ミリアムの場合:迷路の中
竹刀を左手に持ち三歩だけ前に出ると、蹲踞の姿勢から対面する相手と剣先を軽く交える。
面越しに見える相手の目は、部活動をサボってオンラインゲームの中に閉じ込められていた怠け者の私を叩きのめしてやろうという意欲で、激しく燃えているように見える。
今までの、勝つことに拘っていなかった私だったら、その悪意というか闘争心に満ちた感情がどうにも苦手で、戦おうという気力が萎えてしまうんだけど、今はちょっと違う。
なにしろゲームの中とは言え、閉じ込められて命が掛かっていた時だって何度もあったのだ。
あの場所で、私たちが経験してきた修羅場の数は一般人とは違うのだから、そんな試合に勝ちたいだけの闘争心なんて大したことは無い。
面倒くさい事になっちゃったな……
そう思いながら私は、審判を務める剣道四段を自慢する嫌な奴である尾野崎先生のかけ声を待っていた。
元はと言えば、私がクラブ活動をサボってオンラインゲームに入り浸っていたのが悪いんだけど、長い寝たきり生活からの学校復帰初日に10人と3本勝負なんかをやらせる師範なんて居ないでしょ普通。
普通なら、歩くのもやっとだと思うわよ普通なら……
幸いにも、私は走るのが好きで自主的に筋トレもやっていたから、退院してからの2週間程の自宅療養で普通に生活できるようになっていた。
そう、若いって本当に素晴らしい。
両親の勧めもあって小学校の頃からやっていた剣道だけれど、中学校に入る直前にずっと通っていた道場の師範が病気で倒れて、後継者もいないから仕方なく中学校の部活動で続ける事にしたんだった。
だけど、ちょっと信じられないくらいに、顧問の尾野崎という先生が嫌な奴だった。
強いか弱いか、出来るか出来ないかだけで生徒を篩に掛けて、出来る子には信じられないくらいに贔屓をする。
その代わりに出来ない子には目も掛けないと言う、とてもドライな、良く言えば割り切った態度を取る先生だった。
しかも、自分が生徒より強いことを鼻に掛けていて(中学生が現役の四段に勝てる訳が無いでしょ)、猫がネズミをいたぶるように小手を痛打したり、失神する子が出る程に面を容赦なく強打するような、とても嫌な奴だったのだ。
私は小学校低学年の頃から剣道をやっているから、当時から教えてくれていた師範よりも尾野崎が強くないことは見るだけで判る。
だけど、それで私が尾野崎に勝てるという訳ではないのが辛い処だ。
そんな私だけど、1回だけ尾野崎に面を決めたことがある。
まあ、偶然一度だけあると言うだけで、その後は失神する程何度も脳天を痛打されて、私は意識を失ってしまったんだけどね。
それ以来、相手の闘志だとか闘争心とか言うものを感じると自分から引いてしまうようになってしまったのは、尾野崎先生のお陰だと言うしか無い。
「はじめっ!」
尾野崎先生から発せられた開始の合図で、冷静に相手の闘争心に満ちた目を見返す。
自分でも驚く程冷静に相手を見ていられる事が、客観的に良く判った。
それを例えて言うのなら、勝とうという闘争心で血がカッカと頭に上るのではなくって、逆に血が下がるとでも言うような不思議な感覚だ。
周りの雑音が気にならなくなり、静かに集中している感じに近い。
相手の目を見るなんて言うけれど、そうじゃない。
どちらかと言えば、相手の全体を見ているようで見ていない感じなんだ。
なんて言うか視線は相手の顔なんだけど、漠然と相手の全身を見ているような静かな感覚だ。
尾野崎先生から一本取ったときも、この感覚になった時だった。
この感覚になった時には、何故だか相手が攻撃を仕掛けてくるタイミングが判る。
もう、これは理屈じゃなくて感覚的に「来る!」って感じるのだ。
そう感じた瞬間に自分で対処を考えるより先に体が前に出ていて、力みは無いけど良い音のする攻撃がスルッと出てしまう。
気が付くと勝っている、そんな不思議な境地に私は久しぶりに入っていた。
何故簡単に攻撃が決まるのかと言えば、自分が出ようと力を込めようとした瞬間に相手が先に出てしまうと一瞬体がパニックを起こして硬直してしまうらしい。
これが何時でも自由に出せるのなら、私は無敵なんじゃないかと思ったりもするけど、小学校の時の師範には見事に受け止められているから、絶対では無いみたいだ。
「―― 来る!」
小刻みに前後に動いている相手から、そう感じた時に私は竹刀を振り上げて前に出ていた。
「 え?」
前に出ながらも、私は軽いパニックに陥っていた。
今までそんな事は無かったのに、相手の動きも自分の動きさえも突然スローモーションに切り替わったように、とてもゆっくりとした動きに見えてしまったのだ。
重い水の中を踏み込んでゆくような、そんなもどかしい感覚の中で私の竹刀は、確実にゆっくりと相手の面を捕らえていた。
まるでテレビの科学番組で見るスローモーション映像のように、相手の面を正面から直撃した竹刀がグニャリと後頭部の方へと深く折れ曲がってゆく処まで、ハッキリと見えていた。
私の踏み込んだ前足が床を踏みつける小気味よい音が、広い武道場に大きく響き渡るのが聞こえると同時に、世界は元の速度に突如戻っていた。
「えっ! これって、ゲームの中のあれじゃない?」
この感覚は特別措置のパッシブスキルとして、ゲーム開発運営会社のエリクサー社から付与された防御スキルの中の一つと同じ感覚だった。
私の目の前で、膝から崩れ落ちる相手の下級生。
レギュラーメンバーになったからと言って、私や他の強くなれない上級生を馬鹿にして見下していたその子が、ガクリと崩れ落ちる姿を確認してから、私は一歩下がって一つ礼をする。
そして元の開始位置に戻りながらも、今の現象の事を思い返していた。
そんな筈が無いだろうと自分でも半信半疑ながら、そんな超人的な感覚はゲームの中でしか感じた事が無いと半ば確信していた私は、試しに頭の中で身体能力向上と加速を初級レベルの1で唱えてみた。
途端にゲームの中で使い慣れていた、あのスキルが発動する時のむずがゆいような感覚が、体を下から上へと駆け上がる。
「まさか、嘘でしょ…… 」
思わず、小さな呟きが私の口から漏れた。
もう解放されて退院だってしているのに、これはゲームの中で使っていた、あの魔法の感覚に間違い無い。
頭を振りながらもようやく立ち上がった生意気な下級生は、私ごときに見事に面を決められた事に納得が行かないようで、さっきより強い闘志を剥き出しにして、それを隠さずに睨みつけてきた。
再び聞こえた開始の合図と共に、生意気な下級生が先制攻撃とばかりに突っ込んでくる。
だけどその動きは、さっきと同じようなスローモーションにしか見えない。
あの最初の時に感じた、研ぎ澄まされたような感覚は戻ってこなかったけれど、相手の動きがゆっくりと見えてしまえば達人の見切りを体得したようなものだ。
そう言えば、あの相手の攻撃がスローモーションに見えるスキルの名前も「見切り」だったわねと、思い返す余裕すら私にはあった。
加速スキルと身体能力向上スキルの効果は、すぐに体感する事ができた。
見切りスキルの発動で感じていた、重い水の中を動くような感覚は少しだけ薄れて、さっきよりも軽く動けるように感じたのだ。
出小手から面へと繋げる一連の動作も、流れるように体が動いて反応する。
相手がゆっくりと動いて見えるから、多少の軌道修正だって自由自在だった。
スパーン!と面を打ち抜く良い音がして相手は右手を押さえて蹲ったまま動かない。
そりゃあそうだ。
常人の力で打たれた以上の衝撃に襲われれば、普通の人間がどうにか出来る訳が無い。
尾野崎先生は、メンタルが弱いはずだった私の変貌ぶりに言葉も出ないのか、目を見開いてポカーンとした顔をしていた。
「ば、馬鹿者ぉ! それくらいで戦意を喪失して強くなれるか!、お前は今日からレギュラー取り止めだ! 邪魔だから下がってろ!」
だけどすぐに気を取り直したらしく、蹲ったままの敗者に対して相変わらず情け容赦ない尾野崎先生の態度と言葉に、何故か私の方が妙に腹立たしく感じてしまう。
「次だ、次行け! こんな怠け者のサボり魔に負けてどうする、泣いて反省するまで根性を鍛え直してやれぃ!」
尾野崎は、口から泡を飛ばして次の部員に指示を飛ばしている。
もう先生なんて呼んでやるのは止めた、あなたは先生なんて器じゃないわ。
「怠け者のサボり魔を鍛え直すって、やっぱりこれは指導じゃなくって制裁だったんですよね…… 」
私は、小さくそう呟く。
それならそれで、私だけがスキルを使う事に遠慮する必要もないって事で、逆にスッキリと踏ん切りが着いた。
私の事を普段から馬鹿にして、雑用ばかりを言いつけていたのは、残り4名だ。
私だけではなく、実力があるのに尾野崎に疎まれて非レギュラーだった他の部員の事を、普段から存在していないかのように露骨に無視していた5名のレギュラー部員全員を、続けて私は叩きのめしてやった。
そして、私は尾野崎の方を向いて言ってやった。
「尾野崎先生、次は先生がサボり魔の私を鍛え直す為に練習をつけてください」
「お、おう、覚悟しろよ俺は手加減せんぞ!」
尾野崎は私にそんな事を言われると思っていなかったのか、ちょっと狼狽えていた。
それを見た私は、いけないと思いながらも面の奥でほんの少しだけ、意地悪い笑みを漏らしてしまう。




