サッカーボール
転校の最後の手続きを終えた帰り道。ふみの母は買い物に寄ると言った。
ふみは一人で帰るという選択肢を取った。
見慣れない町並みはふみを不安にさせる。その不安さえも慣れたものだと思い、家への道を歩いていたが、不意に妙な感覚を覚えた。頭の奥をチリチリと焦がすようにおとずれた強烈な不安と焦燥は今まで感じたことが無いものだった。
ぼんやりと歩いていたのが間違いだったのか、そこは来る時とは違う狭い道。近道しようと思ったのが運の尽きである。
――帰り道が分からない――
周りを見ても知らない知らない知らない知らない。
無知はやがて恐怖に変わる。
自然と鼓動が早まり、手に嫌な汗が滲む。口の中が変に乾いた。
(とりあえず、大人を探せば……)
焦り、見回すがそこに人影など皆無。
ただ無慈悲に蝉の鳴き声が頭の中に響く。
(お母さんについて行けばよかった)
後悔の念を抱き、とぼとぼと歩く。
涙が漏れそうになり、まぶたを固く閉じたその時だった。
「――聞いてるのかよ。お前だよお前」
初めて自分が声をかけられていると気付いた。
そこに立っていたのは自分と同じくらいの年の男の子だ。短い髪はどこかスポーツ少年を彷彿とさせた。印象通り、抱えていたのはサッカーボール。
「何?」
返事を返したふみの声は凍っていた。
今まで通り、普段の、平静を保った声は、しかしふみの声は既に冷たく凍りついていた。
そんな声に男の子は僅かに怯みながらも笑う。
「お前、見ない顔だな。新しく来た転校生ってお前の事?」
「そう、らしいけど」
男の子は優しく笑いかける。だが、ふみは表情を堅く閉ざしている。
「やっぱり? これからよろしくな」
「別に……」
ふみは踵を返して歩き出そうとしたが、一つの事を思い出して足を止めた。
帰り道が分からない。
急に頬が熱くなる。そんなふみの背中に追い打ちをかけるかのように男の子が声をかけてきた。
「もしかして道に迷った……とか?」
「ッッ!? そんなことない!!!!」
振り返り、発した声は久しぶりの大声だった。
男の子は驚いた表情を作ったが、すぐに微笑む。
「だったら練習付き合ってくれよ」
小さい公園だった。遊具は鉄棒と砂場とブランコくらい。
瀬川ふみは公園のベンチに座り、リフティングの練習を見ている。一生懸命に練習しているその男の子のことをふみは理解出来なかった。
名前は藤堂康太というらしい。どうやら公園へサッカーの自主練に行くつもりなのだが、その近道であの狭い道を通り、偶然ふみと出会ったのであった。
「それで、こないだ来たばっかなのか」
「そう。でも何でそんなこと聞いてくるの?」
ふみは疑問に思った。この男の子は出会ったばかりでしかも邪険にあしらわれていたのに、どうしてふみのことを聞くのだろう、どうして一緒にいられるのだろう。
康太はリフティングしながら無邪気に笑った。
「何で? って、気になっただけ。えっと、そんだけだな!」
一人納得した康太は意識をサッカーボールへ集中させるが、「あっ」とボールが茂みの方へ飛んでいってしまった。
「ミスったなぁ」
苦笑いし、茂みの方へと歩き始める康太。しかしふみが行く手を遮るように立ち上がったことでその歩みを止めた。
そんな康太を気に留めず、ふみは茂みからサッカーボールを取った。
「あ、ありがと」
あっけにとられる康太。そんな康太の表情が面白くて、ふみは耐え切れずに吹き出した。
「何で笑うんだよ」
「ごめん――」
軽く謝りながら蹴ったサッカーボールは康太からみて大きく右に曲がった。
運動オンチの自分にげんなりしつつ、ベンチへと戻ろうとする。そんな時、
「なぁ、パス受けてくれよ」
最初は失敗ばかりが目立ったが、段々とふみは康太のパスを受け取れるようになってきた。康太が取りやすいパスを出しているせいもあった。
「上手くなってきたじゃん」
そんな康太の言葉に僅かに笑みを浮かべてしまった。
「あっ」
今までは転がすパスを出していた。しかしふみが蹴ったサッカーボールは小さな、それでいて綺麗な放物線を描く。
しかし康太は胸で難なく受け止め、地面にボールを落とした。まるでボールの方が康太の胸に吸い寄せられるかのように綺麗に受け止めた。
「もう、こんな時間か……」
サッカーボールをふみへパスしてから時計を見やった康太はそう漏らした。針は四時を指した頃だった。
「悪い、門限。そのボール持っててくれ、また来るからそれまで!」
まくし立てるように喋った後、走り去ってしまった。
ふみは土埃にまみれたそのサッカーボールを両手で持ち上げた。
それには沢山の練習の後が刻んであった。所々痛んでいる。洗ってはまた使っていたのだろう。
「でも、また別れが来るんだろうな……」
ひとりごちるふみの声は寂寥感が滲んでいた。
次の日、ふみは康太とサッカーの練習をした公園に行った。
一時間程待ったが藤堂康太が現れる様子は一向に見せなかった。
「嘘つき……」
胸を何かがぐっと押し付けるがそれが何かは分からずに呑み込んだ。
その次の日、その日は雨だった。
来るはずがない。そう分かっていてもふみの足は自然と『あの公園』へ向いた。
案の定、人気など皆無だった。思わず溜め息をつく。
手に持っていたサッカーボールを思い切り蹴り飛ばそうと地面に落としたその時だった。
「ふみ!!」
後ろから声をかけられた。わんぱくでスポーツが得意そうな男の子の声だった。
傘を持って佇んでいるのは藤堂康太。しかしその表情は一昨日の笑顔ではない。なにやら真剣な顔だった。
ふみはサッカーボールを拾い上げ、康太の近くに行く。
「俺、一昨日言えなかったことがあって来たんだ」
若干視線を下げている康太の表情に何かを感じたふみは生唾を飲む。
「俺さ、今日引っ越すんだよね」
苦笑いしながら言った康太の言葉に思わず抱えていたサッカーボールを落としそうになった。
「俺、昔から転校ばっかでさ――――」
「何で、そんなに笑っていられるの!?」
康太の言葉はふみの声に遮られた。
サッカーボールの上に二つの水滴が落ちた。
唇が震える。康太の気持ちはふみにはよく分かる……はずなのに、康太は笑っていた。
「…………………………………………………………」
二人の間に重い沈黙が漂う。雨粒が地面や傘を叩く音だけが流れた。
そんな沈黙の中、康太は口を開く。いつもの、変わらない笑顔で。
「確かに、別れは辛いよ。でもさ、別れがある分それだけ新しい出会いってのがあるんだ。俺とふみが出会えたのだって親が転勤族だったからだろ?」
サッカーボールを見つめていたふみはハッと顔を上げる。
今まで自分は他人との関わりを閉ざしていた。そうすることで誰も悲しまないと思ったからだ。しかしそれは間違いだったと気付く。別れの分だけ出会いがある、つまりそういうことだ。悲しみの分、沢山の友達と巡り会えることが出来る。
「だからさ、泣くなよ。また会えるから」
康太は言葉をかけてくれる。だがその言葉がふみの瞳から大粒の涙を流させる。まるで今まで流すはずの涙を凍らせていたモノを溶かすような言葉だった。
いつまでも泣き止まないふみに康太はまた微笑みを向ける。
「じゃ、約束だ。次に出会ったその時までこのボールを預けとく」
そう言ってサッカーボールに乗せた康太の右手。それはとても強く、それでいて優しかった。
ふみは頷くことしか出来なかった。
ふみは急いで学校へ行く準備を進める。
(国語、理科、算数。社会……はあったっけ? 急がないとりっちゃんとの約束の時間に遅れる!!)
雪が降り始めていた。それは一つ一つが儚い花びらのように舞い散る。
そんな様子が見える窓際の棚。そこには一つのサッカーボールが置いてあった。それには沢山の練習の後が刻んであった。所々痛んでいるし、何度も洗った後があった。