序章 ウェンブリーにて
「僕は平和が怖い。何よりも怖い。……地獄を隠しているような気がしてね」
(È la pace che mi fa paura. Temo la pace più di ogni altra cosa: mi sembra che sia soltanto un'apparenza, e che nasconda l'inferno.)
─映画『甘い生活(La dolce vita)』より
その日、俺は夢を見ていた。奇異な夢だった。
四方八方どこを見渡せどただ暗闇が広がる世界にあって俺は、ただ女の背中を見つめていたのである。彼女は何か白いオーラのようなものをまとい、不思議なことにその姿だけはこの暗黒の中で克明に映ってい た。金髪にも茶髪にも見える長い髪をなびかせながら、彼女はどこかへと歩いていく。ただ、その動きは少々不自然で、足音はしているものの、足を上げたり下げたりという動きは見られず、まるで地面を滑っていくようで、それでいて動きは存外緩慢なものだったのである。この夢が始まったときから、既にその後ろ姿は随分と遠くに見えていたが、俺は一目で分かった。彼女を俺は知っていた。
「……待ってくれ」
と呼びかける。あまり大きな声ではなかったから、あるいは聞こえなかったのかもしれない。相手は返事もしなければ、振り返る素振りさえ見せない。
「謝りに来た……ずっと……言いたかった……」
今度は声を張って喋ったが、状況に変化はなく、ただ広さも定かではないこの暗がりの部屋にその声がむなしく響くだけだった。
「俺は君がいなきゃダメなんだ……側に、俺の側に……」
そう言う俺の叫びは、ただ声を上げたからだけではない震えを持っていた。両目に溜まった涙のせいで、彼女の背中が歪んで見えている。そんな俺の様子を知ってか知らずか、女はこちらに見向きもせず、何もなかったようにどこかへと歩みを進めるのである。ここまでと何らの違いもなく。
「ずっと考えてた…………ずっとだ。それでも、何もできなかった。ずっと、同じところを回ってるみたいだった……それで……」
小刻みに震え出す体。俺の両目はもう、背中を追ってはいなかった。俯き、口を閉じて、ただただ震えていた。……涙を足下に落として。
「……もう、何も言っちゃくれないのか?」
返事はない。
「やり直したかった…………あの日に戻って」
自嘲気味な笑みを浮かべ、独り言みたく小さな声で。それから先はもう、俺は一言も口にはしなかった……そうしてしばらくの沈黙の後になって、俺はあることに気が付いた。止んでいたのである、あの足音が。顔を上げると、あの女は確かに歩みを止めていた。そして、ゆっくりと、こちらを振り向こうとした。髪がなびいた。鼻先が見えた。そして、
……夢が醒めた。
意識の戻った俺は、ベッドにうつ伏せて眠っていたその格好ままに、ベッド横の机の上にあったデジタル式の置き時計を掴んだ。寝返りをうつように仰向けになり、左手に握られた時計の時間を見れば、五時十一分だった。より正確には、十七時十一分である。時計は元の位置に戻す。それから後頭部をかきむしり、机があるのとは逆の側を向くと、しばらくぼんやりとその辺りを見つめていた。別段、そこに何かがあるというのではない。
……ため息が漏れた。なお、この時点で俺の両目は『ヤツ』を捉えていたが、このときは気にも留めなかった。なお『ヤツ』は俺が足を向ける側の、ベッドと壁の隙間を歩いていた。
洗面台に立ち、蛇口を捻って水を出しっぱなしにすると、両手ですくい、顔へと浴びせかけた。下のマットにいくらか水滴が落ちた。それでも棚の鏡が映す男の顔は、目を細めていて、いかにも眠そうであった。とはいえ、この寝惚け眼が洗面台のフチにあったタバコの箱を見つけるのである。
銘柄は、メビウス・インパクト・ワン。試し中を覗いてみれば、四本入っていた。うちの一本をくわえた俺は、ライターへと手を伸ばした。
歯ブラシの横の黒いサイモン・カーターのオイルライターで、この時は横向きに入れ込まれていたから見えなかったが、表にはイスラム美術風の幾何学模様が描かれていた代物である。
ただ問題はその後。ライターを引っ張り出す過程で、歯ブラシの入れ物を引き倒してしまい、歯ブラシが流し台に転がった状態に。しかもそのときの俺というのが、こともあろうに歯ブラシを片付けるより一服することを優先してしまった。これがいけなかった。吸ったタバコの灰が一本の歯ブラシの上に落ちてしまったのである。慌てて拾おうとしたが、その歯ブラシを確認して思わず躊躇した。燃えカスで手を焼くのが怖かったのではない。
なお、件の歯ブラシはどぎついピンク色をしていた。
……少し思案したものの、結局は拾って洗った。ただし、灰色のシミは水洗いぐらいでは落ちなかったが。
私の一服は寝室に戻ってからも続いた。それが『ヤツ』の冷ややかな視線に晒されながらも、なお。
「……わかってるよ、いいたいことは…………明日からは禁煙するさ」
プイッと顔を背けた『ヤツ』の所作に、鼻で笑われた思いがした。
『ヤツ』の容貌は、一口にいえばシロフクロウのようだった。その首から下のグレーでチェック柄染みた幾何学模様は別として。更にニワトリの長い尾を持ち、これを引きずっている様もシロフクロウとは一線を画す。もっと奇妙なことは、『ヤツ』にはこのニワトリの尾とは別にシロフクロウの尾も持っていることだ。二本もの尾を持って、はたして何の得があるのか。私の想像力からは想定しえない。その他に、頭頂部にある飾り羽根─羽冠という言い方をするそうだが─はコウカンチョウのそれに似ている……というよりは、葉っぱのように若干後ろに跳ねている、という説明が適切だろうか。
実を言うと、『ヤツ』が本当は何者なのか私は知らない。守護霊のようなものか、あるいは悪魔か。
二本目をひとしきり吸い終えると、俺はクローゼットから一着のYシャツを引っ張り出した。ピンクとホワイトが交互に並べられたラインのあるデザインだが、ピンクの色味を考慮すると、恐らく遠目には単純に薄いピンクのシャツに見えるだろう。下はネイビーの色が濃いジーンズ。それから黒い皮のジャンバーを羽織った。そうして着替えを済ませ、部屋を後にする瞬間、ボソリと
「……どうせ今日は煙にまかれるさ」
と呟いた。その声が『ヤツ』に聞こえていたかは定かではない。
─数時間後、この男の姿があったのは、『ウェンブリー』というレストラン。平たくいえばバイキングの店である。イギリスにある同名の都市とは無関係そうだが、石造り風の外装で縦に長い四角い窓があり、店の左右には三角屋根を有する塔が建ち、と例えばエディンバラのホーリールード城のようで、そういう意味ではイギリス風といえなくもない。店のマークの左右を王冠を戴くライオンとユニコーンが店の名前が入った盾を支える構図も、イギリスの国章に酷似している。ところで、塔の屋根と店自体の屋根では色が違い、後者は黒っぽい茶色だが、前者は快晴の空の色によく似た明るい水色だった。
……もっともこの日は、生憎の雨だったが。
ドアを開けると、受付には見知った男が腰を下ろしていた。髪は坊主よりは多少長いかという程度で、丸い眼鏡をかけ、Yシャツの上に青いセーターを着ている。私と顔を合わせると、軽くお辞儀をしてきたので、こちらも頭を下げた。それから、
「失礼ですが、身分を証明できるものをお持ちですか?」
と尋ねてきた。
「ええと……免許証とかで構いませんか?」
「はい」
「ああ……今、出しますね」
俺はジーンズの右側のポケットから色褪せてボロボロになったグリーンのベネトンの財布を出し、そこから引き抜いた運転免許証を提示した。この男は免許証を手に取ると、サッとその文言に目を通し、また写真と俺の顔を見比べたのち、免許証を返すと共に、
「奥へどうぞ」
と通してくれた。
俺が案内された奥の部屋に入ったとき、もう宴は始まっていた。ドアの開く音に部屋中の誰もが振り返ったが、その中には俺の知らない顔も幾らか見られた。それから俺とそれを見つめる聴衆たちの間にしばしの沈黙を挟んだのち、出口の近くに立っていたある男がこちらまで歩み寄ってくると、相対して、
「おお、よく来たなあ……ええ」
と俺の肩をポンポンと二度ばかり叩いた。
男は、背格好一八〇センチあまり、後ろ髪はたなびく程あるが前は額が顔の三分の一近くを占めるぐらいに禿げ上がり、顔は高い鼻とやや鋭角的な耳をもち、血色はいいがほおは多少こけ、わりに小さい両目の周辺が赤みを帯びている。そして口は、笑みを浮かべるとまるで裂けているかのように大きかった。その服装は、まだ九月だというにダルメシアンのものらしき白地に黒い斑点のついた毛皮のコートを着て、何本も引かれた赤いライン上にフルール・ド・リス風の金色のマークがついた黒いネクタイを絞め、上下は白に酷似した淡黄色のYシャツとスラックス、ベージュの革靴。またこのときの彼は、ナプキンを幼児のよだれかけのように首に巻いていたのがいくらか滑稽であった。
「平生さん、遅れてすみません……」
と一礼。すると彼は、俺の肩を掴み、若干頭を下げて、自身より小柄なこの遅刻魔を見上げるような格好でもって、
「謝らんでいい、謝らんで……君の他に、生天目クンの妹さんもまだ来ていない……」
とにこやかに話しかけた。余談だが、この『生天目クン』というのは、先程受付にいた男である。対して俺は一度目線を外し軽く店内を見渡してから、改めて目線を合わし、
「はぁ……」
と曖昧に応じた。それから平生氏は、手を引き顔を上げて一歩踏み込むと耳元で、
「折角の機会だ、楽しんで」
と言った。息を吸うような引き笑いと共に。
「……どうも」
彼の顔を見つつ、軽く頭を下げ、俺はとぼとぼと歩いていった。何歩か進んだところで何気なく振り返ると、平生氏は少し首を左に傾け、ニヤリと笑っていた……
店内は異様なムードに包まれていた。みな口先では楽しげに話しているが、誰もが背後を気にして目を泳がせているのだ。では、その背後に何があるか。部屋の窓際には何席かのイスが並んでいるのだが、全てが埋まっていた。もっともそこに座っているのは、人ではない『彼ら』だったが。
『彼ら』は近代ヨーロッパ人のそれに近い服装をしてはいるものの、その顔には口がなく、目も閉じたまま、鼻にも穴がない。そして、顔の中心から外にかけて、内側からいえば水色・白・赤という順で三重の円が描かれている。首から下に至っては、元のフォルムこそ人間に近いが、その肌は軍鶏のような黒い羽毛に覆われていた。
俺はこの『監視役』たちの目を避けるように食べ物が並ぶテーブルの方へと歩いていった。前には何人か並んでいたが、特に俺の目の前にいた女性は、俺がよく知る人物だった。
髪型といっても、後ろ髪を軽く結んだ程度のシンプルなもので、服装も黒のタートルネックを着ていて、下も同じような色である。背丈は一六〇センチは優に越えているだろう。そんな彼女だが、どうやらこちらに気付いてないらしい。なので、俺は彼女の肩をポンポンと叩いた。そうして彼女が振り返ったところで、人差し指を立ててその頬をついた。
「……バーカ」
と彼女は一言。一度また向き直ってフッと鼻で笑うと、また振り返って、
「なによ、遅かったじゃん?」
と意地悪そうに笑った。
「色々あるんですぅ、俺にもぉ」
と私は冗談っぽく応じた。
「どうだか……まあ、いいけどさ」
「……最近どう?」
と話を切り出した。彼女は笑いながら、
「えらいザックリした質問ね」
と答えた。同時に、彼女の前のテーブルに重ねてあった皿の一枚をこちらに渡してくれたので、お辞儀ぎみに首を下げつつ、
「……サンキュー」
と言って受け取った。それを確認すると、彼女はこちらに背を向けて二、三歩、
「……どうたって、もう平生様々の天下じゃん」
と彼女はため息交じりに漏らした。私はわざとらしく見えない程度に周囲を見渡し、
「大丈夫かよ、そんなこといって……」
と応じた。しかも、できるだけ耳元で。
「何にビビってんの?」
と彼女は顔の半分をこちらに向けて言った。顔はまた悪い笑い方をしている。
「こぇぇじゃんよ……どの銃口に狙われてるかわかんねぇし……イヤですよー、頭に穴が空いたりするのは……」
最初はいくらか声を張っていたが、私の声のボリュームは次第に小さくなった。
「……空けられても、大丈夫じゃなかったっけ?」
と彼女は振り返り一言。
「あたりどころが悪けりゃ、フツーに死ぬさ……しかも、痛みは感じるワケだし」
「あっ、そう……」
と言うと彼女はまた振り返り、歩き出す。
こうしてバーの辺りを一周し、適当に料理を盛ったところで、彼女が一言、
「…………千秋クンのとこに行ったげな……話し相手がいなくて寂しそうだったから」
と言った。背中を向けたままだったが。
「ああ、そうする……またな、君塚」
「はいよ」
言われた通り引き返してみると、確かに一人でモサモサ食っている男が一人。
ブラックウォッチ柄のシングルコートに白地で交互に赤と黄色の横縞が入ったTシャツで、下はデニムのパンツで色は明るいブルー。元々そう大きくない体格だが、今日は一段と肩身が狭そうに見えた。
彼が噂の千秋クンである。近くまで来ると、千秋の方もこちらに気付いたらしく、軽く片手を上げた。私も同じジェスチャーを返してから、隣へとやってきた。
「……遅かったな。何かあったのか?」
と千秋が言った。
「まあ、ちょっとね……」
と俺はお茶を濁した。
「まあ、その……顔触れも微妙に変わったのな」
俺は周囲を見渡しながら、そう呟いた。
「……難波や最上なんか、前のときは来てなかったのに、よ」
「そうだな……俺もさっき知った」
そう言われて思わず、千秋の顔を見た。千秋が微妙な顔をしていたので、目線をそらして、
「いや、その……そういやオマエ、二回目なのな……」
と釈明した。
「……そうだよ」
と答えた千秋の語気はここらなしか強かった。何ともいえず少しの間黙ってしまったが、そのうちに、
「……なあ、千秋」
と話しかけた。そして彼がこちらを見たのを確認してから、
「……アイツ、誰?」
とある男を指差した。
この男、坊主頭で幽霊を模したピアスを両耳にはめている。服装は、上にはブラックのTシャツを着用しており、デザインはホワイトでデフォルメされた街並み。下はワインレッドのカーゴパンツで、左ポケットにアルファベットの筆記体らしき刺繍がされているらしいが、銀のチェーンが邪魔で見えなかった。丁度おかわりにバーまで行くところだったから靴も見えたが、オレンジ色のブーツで、その色はまるで焼けた鉄のようだった。
「ああ、と……オクツキとか言ってたぞ」
「オクツキィ?」
「ああ…………なんか、お肉屋さんで働いてるらしい」
「オクツキ、ねぇ……」
俺がぼんやりと考えていると、千秋がペンとメモ用紙を引っ張り出し、何かを書き出したかと思うと、こちらに見せてきた。見てみるとそこには、『奥都城倫敦』と書いてある。
「これが名前……オクツキで、下の名前がこれでツネアツって読むらしいぞ。さっき説明してた……シナさんが来る前に」
「そうかぁ……いやぁ、縁起でもねぇ名前だな」
と苦笑した。
「うん?……そうなのか?」
怪訝そうな顔でこちらを見る千秋。
「その奥都城なら、確か……お墓の別名だぜ?」
「……えぇ」
と千秋は渋い顔。
「……何か、不幸とか運んできそうだな……てのは、まあ偏見だけど」
と苦笑。すると千秋がボソリ、
「俺、アイツに睨まれてた気がするんだけど……」
と呟いた。渋い顔のままである。俺も少し考えてはみたが、
「……いや、いつもの考えすぎなんじゃ」
と結論を告げた。
「だってほら……俺、さっきまで一人でいたから、勘違いとかはないと思うんだけど」
ゆっくり互いに顔を見合わせた。その後俺から、
「……ああいう顔なんじゃね?」
との指摘をした。すると、千秋が今度は蒼い顔をして、
「……睨んでないなら、何でこっち見てたんだ?」
と言った。
「それは、まあ…………」
と俺は目線をそらして考え事を始めた。
「……なんか、ホモくさい顔してんだよな……坊主だし、ピアスだし」
と千秋がまたボソリ。
「それは、偏見」
と言い返した。
「……いや、でも、なんか……………ホモにしか見えないんだけど?」
「考えたら、負けだ」
と言い、俺は千秋の頭を叩いた。といっても、せいぜい押すぐらいの力で。
「……じゃ、またあとでな……千秋ィ」
と俺はあくび混じりに言うと、そそくさとその場を立ち去っていく。
「えっ、いや…………シナさん、どこ行くんだよ?」
と千秋の声が背後で聞こえたので、一言、
「御手洗い」
と答えると、千秋は何も言わなかった。振り返って確認しなかったから、どんな表情だったかは分からない。
少しして、用を済ませた俺が部屋に戻ろうとしたとき、似た風貌の男女がドアの前にいた。片や先程まで受付をしていた生天目という男。そしてもう一人は、上には白のブラウスにノースリーブの赤いセーターを着て、下は黒か紺かの縦縞がある白のサブリナパンツ、それから黒い靴を履いていた。髪型は三つ編みでお下げが二つ、隣の男と喋る度にチラチラ見えたメガネはフチが透明だった。そうして俺が聞こえそうな辺りまで近付く頃には、女の方が先に中へと入っていった。対して生天目は、振り返って、当然のように俺と目が合った。
「……どうも」
とお辞儀すると、返事はないが、相手も同じリアクションをした。
「今の女性が、その……」
「……妹だ」
光の角度で、メガネが発光したように映り、彼の両目が見えなかった。私は彼の隣まで来ると、
「おいくつですか?妹さんは」
と尋ねた。
「今年でハタチになる」
「仲はいいんですか?」
彼は数秒ばかり黙っていた。だが私が顔を背けたタイミングでもって、
「……どうだろうな」
と呟いた。
「……一回り以上も違うから、ケンカにはならなかったが……進学で十八からこっちに来たからな。一緒に暮らしてたのは数年だ」
ポケットに手を突っ込み、男は何かを探しているらしかった。
「……タバコなら、ありますよ?」
そう言い、朝台所で見つけたタバコの箱を見せた。
「……すまんな。一本貰う」
と一本取り、喫煙ルームへと歩いていった。なお、喫煙ルームは先程彼が陣取っていたカウンターの出口と逆側の隣にあった。遠目で見ていたが、ライターは自前で持っていたらしい。妹のセーターと同じで赤い、使い捨てのライターだった。
そうして部屋に戻ったのは、けしていいタイミングとは言えなかった。本当のところ引き返したいぐらいだったが、そうもいかなかった。何故なら、千秋と目が合ってしまったからだ。今、酔っ払いに絡まれている千秋と。
「アァ~?にぃちゃん、なに見とんねん、ワレェ~……なんや自分、何か文句でもあんのかぁ~?」
千秋が目をそらしていると、
「人が話しかけとんねん!目ぇ見て話さんかい!オラァ!」
右足を台に乗せ、両手で千秋の胸ぐらを掴んだ。
「ワシが酒呑んだらアカンのかぁ~?……えぇ~?」
千秋が黙っていると、
「何とかいわんかい、ボケナスゥ!!」
と怒鳴り付けた。遠くからは何が起こっているのかよくわからなかったが、萎縮した千秋が声も出せずに震えている様は、本人には悪いが容易に想像がついた。
「何モゴモゴしてんねん、ゴラァ!」
私の位置からはよく見えなかったが、右手で千秋の頬をぶったらしかった。パチンという割に大きい音が私にまで聞こえたぐらいだから。
「はっきりいわんかい、はっきり!オマエ、それでもタマついとんのかぁ~?」
今度は右手を大きく振り上げた。恐る恐る私が近付いて行くと、それより先に、
「ちょっと……やめたら、そういうの。みっともないよ」
と止めに入った。君塚が、である。
「……アァ?」
テーブルの上に乗せた足を下ろし、今度は君塚を睨み付ける。
「なんや、ねぇちゃん。ジャマせんといてや」
「……さっきから聞いてるけど、言ってることはメチャクチャだし、テーブルに足置くとか、急に胸ぐら掴むとか……いい大人がやることなの?」
全然関係ないが、思わず俺はため息をついてしまった。
「……ジャマすんなっていっとるやんけぇええ!」
そう怒鳴ると、その場にあった料理の乗った皿を君塚の方へと投げつけた。当たりはしなかったもののさしもの君塚も二、三歩と後ろに下がる。するとこの酔っ払い、あろうことに胸元からポケットナイフを抜いた。
「なめくさりおってからにぃ…………ぶち殺したるわ!」
とその男が君塚に襲いかかろうとしたとき、一発の銃声が轟いた。見れば、この酔っ払いの足元から煙が上がっている。
「……なんや、これ」
酔っ払いがキョロキョロと周囲を見渡すと、すぐに犯人が特定された。それはイスに腰かけていた、『彼ら』の中にいた。
それはシルクハットを被った燕尾服の『彼』で、その手にはマスケット銃を構えられていた。
「ひっ、平生さぁん…………なんですかい?こんなん……ボケやがな」
男は急に震え始めた。
「冗談キツいわぁ~、アハ、アハハ……」
男は笑っていたが、明らかにその声はひきつっていた。俺は人生でおそらく初めて、恐怖に膝を震わす人間を見た。
「……イヤや、そんな……下ろしてくださいや、それ……なぁ?」
ナイフをしまい、両手を上げて必死に訴える男だったが、無慈悲にも引き金が引かれてしまう。銃弾は男の脇腹へと突き刺さり、白いシャツを紅に染めた。最早声ともいえない男の叫びが室内に響き渡る中、誰もが何もできずただ見ていることしかできなかった。ただ一人を除けば。
「……おい!」
ドスの効いた声が響いた。平生である。コートを脱いで平生は、ゆっくりと件の男の側までやってくると、その髪を掴み、思いっきりテーブルへと叩きつけた。二回、三回、四回……数えていなかったから正確にはわからないが、十回ぐらいそれが続いたろうか。テーブルには鼻血らしき血痕が残っていた。平生は投げ捨てるように掴んだ髪の毛を離し、
「……出ていけ」
と言った。然程声を張り上げてはいなかったが、威圧感のある低い声だった。男は腹を抑えながら、何も言わずにフラフラしつつもドアの方へと歩いていった……