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第1話

現実と戦う子供たちがいる。

必死で生き抜く戦士のような子供たちがいる。


しかし、この世界は戦場ではない。

逃げていい。

「助けて」と言っていい。


居場所がない人などいないのだ。

生きている意味のない人なんていないのだ。



第1話


悪意とは、まるで零れた水のようで、突然降り出した雨のようで、とにかく、慌てて何とかしようと奮闘すればするほど、上手くいかないものである。

学校へ向かう吾妻渚の足取りは重かった。背中を丸め、下を向いて、垂らした長い髪で顔が隠れるように2年3組の教室へと向かう。なるべく気配を消して、今日は何もされませんようにと願いを込めて、いつものように喧騒の中のドアを開けるのだ。

しかし、どんなに気配を消したとて、存在する以上何かしらの音はしてしまうものだ。一斉にクラスメイトの目が自分に向いたのが分かった。

俯きながら自分の席に着くと、素早く机に伏せる。出来るだけ視覚と聴覚を遮断してしまいたかった。

「ねぇ見て見て!高校生にもなって、ペンケースの中に書き方鉛筆入ってんだけど!」

耳元で聞こえた嘲笑いに、渚は顔を上げ、しまった!と頭の中で後悔の念を巡らせた。声の主は机に腰掛け、ニヤニヤしながら渚を見下ろしている。

所属している美術部にはもう長い事顔を出していなかったが、昨日ふと思いたち、入部当初やっていたように好きな景色をスケッチしていたのだ。シャーペンでは描きにくいから、柔らかい鉛筆を使って。

はやし立てられる対象になりそうなものは一切鞄やペンケースには入れないでいたのに、失敗した。

更に、いつもペンケースだけは机の上に出しておくから、特に注意していたはずなのに。

「やめなよ〜真由美ぃ〜ほら、吾妻さん泣いちゃうよ?」

欠片もやめろとは思っていない声色の「やめろ」に、真由美は意地悪そうな笑い顔で鉛筆を放った。

「やっ...!」

「あ、あんた美術部だっけ?それで鉛筆?柄もない地味〜な鉛筆?ふーん。幽霊部員のくせに?ねぇ?美術部の人〜」

何人かのクラスメイトがビクッとこちらを振り向き、お互い顔を見合わせた後真由美と同じ表情にー少なくとも渚にはそう見えたーなって頷く。

「渚ちゃんの描いた絵、私見たいな〜。ね、萌も琴音も見たいよね?」

先程「やめなよ」と言った萌が、琴音と一瞬視線を交わらせてから茶化しに入ってきた。

「見たい見たい〜!上手なんでしょ?吾妻さんの絵」

「でっ、でも今描いた絵持ってないし...」

「何それ」

真由美の声色が急に氷の様に冷たく重くなった。

「絵なんてすぐ描けるでしょ。紙とペンがあれば」

「うん...」

逃げられない。渚はちらっと壁の時計に目をやった。朝のホームルームまで、まだ10分はある。それは、真由美達が「楽しむ」には充分な時間だ。

渚はノートの白い部分に女の子のイラストを描いた。何を描いてもからかいの対象になる事にちがいはないのだが。

「ナニナニこれ?もしかして私?」

意図して描いたわけではなかったのだが、イラストは髪型が琴音に似ていた。

「上手いねぇ渚ちゃん!夢は漫画家ぁ?」

真由美がそう言うと、萌と琴音は「やだぁ」「そぉなのぅ?」とクスクス笑っている。

「これで漫画家になれるなら、私も渚ちゃんと一緒に漫画家目指しマース!」

真由美が片手を挙げて声高に叫ぶ。クラス全体からドッと笑い声が上がった。

「お世辞言い過ぎて期待させちゃ、吾妻がかわいそうだぜ、中山〜」

真由美と仲の良いーそれ以上に男女の関係であるー男子が嘲笑う様に茶化しに混ざる。

「え〜?」

真由美は猫なで声で続ける。

「もしかして私、期待させちゃった?本気にしちゃった?ごめんねぇ渚ちゃん?」

再びクラス内から笑い声が上がる。中には目を伏せたり顔を背けたりしているクラスメイトもいるのだが、渚は全員が自分を笑っているように見えた。

そうこうしているうちに、待ち侘びていたチャイムが鳴り響いた。真由美は席に着くために立ち上がったが、渚が安堵の表情を浮かべたのを見逃しはしなかった。

「あんたなんて、早く消えちゃえば良いのにね」

驚いて目を見開いた渚を仰ぎ見て、真由美はスタスタと去っていく。その後もこちらを見てはクスクス笑いを続ける真由美達を、渚は見る事は出来なかった。


靴箱ではなく鞄からローファーを取り出して、上履きを同じように靴箱ではなく鞄にしまう。

朝と放課後以外人気がない昇降口に設置された、誰のだかすぐに分かる物が入っている箱など、嫌がらせの絶好の対象になる。いつからか渚は靴箱に靴をしまうことをしなくなっていた。

学校から、もとい真由美達から解放されたとはいえ、渚の足取りは軽いわけではい。

「死んでしまいたい」

そう呟いては、徒歩15分の道のりを歩いて家路に着いた。

「ただいま」

玄関を開けると、無造作に散らかった靴の横に、赤いピンヒールが綺麗に揃えられている。

ー今日はお父さん、夜勤じゃなかったのか。

帰宅に答える代わりに、渚の父、夏彦の部屋からは夕方から明らかによろしくやっている声が聞こえてきた。

母の史恵が出ていってから1年。夏彦とはもう、3ヶ月、言葉を交わしていない。繋がりを感じるのは、冷蔵庫の中から夏彦の食べ残しを出し、自分の口に入れる時だけだ。

夏彦は別に気にする必要性すらないと思っているのだろう。ドアを開きっぱなしで行為に及んでいるため、自室に行く途中に、夏彦の恋人の睦美が喘ぎ声を上げながら夏彦に乗っているのが嫌でも目に入った。

その刹那、1秒にも満たない一瞬だけ、睦美がこちらを見ているのが分かった。夏彦は見向きもしなかったが、渚と睦美は、確実に目を合わせた。

自室に入ると、渚は制服を脱ぐこともせずにベッドに倒れ込んだ。簡素な部屋を、窓から射し込む西日が明るく照らしている。外からは、放課後の小学生達の楽しげな声が聞こえてきた。

ー何て惨めでみすぼらしい姿なんだろう。

半年くらい前までは出ていた涙も、もう出尽くしてしまったように思う。

誰からも必要とされていないなら、いなくなったって構わないじゃないか。

お父さんも、あの女の人も、クラスメイトも、私がいない方が幸せなんだろう。

そう思った途端、身体の中の何かが消えてなくなったように感じた。嫌な思いも、悲しい思いも、渚の全てを連れて。



けれども、死ぬのは怖かった。

ーもしも私が死んだら、お父さんは絶対にわたしを恨むだろう。自分の人生をめちゃくちゃにしたと、睦美との将来を奪ったと。

家出をしてひっそり死ぬなんて、東京のど真ん中じゃきっと無理だ。だからといって、遠くへ行くお金などない。

出来れば誰にも迷惑をかけずに存在を消したかったが、今の渚にはその方法は思いつかなかった。


だから、今日も学校へ行く。行かなければ学校から家に連絡が来る。そうしたら、夏彦になんと言われるかー、いや、何も言われないかもしれないが、どちらにしても家にも居場所などないのだ。それなのに、夏彦と睦美から更に嫌悪を向けられ、食事抜きや風呂抜きなど、今の渚にとって唯一の癒しが奪われる事だけは避けたかった。

渚の身体に異変が生じたのは、校門をくぐって、教室まであと数メートルというところだ。突然、天地がひっくり返るかと思うくらいの息苦しさに襲われ、視界がぐるぐると回り始めたのだ。

ー風邪?でも、熱っぽくはないし...。とりあえず保健室?だけど...。

身体が言う事を聞かない。動かない。相変わらず視界はぐにゃぐにゃしている。渚は思わずその場にうずくまった。通り過ぎる生徒たちは皆、ちらちらと訝しげにこっちを見ているが、羞恥心など、頓着している場合ではなかったのだ。


「君、気分悪いの?大丈夫?」

うずくまってから数分たった頃だろうか。頭の上から、物腰柔らかな男の声が近くで聞こえてきた。

「あ...」

やっとの思いで顔を上げると、そこには白髪混じりで年の頃は60前半だと思われるが、シックなジャケットを着こなし、気品のある穏やかな出で立ちの男が、屈んだ体制で渚を見つめていた。


「一緒に保健室まで行こうか?」

渚は首を横に振った。

「担任の先生には言っておいてあげるよ。大丈夫。君が不安に思っているようなことはしないから」

その男の包み込むような、心を委ねたくなるような物言いに、渚は思わず頷く。男は人の良さそうな笑みを浮かべると手を差しのべた。


掴んだその手は、ゴツゴツしていて皺だらけだったが、大きく温かかった。


保健室に着くと、男は保健室の女性教諭に何やら目配せをした。すると、女性教諭は軽く頷いて保健室から出ていってしまった。

「さあ、大丈夫。ここに座りなさい」

てっきり寝かされるのかと思っていた渚は驚いた。その気持ちを察したのか、男はにっこりと笑って続けた。


「私は近衛誠。この学校には週3回、スクールカウンセラーとして来ているんだけどね、」

きょとんとした表情の渚を見ながら誠は話し続ける。

「本職は山茶花フリースクールという学校の校長先生をやっているんだよ。」

ースクールカウンセラーが校長先生で、フリースクール?

状況が飲み込めない渚はただ黙って聞いているしかない。誠は腰掛けた椅子から少し前のめりに身を乗り出した。

「どうだろう。君さえ良ければ、今から私の学校に遊びに来ないかい?」

「えっ!?」

そこで、渚な初めて声を出した。

「今から...って、でも、授業とか」

「その心配はしなくて平気だよ。私が先生に話しておくから。お家の方も、君はなんにも考えなくて良いんだよ。そんなことは大人の仕事だからね」

でも、と否定しようとした渚の言葉は、次の一言にかき消された。

「君はもう、あの教室には行かなくて良いんだよ」

何でこの人が自分の家や学校の状況を知っているのだとか、担任とはそんなに簡単に話せるほど親密な関係なのかとか、そんなことは、もうどうでも良かった。

この人は確かに言った。あの、地獄の様な場所からこの一瞬だけでも逃げていいと。

何も考えなくて良いのだと。


なぜか、無条件に、何の根拠もなかったのに、誠をは信じられると思えた。誠の「大丈夫」は、本当に「大丈夫」の様に感じた。

それはきっと、誠の身なりや、学校で会ったという事実、話し方がなせる技だったのだろうが、それ以上に、誠は初めて渚に救いの手を差し伸べた人物だった。


渚は静かに頷いた。

張り詰めていた糸が切れたような、そんな気がして泣きそうになった。涙の感触は、久しぶりだった。

誠は嬉しそうに微笑むと、「じゃあ行こうか」と言って席を立った。

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