともなれば、誰ともすれ違わずに帰り着くということも珍しくないという。現に、この日の途中までがそうだったのだから。


そうして彼の住んでいるアパートが見えてきたとき、何気なく千秋は周囲の民家を見渡した。灯りの消えた家が並ぶ中、千秋の視線はある家の二階のベランダへと向けられた。

そこにいたのは、青ざめた顔の女。星でも眺めているのか、その視線はどうも上の方を向いているらしかった。

こんな時間に人を見かけるのが珍しかったのか、千秋が見つめていると、彼女の家の前に差し掛かったときに、まさに狙ったような絶妙なタイミングでもって、彼女が視線を下げ、千秋の方を見たのである。目が合った。

女の表情に特別な感情は見受けられなかったが、千秋は突然のことに驚き、不気味に思って駆け出していった。


ただ、この日はそれで終わりではなかった。ある公園の角を曲がり、それから遠くに目をやれば、無灯火で、しかも結構なスピードを出して走ってくる自転車が見えたのである。丁度、千秋の直線方向に。

別にそこまでする必要はなかったかもしれないが、左右の端に白線が引いているだけの割に狭い道路で、加えて相手はライトを点けていないという状況に、危なっかしいと思ったのだろう。千秋は道の逆側に寄った。

次第に近付いてくる自転車。乗り手は自転車用のヘルメットを被っていて、これに隠れる形で顔は見えないが、大柄な体躯から男性らしかった。彼はそのまま横を通りすぎていく……

ハズだった。


自転車は彼の斜め数メートルという位置で進路を変えたのである。向きは左斜め、千秋のいる方だ。もう一度言うが、この道は白線が引いてあるだけ。ガードレールはない。そして、自転車も結構な速度を出して向かってくる。

咄嗟に飛び退いたお陰で千秋にはぶつからなかったが、自転車は壁へとまともにぶつかり、タイヤはパンク、乗っていた男は投げ出されて地面に倒れた。


千秋は地べたに尻餅をついたまま、動けないでいた。

すると、倒れていた例の男が突如起き上がった。先程派手に転んだのがまるで嘘のように。ただ、立ち上がってすぐにフラりと立ちくらみ、その拍子にこめかみ辺りから流れる血が飛び散って、やはりこの男は転倒したのだと、その惨状を物語り始めるのであったが。男は自分がぶつかった壁の方を見ている。

千秋は数秒ばかり躊躇したが、結局、

「……大丈夫、ですか?」

と声をかけた。かけてしまった、というべきか。

男が千秋の方に向き直った。ごく自然に。やがて月明かりがその容貌の一切を浮き彫りにした瞬間、千秋は言葉を失った……

男の顔は、横を向いたとき千秋に見えていた右半分は、右目があり、鼻があり、右耳があり、口があり、ヒゲを生やしている……別になんてことはない普通の男性の、人間の顔をしていた。しかし、もう半分はそうではない。この男の顔の左半分は皮膚に覆われてはおらず、左目は潰れ、左耳は切り裂かれ、人体模型よろしく筋肉と骨、血管などが剥き出しになっていた。血を流していたのもこちら側から。男の顔は、笑っていた。痛みを感じている人間の表情ではない。

千秋は思った。これは生きている人間ではない、と。理屈ではなく、直感的に、あるいは本能的に。悟ったといってもいいかもしれない。


千秋は尻餅をついたその姿勢のままに二、三歩ばかり後退りした。

あるいは、引き返すという選択肢もあったかもしれないが、彼の脳裏にはジロリとこちらを見下ろす二階にいたあの女の顔がよぎった。キョロキョロと周囲を見渡し、少し前に通った公園の方に目を止めた。

おそるおそる立ち上がると、男に背中を見せないようカニ歩き、そして白線をまたいだ辺りからは全力で走った。逃げた。ただただ、逃げた。


公園を突っ切る。

生垣に囲まれた公園の開かれた場所は、その出入り口とでもいうべき、せいぜい二人ずつしか通れないような狭い道の先にあり、そこを過ぎて広場を横切ったなら、同じような小路に再び遭遇する。道を走っているうちは、そこを出た先に何があるのかは見えない。更に悪いことに、千秋は然程目がよくないのである。

だから、踏むまで気付かなかった。広場に足を踏み入れるほんの二、三歩前に転がっていたものを……


奥都城の部屋に視点を移そう。

窓から一匹の黒猫が部屋への侵入を試みる今、奥都城はそれに背を向けたまま微動だにしない。猫は窓から飛び降り、部屋に入ると、音を立てぬようゆっくり歩いてその側まで来たが、煙のせいでよく見えていなかったのだろうか、奥都城の右足にぶつかってしまった。すると、奥都城の身体は脆くもイスから落ちて、横向きに地面に倒れた。しかも、倒れてから何のアクションもないのである。まるで、そこには魂が宿っていないかのように……


千秋の話に戻る。

踏みつけた感触は最悪のものだった。ごく小さくブチッという音がした。千秋本人は一瞬人体の一部かと錯覚したが、ゆっくりと足を上げてみれば、それは首に一本線の傷がある一匹のアカギツネの死骸であった。フゥと息を漏らす千秋。後ろから足音はないが、警戒してか何度か振り返りつつ、今度はキツネの死骸を避けて、ゆっくりと広場の方へと進んだ。


そうして開けた場所まで来ると、自然と目に入ったのは、彼から見て右側、入り口の側の生垣に立つ一人の男性だった。ハンチングを被った壮年の男性で、先程見た自転車乗りに比べればまともな人間のようであるが、その顔は到底血が通っているとは思えない青ざめようである。

この男と目が合った千秋が、やはり背を向けないようにして、一歩、二歩と後退りする。すると……


「……え?」

腰に何か当たった。棒状のもので、何よりも熱いという感覚が優先した。

振り返った千秋が見たのは、自身の真後ろに立つショートカットの女。やはり肌は青白く、更に見れば首にキツネのときと同じように一本線の傷がある。女は前傾姿勢になっていた。徐々に視線を下げていけば、そこには一本のナイフが握られていた。

……そう、彼の腰に当たっていたのは、一本のナイフだったのである。いや、刺さっていた、というべきだろうか。


……不思議と千秋は冷静だった。彼が目を逸らすと共に、女の体が一歩ばかり後退、それから見ると右の脇腹に刺し傷ができていた。丁度ナイフを刺した程度の傷が。

ナイフは女の動きに合わせる形で千秋の腰から抜き取られた。痛いというよりは熱いという感覚が勝ったといい、そもそもがナイフの刃は深く刺さっていた訳ではないらしかった。ただし、服が濡れていく感触から多少の出血があったのは理解できたという。

「……あっ、ああ」

思わず声が漏れる。少し猫背になり、腰を押さえた。

しかし、ゆっくりもしていられなかった。彼が今度は女の方を注視しつつ後ずさっていると、今度はハンチングの男性が後ろからその首に手をかけてきたのである。

千秋にとってそれは、掠れるような声を漏らす程に強烈な締め付けではあったが、振り返りその位置を確認したところで、その身体はひとりでに後ろへ押し出され始めたのである。足元には引きずられたような跡が残り、首には数秒間、指ぐらいの形をしたへこみが現れた。

すぐに女の方がナイフを突き立ててきたが、今度は当たらなかった。千秋が彼女の方は見つつも、スキップぐらいの調子で後ろ向きに広場側に飛び退いたからである。逆に彼女は、また弾かれたように体が後ろへと動き、胸の辺りに刺し傷がついた。

……もっとも、どちらの傷からも血が流れる様子がなかったが。


二人に背を向けないようにしつつ、奥へ奥へと後ろ歩きで進む千秋。歩きとはいってみたものの、小走り気味に動いていた。

突き立てられるナイフを避けながら後ずされば、女の体は弾かれる度に、腕やら肩やら傷が増え、男性の方も横から襲いかかるが、押し返される。


そんなやり取りを何度繰り返したろうか。千秋の足が砂場を囲う段差に当たったときだった。砂場から一本の腕が飛び出て、彼の足首を掴んだのである。

千秋は顔面蒼白、数秒あまり何もできずに手を見ていると、ひねりながら中へと引きずり込もうと動くのである。

……とはいえ、その手は見えない腕に捻られでもしたように不自然に動くと、千秋から手を離すのであるが。

この間にも例の二人の攻撃は続いていたが、彼らが千秋に触れることはかなわなかった。それどころか、男が跳ね返った拍子に女がナイフを突き立てたが為に今度は深く刺さったらしく、抜けるまで多少のタイムラグが生まれる。


この隙に砂場から離れると、今度はジャングルジムに寄り、ここに背を預け、千秋はへたれ込んでしまった。


たかだか数センチのナイフである。皮膚を突き抜けたといえど、臓器などに達していた訳ではない。

……もっとも、痛みに関してはその際限ではないが。


夜更けの公園に響く男の叫び声。少し落ち着いた為にか、逃げなければという使命感が忘れさせていた痛みが彼を急襲する。

千秋は思った。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。逃げ出したくてたまらなかったが、痛みと痺れでもう動けそうにもなかった。


絶叫が彼らを眠りから覚ませたとでもいうのだろうか。砂場からは二人の男が立ち上がり、砂も払わずに歩いてくる。逆側からも三人の男女が歩いてきた。うちの一人の女はハサミを握っているし、別の男の手にはサバイバルナイフが握られている。

先程追い回していた二人も近付いてきている。


千秋は大慌てでスマートフォンを引っ張り出し、『シナさん』をコールしたが、出なかった。

「……もう、ヤダ」

などと漏らす千秋。

そんな状態の彼に気付くことを強いるのは酷な話だが、実はこのとき、誰も乗っていないハズのブランコがひとりでに動いていた……

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