生か、死か
「ずいぶんと騒がしいと思って来てみれば……ふん。」
クロノとオーガキングの間へと降り立った黒髪の少女は俺に目を向けると少し考えるように顎に手を添えたあとゆっくりとこちらに歩いてきた。その態度はオーガキングなどまるで眼中にないとでもいうかのようだ。
それもさもありなんというところだ。
なぜならクロノは知っている。この少女が何者なのかを。
――『ダリア・S・ブラッディバレンタイン』――
それが彼女の名だ。
闇を体現したような漆黒の長髪に人形のような色白できめ細かい肌。容姿は眉目秀麗でまさに超然とした美しさ。何物をも拒絶したような冷酷な表情をし、身に纏うのは白と黒のゴシックドレス。
『真祖吸血鬼』にして『夜の女王』ダリア・S・ブラッディバレンタイン。
彼女は『ワールドクロニクル』で唯一攻略不能だったボスキャラクターである。
事の発端は『ワールドクロニクル』開始から一年たったころのことである。その頃は通常クエストだけでなくレイドが実装され、多くのギルドがしのぎを削っていた時期であった。
そこで運営が新たに実装をしようとしたのがその時のレイドボスの性能を大きく上回る超級レイドボス戦『黄昏の聖戦』であった。その前哨戦として当時のレイドに実装され猛威を振るったのが彼女――『ダリア・S・ブラッディバレンタイン』――である。
当時、レイドはギルドごとに決まった期間内にボスを倒す、というもので、一回の戦闘の上限百人と決まっていたが大人数で敵を倒していく爽快なものだった。
超級レイド解放のイベントクエスト『黄昏の扉』のボスとして登場したダリアはただひたすらに強かった。
大規模ギルドの百人による猛攻を一切避けつけず無慈悲に殲滅。
降り注ぐ超級魔法の雨にまったく通らない攻撃、さらに自動回復までついた上、戦闘パターンがランダムで途中からは事前データにない『創造術式』まで使用する。
ダリアはこうしてプレイヤー達を鎧袖一触に阿鼻叫喚の渦へと叩き込んだ。
プレイヤー達はダリアの何をしても動じない冷酷な表情から「無慈悲様」、「理不尽様」、「氷の女王」、果てには彼女の使った『創造術式』の『魔法名』をもじって「Sで無慈悲な夜の女王様」などと揶揄した。
そしてしばらくして解析がなされたダリアのステータスに誰もが驚愕することとなる。
なんと事前データの十倍、つまり通常のレイドボスの約十倍のステータス値を持っていたのである。
この数値は後に実装されたプレイヤー総参加の超級レイド『黄昏の聖戦』で出る超級レイドボスのステータスに匹敵するといえばその規格外さが分かってもらえるだろうか。
超級レイドボス戦は超火力を誇る『神級古代兵器』や『神級魔法』、堅固な防衛要塞、まるでロボの如き『古代巨機兵』を駆使した大規模兵器戦であり、武器を手に手に戦う通常レイド戦とは一線を画すものなのだ。与えるダメージも貰うダメージも桁が違う。
その頃には既に運営も修正に取り掛かっており、イベントの一時中止、プレイヤーへの補填が行われた。
さて問題は何故このような事態が起こったのかであったがそこでプレイヤー達はさらに驚愕することとなる。なんとこのイベントのためダリアを作った開発陣の一部がダリアに愛着を持ちすぎてしまい、「ダリアたんを殺させはしない!」とステータス値を十倍まで引き上げたというのが真相であったらしい。
しかも『ワールドクロニクル』に使われていたAIの性能の遥かに上を行く独自開発したAIを搭載した上で、である。これにはプレイヤー達も呆れるしかなかった。
その後運営によって弱体化がなされ、公式サイトに「ダリアは神(開発室長)の怒りより呪いを受け、弱体化しました。神(開発担当)の祝福は失われました。安心してイベントを御楽しみ下さい。」などと冗談交じりに書かれたのは最早いい思い出であり、後に『黄昏の扉事件』として『ワールドクロニクル』プレイヤーに広く語り継がれることとなった。
しかしこの事件からダリアの一躍人気が高まり、レイドでの復活こそなかったがその後様々なイベントに登場することとなったのだから運営にとっては皮肉な事だろう。
そんな『夜の女王』ダリアが目の前にいる。
場違いだが何だか有名人を生で見た時のような感覚である。
「お前は不思議な……、なんというか懐かしい香りがする。魂も他のものとは違うようだ。」
ダリアは顎に手を添えたまま、スンスンとにおいを嗅いでくる。
走り回って汗でびしょびしょになっているこっちからすればとっても気恥ずかしい。
というか近い。秀麗な顔が数センチ先にあるのだ。勝手に頬が熱くなったのは仕方ないことだと許して欲しい。
「ふむ。気になるがそれは些細なことか。今はただ問うとしよう。」
いつの間にか結界を張ったのかオーガキングは一定の位置から入ってこれないようだ。
その言葉と共にダリアの纏っていた空気が一気に冷え、場に緊張感が走る。
「無様な生か、潔き死か。選ぶがよい。」
ダリアの瞳孔が猫のように開かれ、クロノは見据えられてその視線から目を離すことが出来なくなる。
喉がカラカラに乾いてうまく言葉に出来ず、ヒュウと息が漏れた。
結界の外ではオーガキングが何とか中に入ろうと攻撃を繰り返している。
「……煩わしいな。」
ダリアが視線を逸らさず、横に手を振るとその後ろで轟音が轟いた。どうやら結界破ろうとしていたオーガキングをダリアが吹き飛ばしたようだ。あのオーガキングが一撃で吹っ飛ぶなど信じられない。
しかしそんな中でもクロノはダリアから目を離すことが出来なかった。
「さあ。答えよ。『生』か、『死』か。」
ダリアが再び問う。
クロノはこのイベントも知っている。体験したことはなかったがかなり有名なイベントだったからだ。
突発性イベント『闇夜への誘い』。まあプレイヤーの中では『生死問わず』という俗称の方が有名だったが……。
このイベントは分類的に言えば転生イベントに該当する。
だがレベルが初期値に戻るわけではない。
種族が変化するのだ。
そう、これは後天的な『吸血鬼』への転生イベントのである。
先天的な転生イベントを別にしてダリアの人気上昇を起因として作られたクエストでもある。
このイベントは発生確率が極めて低い代わりに発生条件が甘い。
時間帯が夜であること。残HPが全体の一%未満であること。満月であること。以上である。
今回、クロノはどうやらこの条件を満たしていたらしい。
このクエストの内容はただダリアの問いに答えるだけである。『生』か、『死』かこの二択しかない。
『生』と答えた場合、手持ちのアイテムを一つ失う代わりに二十%の確率で『吸血鬼』に四十%の確率で『骨人』に四十%の確率で『屍人』に転生する。
『死』と答えた場合、その場で即座にダリアに踏み殺される。
ちなみに俗称である『生死問わず』であるが一部の被虐的嗜好の持ち主たちが「あれ?踏まれるとかむしろごほうびじゃね?」と『生死問わず』どちらもオイシイと意味で使われていたのが一般に広がった結果だ。
それはさておきこの状況においてクロノは死ぬことが出来ないし、被虐嗜好を持っているわけではないので答えは『生』一択である。
しかしこの期に及んで俺が躊躇している理由、それは種族転生の方法にある。
はっきり言おう。種族転生を行うにはダリアがクロノの首筋に咬みついて血を吸わなければならないのだ。
今、首を咬むくらいで大げさなと思った奴!よく考えて欲しい絶世の美少女が首をはむはむするんだぞ! 眠っていた特殊な性癖に目覚めたらどうする!純真な童貞なめんな!
……だがまあこんな状況で迷ってる場合じゃないよな。
苦しそうに震えるアルレシャの鼓動が手を伝わってくる。そう。まだ終わっていない。まだ死んではいない。なら死ぬ瞬間まで足掻いてやる。
決意は固まった。こんな自分のために身を挺してまで庇ってくれたアルレシャがいる。今のこの状況だってむしろチャンスかもしれない。やってやろうじゃないか。
「……答えは決まっている。『生』だ!」
見つめてくるダリアの目を今度は決意を込めて見返す。
「そうか。ならば与えよう。」
ダリアはするりと前に出るとクロノの首筋を舌の先でちろりと妖艶に舐め、血管に鋭い犬歯を突き立てた。
途端に背中から突き抜けるような衝撃が奔り、首筋から徐々に血が沸騰するような感覚が広がる。細胞が何かに侵蝕され、神経が蹂躙される。
視界は鮮烈な赤に染まり、体の中心から押し流された見えない塊が体中から迸っては消えていった。魂を無理矢理にこねくり回される形容しがたい苦痛に俺は蹲り、悶え、叫び、暴れる。
「―――――ッッぅうァぁッ!!!」
――苦しい!焼ける!体中が熱い!
「対価は貰うぞ。」
そんな俺を気に留めるでもなくダリアは手を翳し、何か魔法を使った。しかしクロノはというと再び襲い来る体を中から吹き飛ばすような衝撃に目を見開き、声にならない声を上げて呻くしかない。
――そしてどれくらい経っただろうか。
突然、体と魂がぴたりと嵌ったような不思議な感覚と共に痛みが退き、頭がクリアになってだんだん手足の感触がはっきりとしてくる。
ゆっくりと立ち上がると先ほどまでの苦痛が嘘のように体が軽い。ありきたりだが自分のものでないないようだ。
「……成功したのか。」
どうやら『吸血鬼』化には成功したらしい。これでステータスの低い『骨人』や『屍人』になっていたら本当に笑えないことだ。
しかしこれでステータスは強化された。
焼け石に水とはいえ何もないよりよっぽどましだ。
変化が終わった時点でイベントが終わったということなのか既にダリアの結界は張られていない。
辺りを見回すと遠くまで吹き飛ばされたのであろうオーガキングが肩を怒らせてこちらへとずんずん進んでくるのが分かる。
クロノは手に抱えていたアルレシャを樹の根元にあった洞にそっと寝かせる。
「自分に【回復】をかけて少し休んでてくれ。あいつらは俺が引き付けておくから。」
アルレシャにそう告げると振り返ってダリアを見る。
ダリアは何だか呆けた顔で左手を右手で包むようにして突っ立っていた。
何だか珍しい表情だが今はそうもいっていられない。
「……ありがとうな。何とか力を得ることは出来たみたいだ。どこまでやれるか分からないけど言われた通り無様でも最後まで生き切ってやるよ。」
「あ、ああ。」
ダリアは気もそぞろといった感じだったがクロノはあまり気にかけず彼女とすれ違い駆け出した。
とりあえずオーガキングを挑発してここから離れる。まずはアルレシャから引き離さなければ。オーガキングが追って来ればその取り巻きのオーガ達もついてくるだろう。今ならオーガキングの攻撃を避けるくらい出来るはずだ。たぶん。
いや、やってみせる!
そう決意するとクロノは強化された脚力で警戒しながらオーガキングとの距離を一気に詰める。
とその時クロノとオーガキングの戦闘を阻むように煌めく光の壁が現れた。